十三.麟ノ国第二王子セイウ(弐)


「放せカグムっ、放せ!」


 広間の騒動は都の路地裏に身を潜めていたティエン達にも、しかと届いていた。


「落ち着いて下さい。ティエンさま」


「これが落ち着ける事態か! ユンジェがっ、このままではユンジェがセイウ兄上にっ」


 カグムに押さえつけられるティエンは、とても、とても後悔していた。

 なぜ、あの時、嫌がるユンジェに賛同してやらなかったのだろう。説得に回るのではなく、同意していれば、こんな事態は招かなかったのに。


 ああ、まさか南の紅州に麟ノ国第二王子セイウがいるとは。

 あれは我儘な男。狡い男。そして動くことを嫌う男。王都と東の青州を行き来する以外、あまり外には出ないというのに。


 大通りの方に耳を傾けると、行き交う王族の兵が騒いでいる。麟ノ懐剣を抜く子どもが現れた。麒麟の使いが見つかった。セイウさまの時代が来るやもしれない――と。

 兄の懐剣を抜いたために、ユンジェが連れて行かれてしまう。何が遭っても、手放さないと約束したのに。


「申し訳ございません、ティエンさま。大口を叩いておきながら、この不始末。すべて俺に責がございます」


 片膝をついて、深く頭を下げてくるハオに目もくれず、ティエンは広間へ続く道を睨む。今すぐ、あの子の下に行きたい。兄から家族を取り戻したい。


「ティエンさま、どうか冷静な心をお持ち下さい。乱した心では、ユンジェは取り戻せません」


 カグムの諫めすら苛立ちの種となる。言われなくとも分かっている。けれども、相手は半分血を分けた兄。あれの獰猛さは誰よりもティエンが知っている。

 ティエンは拳で石壁を叩きつけ、身を震わせた。


「カグム、貴様とて分かっているだろう。セイウ兄上は歪んだ贅沢と、欲望をお持ちだ。金で買える物に飽きがきている兄上は、職人に宝石で花を作らせた。像が欲しくなると金銀でそれを彫らせ、地図が見たくなると織物で麟ノ国を描かせたこともある」


 それだけではない。

 美しい歌声を持つ女の噂を聞けば、宮殿に軟禁し、喉が潰れるまで歌わせ続けた。

 世にも珍しい色の髪を持つ人間がいると聞けば、その髪の束を切って、持ち主を惨殺した。他の誰かに髪が渡らないように。

 他国に木の精の彭侯ほうこうがいると聞けば、母に頼んで何百人の兵を動かした。


 セイウはたいへん欲深い。

 欲しいものは、どんな手を使っても手に入れる。


 なにより、あの男は優越感と快感に浸りたいのだ。国のどこを探しても、一つしかない物を己が持っている、その気持ちに酔い痴れたいのだ。

 麒麟の使いのユンジェはまさしく、彼の対象となる者。ここで奪い返さなければ、収集物コレクションにされてしまう。


「セイウ兄上の手に落ちれば、人間の尊厳をすべて奪われる。あの子は本当にただの物となり、人間ではなくなってしまうっ! 心を壊されてしまうっ!」


 ティエンの訴えにカグムが少しばかり、言葉を詰まらせる。彼もまた、セイウの歪んだ姿を知っているので、返す言葉に困ってしまったのだ。

 見かねたハオが横から口を挟む。


「そんなに、ひどいのか?」


「ああ。セイウさまが、単に贅沢者であるなら、どれだけ救われるか。あの方の欲には底がなく、それが国に一つしかない珍しい物であれは、赤子ですら収集物コレクションとする。邪魔な親を殺してな」


 ふたたび通りの方から、騒々しい声が聞こえた。


「子どもが麒麟の首飾りと、懐剣を持っていたそうだ。都に第三王子ピンインが潜伏している。探せ、見つけ次第、始末しろとのお達しだ」


 ティエン達の身が強張る。

 それはティエンの存在と、子どもが第三王子ピンインの懐剣であると知らせるものであった。



 ◆◆



 広場にいたユンジェは走っていた。

 その手にはティエンの懐剣が握られており、セイウから命を受けた兵達を止めるため、それで切り掛かった。

 集められた少年達が逃げまどう中、ユンジェは向けられる槍達に邪魔だと声音を張り、それらを懐剣で弾くと、懐に入って蹴り飛ばす。


 なぜ、こんなことになっているのか。

 時は兵達がユンジェを捕らえるところまで遡る。


 セイウの懐剣を半分ほど抜いてしまったユンジェは、麒麟の使いであると判断され、その場で取り押さえられた。


 兵達はとても乱暴であった。ユンジェが「使いにはなれる身分でありません」と懐剣を差し出し、セイウに訴えると、それを口答えと捉え、兵達は問答無用にユンジェの体を地に叩きつけた。

 王族の決定に、平民は有無言わせてもらえないようだ。


 少しでも動けば、髪や衣を引っ張られるわ。痛いほど押さえつけられるわ。逆らうなと怒鳴られるわ。散々な扱いを受けてしまう。

 広場に集められた少年達が、哀れむような目と、自分でなくて良かった、と安心した顔を作っていたのはとても印象的である。


 ユンジェの首から麒麟の首飾りが出てしまったのは、そんな騒動の最中であった。


「それは、王族が持つ麒麟の首飾り。王族の証。なぜ、貴方が」


 何かを察したセイウが、兵達にユンジェの所持品を調べさせた。

 それにより、腰に隠していた懐剣が見つかってしまい、己の正体が第二王子にばれてしまう。


 セイウはつくづく運が良いと上機嫌になった。

 自分の懐剣が見つかるどころか、父が血眼に探している愚弟の懐剣が手に入るとは、想像すらしていなかったと大笑いする。

 その機嫌のまま、セイウは兵達に命じた。都のどこかに、必ずや愚弟の第三王子ピンインがいるはずだ。見つけ次第、殺して首を取ってこい、と。


 それを父王に差し出せば、さぞお喜びになる。自分は懐剣も王座も手に入る。麒麟の使いの所有者は二人も要らない。

 セイウはそう言って、ユンジェを見下ろした。


 命令を聞いた瞬間、ユンジェは信じられない力で押さえる手から抜け出し、ティエンを探しに行く兵達の前に回って懐剣を抜いた。


「ティエンの首を取りたいなら、懐剣の俺を折ってからにしろ。あいつの下には、絶対に行かせない」


 そうして今に至る。

 ユンジェは囲んでくる兵の剣や槍に目を配り、すばしっこい動きでそれを避けて、時に懐剣で受け流し、叩き折って、懐に飛び込む。


 背後から槍を突かれると、腕で受け止めて、それを奪い取った。剣を振られても、飛び込む足は止めず、僅差で首に懐剣を刺すことが叶った。

 返り血を浴びたが、それを拭う気持ちは芽生えない。


 次は誰だ。災いとなる奴はどいつだ。

 ユンジェは大人の兵達を見据え、懐剣の刃に付着した血を舐めとる。化け物だとか、けだものだとか、極悪非道だとか、そんな言葉をたくさん浴びせられたが、関係ない。ユンジェの使命は一つ。

 ゆるりと口角を持ち上げる。


「ティエンを生かすためなら、俺はなんだってするさ。なんだって」




 静観するセイウは、これ以上に無いほど興奮していた。


「あれが懐剣の姿、麒麟に使命を授かった者の力っ! ふふっ、ふふふっ、あははっ! なんて子ども! あれほどの兵を相手取るなんて!」


 所有者を守るため、身も心も懐剣となる。常人離れした動きを見せる。

 あれは人間か。いや、人間ではあるまい。あの子どもはまぎれもなく、意思を宿した懐剣の化身だ。国のどこを探しても、そんな懐剣なんぞ見つからないだろう。


 セイウは舌なめずりをした。

 これまで様々な珍しい物に欲を持ってきたが、此度の物は今までになく興奮する。

 欲しい、あれがとても欲しい。欲望が抑えられない。宮殿に飾るだけでは物足りない。傍に置き、あの力を飽きるまで見せてもらわねば。


(伝承通りであれば、あの子ども――)


 ゆがんだ笑みを見せ、セイウは己の懐剣を持って子どもの下へ向かう。近衛兵達に止められるが一切、聞く耳を持たなかった。


「麒麟に選ばれし、使いの子どもよ」


 ユンジェが剣を弾いた時であった。

 兵達を下がらせたセイウが、此方へ歩み寄ってくる。

 迷うことなく懐剣で一線を描くと、簡単に懐剣で受け止められた。周囲がどよめく中、ユンジェはセイウを睨む。これを討ち取れば、ティエンの災いは消える。些少ではあるが今後の不安も摘まれる。兄のひとりを討てば、討ってしまえば。


 なのに、セイウと目が合った瞬間、体が固まった。

 体中の水分が吹き飛ぶような、そんな恐ろしい感覚に襲われる。ユンジェは目の前の男を畏れている。


「ふふっ。やはり、貴方は『王族』が討てない」


「う、討てない?」


「ええ、そうですよ。貴方は『王族』が討てないのです」


 麒麟の使いは所有者に関わる使命を背負い、懐剣としてそれを守り抜く。その使命を邪魔する者は、誰であろうが、懐剣で切り捨てる。

 そう言い伝えられていると、セイウは笑みを深くして、ユンジェの懐剣を弾き、白い手を伸ばした。


「しかし、麒麟の使いにも逆らえないものが二つあるそうです」


 セイウはユンジェの顎を掴んで引き寄せる。

 なぜだろう、その手は振り払えずにいる。この王子を自分は傷付けられない。いや、傷付けてはいけない。


「ひとつは瑞獣の『麒麟』。当然ですよね、それが貴方に使命を授けているのですから」


 そしてもうひとつが。


「麒麟から加護を受けている『王族』だそうです。なにせ、王族もまた、麒麟から国を守るよう使命を授かっている者。愚弟から聞いていませんか? 我々は『平民』の貴方と違い、加護と共に生まれながら国を守る使命を授かっているのですよ」


 そして、その地位は一端の『平民』よりも『王族』の方が格段に上。


 そう、麒麟の使いは『王族』の隷属に過ぎないのだ。

 だからユンジェは『王族』であるセイウを殺せないし、傷もつけられない。何もできない。使命を授かった『平民』は、同じく使命を授かっている『王族』を超えられない。


 そう耳元で囁き、セイウは動揺するユンジェの頬に着いた返り血を、親指で軽く拭う。汚い、と呟く彼はその指をユンジェの唇に押しつけた。


「貴方は私に逆らえない。討てもしない。傷どころか、爪を立てることもできやしない。なぜなら私もまた、使命を授かる者。貴方と同じ者。いえ、貴方より地位が高い者」


 体が震える。どうしよう、自分はこの男に逆らえない。


「愚弟の懐剣など勿体無い。このセイウが貴方の価値を、最大限にまで引き出してあげますよ。小汚い姿を美しくして、ね」


 得体の知れない恐怖に駆られる。ユンジェはかぶりを横に振り、必死に嫌だと喚いた。自分はティエンの懐剣なのだ。彼を守ることができれば、それでいいのだ。


 他の懐剣になどなりたくない。なりたくないのに。


「さあ。受け入れ、平伏し、服従なさい。貴方はもう――私の懐剣です」


 成す術なく、ユンジェは両膝を崩してしまった。



 ◆◆




「リーミンには銀の簪が良い」


「いえいえ。リーミンには鼈甲べっこうの簪にするべきだ」


「綺麗では駄目だ。美しくなければ。リーミンの飾りは翡翠ひすいにしよう」


「いいえ。目立つ瑪瑙めのうが良いに決まっている。リーミンは華やかな色が似合う」



 今まで麒麟から使命を授かったことに、ユンジェは何の疑問も持たなかった。

 瑞獣はティエンを守ってほしくて、生きてほしくて、自分に使命を授けた。ユンジェも精一杯、彼を守り抜くことで、共に生きることができると信じていた。


 だから躊躇わずに懐剣を抜いていた。


 しかし。今、ユンジェは大きな疑問を抱いている。麒麟が授けた使命とは、そもそも懐剣とは、一体なんぞやと。


 麒麟はティエンを守って欲しいはずだ。


 なのに、なぜ自分は彼以外の懐剣を抜くことができたのだろう。

 全部は抜いていないが、半分まではしかと抜くことができた。到底、偶然とは思えない。


 懐剣を抜けなかった時期が自分にもあったからこそ、ユンジェは悩んでしまうのだ。どうして他者の懐剣が半分も抜けたのだと。麒麟は自分をどうしたいのだと。使命はどうなるのだと。


 ユンジェはセイウなど、これっぽっちも守りたいなんて思わないのに。


(ただ、セイウの懐剣を抜く時はティエンと違った。ティエンの懐剣を抜く時は、半分抜くだけで、激しい衝動に駆られた。気分が悪くなった)


 でもセイウの時は、何事もなかった。普通であった。


 これは嫌がらせだろうか。

 瑞獣がそんなつまらないことをするものだろうか。頭がこんがらがる。よく考えれば考えるほど、答えが沼に沈んでいく。


(ティエン。なんで『王族』が討てないことを、俺に教えてくれなかったんだよ)


 ユンジェは心中で涙ぐむ。

 それを知っていれば、適当に兵を蹴散らし、とっとと自分もトンズラしていたのに。ティエン達と合流するため、所有者を傍で守るため、足が千切れるまで走っていたのに。


 ああ、でも彼のことは責められない。

 きっと、ティエンは知らなかったのだろう。彼は離宮で幽閉されていた者だから、王族の伝承の知識に穴があってもおかしくない。知っていれば、早々にユンジェに教えてくれるはずだ。


(これからどうしよう。セイウの懐剣にはなりたくねーけど、謀反兵達と比べものにならないくらい、王族の兵は多いから逃げる隙がないんだよなぁ)


 腕を組んでしかめっ面を作っていると、髪を結っていた男が窘めた。


「リーミン。動かないで。俯かないで。眉間に皺を寄せないで。美しくできない」


 さて。ユンジェの周りは大変慌ただしい。

 やれ衣だの、靴だの、装飾品だの……従僕や侍女はそれらを運びながら、リーミンを美しくするために忙しなく動き回っている。


 謂わずも、『リーミン』とはユンジェのことである。セイウによって、半ば強引に改名されてしまったのだ。


 彼はユンジェの名を知るや、響きのない名だと酷評し、所有者に相応しい名でいてもらわなければ困る、との理由で新たに『黎明リーミン』と名づけた。


 曰く、麒麟から使命を授かった使いの出現は、新たな時代の兆しとも云われているらしい。だからリーミンだとか。


(俺はユンジェなのに)


 この名は死んだユンジェの両親が付けてくれたので、とても誇りに思っている。リーミンなど冗談ではない。

 でも、このままでは本当にリーミンになってしまう。


 ユンジェは陶ノ都で一番美しく、華やかだと謳われている客亭かくていに身を置いていた。


 捕らわれている、と言った方が正しいだろうか。


 セイウを前に何もできなかったユンジェは、今度こそ兵に取り押さえられ、抵抗も虚しく連行された。


 天の次に偉い王族に刃物を向けたのだから、薄暗い牢にぶち込まれ、身に余るほどの罰を受けると覚悟していたのだが、セイウはそれをしなかった。


 それどころか、懐剣のユンジェを丁重に扱い、美しくしろと従僕達に命じた。己が持つ懐剣なのだから、人に見せびらかしても恥ずかしくないものにしたい。

 なにより、収集物コレクションを疵つける趣味はないとのこと。宮殿に飾る気持ちも強いらしく、どのように飾ろうかと考える素振りを見せていた。


 一体、人をなんだと思っているのだろう。

 ユンジェは飾られる己が想像できず、身震いしてしまう。宮殿に飾られるとは、どのようなことをされてしまうのだろう。紐で吊るされるのだろうか。干し芋を作る時の、芋のように。


 これならば牢にぶち込まれた方が、まだ気分も良い。


 とにかく。セイウは今のユンジェを不満に思っている。

 それは見た目も然り、名も然り。なによりも汚いことが許せないらしく、従僕や侍女に告げた。


「夕餉までにリーミンを美しく磨くのですよ。でなければ全員、指を二本、私に差し出してもらいます。ああ、安心して下さい。手か足か、それはあなた方に選択肢を与えましょう」


 ただの脅しだろうに、周りの者達は真剣となった。

 その様子から察するに、セイウは本気で指を頂戴する男なのだろう。みながみな、目を据えてユンジェを美しくしようとした。我が身可愛さなのは一目瞭然であった。


 そんなこんなで、客亭に着くやユンジェは小部屋へ連れて行かれる。


 まず、そこで眉や髪を整えられた。

 路銀のために、伸ばしていた髪は侍女達にして見れば、まだ短く見えるようで、ちゃんと髪を伸ばしていくよう注意を受ける。


 それが終わると、湯殿に運ばれた。

 ユンジェはそこで、とんでもない目に遭ってしまう。


 なんと、赤の他人に真っ裸を見られた上に、隅々まで洗われたのだ。


 農民であるユンジェは、湯に浸かる生活を送っておらず、基本は桶に張った湯で体を拭き、髪を洗って終わる。勿論、それは一人ですべてしてしまう行為。


 だからユンジェは目をひん剥いた。

 まさか、初対面の他人から体を洗われるなんて想像すらしなかったのである。勘弁してくれと思った。従僕達に何度、ひとりで出来ると主張したか。一生分の羞恥をここで噛み締めたと思う。


 更にユンジェは長時間、湯に浸けられた。体を洗れては湯に浸けられ、髪を洗われては湯に浸けられ。

 綺麗になったところで今度は美しくすると、芳香湯を作り、花の香りが体に染みつくまで浸けられた。


 上がる頃には、すっかり湯あたりを起こしていた。本当に殺されるかと思った。


 だが、大人達は容赦がない。

 湯殿から上がらせたユンジェを休ませることなく、体に香油を垂らすと、全身をよく揉んで磨いた。もう抵抗する元気もなかった。


(まだ、頭がぼーっとする)


 派手な姿見の前に立たされたユンジェは、生まれて初めて美しい衣に身を包んだ。


 触り心地の良い絹の衣に、銀の刺繍が入った帯。足を包む柔らかな靴の心地よさには、思わず飛び跳ねたくなる。


 実際に試しそうとしたら、従僕や侍女から頭ごなしに怒られてしまったことは余談としておこう。


(しかし、絹は軽すぎて変な感じだ。とても動きにくいし。股の割れていない衣なんて初めてだ)


 肩から足先まで繋がった衣は、とても長く、うっかりすると裾を踏みそうである。走り回ることは難しそうだ。


(うへえ。これが俺……なんだか、他人のようで気持ちが悪いな)


 鏡の前の己が立派になっていくので、ユンジェは贅沢の力とはすごいものだ、と他人事のように思った。こんな自分、見たことがない。


 呪詛のように従僕が、侍女が、みなが唱える。


「美しく。もっと美しく華やかになりなさい。リーミン、お前はセイウさまの懐剣なのです」


「麒麟の使いの名に恥じない姿となりなさい。セイウさまの名に恥じない振る舞いをしなさい」


「すべてあの方に捧げなさい。お前は王座のしるべなのです」


「ユンジェの名はこんにち付けで忘れなさい。これからはリーミン、お前はセイウさまからリーミンの名を賜った者」


 紅で目元に曲線を描かれ、結った髪に瑪瑙めのうの玉がついた簪を飾られ、帯には扇子をたばさまれる。

 ユンジェはそこにティエンの懐剣もたばさんだ。幸い、これは取り上げられずに済んでいる。否、セイウは取り上げることを拒んだ。


 なぜなら、これには麒麟の加護と使命が宿っている。下手に取り上げでもしたら、王族のセイウですら身が危ぶまれるとのこと。


「使命を授かった懐剣は、その使命と共に生き、その使命と共に終わりを迎えると云われています。それを邪魔するようなことがあれば、必ずや天が裁きを下すことでしょう。リーミンから懐剣を手放させるには、所有者の愚弟を討つしかないのです」


 そのようにセイウは言っていた。

 そういえば以前、カグム達が取り上げようとして失敗しているところを、ユンジェは目の当たりにしている。あれは天の裁きだったのだろうか。


(まっ、ちゃんと警戒はしてくれているけど)


 布に覆われ、紐で何重にもかたく結ばれている懐剣に目を落とす。刃物がない限り、これは解けそうにない。



「リーミンの支度はできたか。セイウさまが、首を長くしてお待ちしている」



 仕上げとして丁寧に爪を磨かれていると、兵が迎えにきた。


 セイウの近衛兵を任されているチャオヤンという男であった。

 歳は二十後半から三十前半辺りだろうか。肩幅の広く、がっしりとした体躯をしている。背丈も竹のように高い。一対一になったら、まず勝ち目はないだろう。


 近衛兵は従僕達より身分が高いようで、周囲の人間は深く頭を下げていた。さすがに膝はつけていなかったが。


 チャオヤンはユンジェの身なりに、ひとつ頷いた。


「見違えたな。それならばどこに出しても恥ずかしくない。誰もお前を農民とは思わないだろう。さあ来なさい、リーミン。セイウさまが懐剣のお前を待っている」


 ユンジェは内心、恨めしく嫌だと反抗した。誰がセイウの懐剣になるものか。


(それに俺はユンジェだってば。リーミンじゃねーよ)


 あまりリーミン、リーミンと呼ばないでほしい。今は違和感で済んでいるその名が、己の中で馴染んできそうで怖くなる。そうなる前に逃げ出せれば良いが。


(ティエン。大丈夫かな……カグム達がついているから、ある程度は大丈夫と思うけど)


 兵士不信が出てなければ、の話だが。

 いやいや、今は自分の身の心配をするべきだろう。


 ユンジェは不慣れな衣の裾を踏まないよう、細心の注意を払いながら、チャオヤンの後ろを歩く。四方は兵で固められているので、振り切って逃げることは不可能だ。

 ここはおとなしくして、相手の警戒心を強めないようにするのが得策だろう。


 石英の階段を上がり、四瑞が彫られた大扉を通る。

 従僕と侍女が左右に分かれ、深く頭を下げて道を示す。その手には美しい刺繍の入った扇や、眩しいばかりの手持ち金銀灯籠が握られていた。


 それらにどういう意味があるのか、ユンジェにはまったく理解ができないものの、力の象徴であることは察した。


 ユンジェは見えてくる、美しくも冷たい男に顔を顰めたくなった。

 織金の敷物の上で片膝を立て、口角を持ち上げて己を待つ姿が、とてもとても腹立たしい。なんで、自分はあの男に服従しなければいけないのだ。ああもう、このようにした麒麟に恨み言をぶつけてやりたい。


「ふふっ。これは驚きましたね。リーミン、貴方は本当に宝石の原石だったようで。まるで別人ですよ」


 立ち止まったユンジェは、兵達と共に頭を下げ、心の中で繰り返す。自分はユンジェ、ユンジェ、ユンジェ、だと。


「それだけ貴方は汚れていたんでしょうね。泥まみれの子猿がよくぞまあ、ここまで美しくなったものです」


 誰が泥まみれの子猿だ。

 ユンジェは放っておいてくれ、と投げやりになる。こちとら今日明日食べることで精一杯だったのだ。一々衣に金など掛けていられるか。それで腹が満たされるなら、喜んで衣に金を掛けている。


「まあ、ひとつ引っ掛かるといえば」


 チャオヤンに背中を押され、ユンジェはセイウの前で両膝をついた。頭を下げる間もなく、顎を掬われ、視線を『所有者』に留められる。


「顔に華がないことでしょうか。いくら磨いても、貧相は拭えないのでしょう。遺憾ではありますが、こればかりはどうしようもない。従僕や侍女を責められませんね」


 やかましい。セイウの顔に比べたら、誰だって貧相に見える。ユンジェは地団太を踏みたくなった。


(おとなしくしていれば好き勝手に言いやがって……お前より、ティエンの方が綺麗なんだからな。性格だってセイウより、ずっと優しくて、あったかいんだからな)


 本当に嫌になってくる。これの懐剣になる、なんて。セイウのために走りたくない、守りたくない、怪我なんぞ負いたくない。

 ユンジェは冷たい目から逃れるように、瞼を下ろして、きゅっと力を入れた。


「私がいつ、目を逸らして良いと許可をしましたか? リーミン」


 目を瞑ることすら、自由が無いのか。

 セイウに咎められ、ユンジェはそっと瞼を持ち上げた。愉快そうに己を見つめるセイウが、そこにはいた。すっかり所有者の顔である。


 思わず、眼光を鋭くして相手を見つめ返す。怯えるとでも思ったか。

 残念、ユンジェの心はまったく折れていない。敗北こそしてしまったものの、こんなことで屈するユンジェではない。

 相手の目を見れば見るほど、気持ちが固まっていく。絶対に逃げ出してやる。


「リーミン、ここで服従を示しなさい。みなに私の懐剣であることを示しなさい」


 嘲笑ってくるセイウに、ユンジェは衣を握り締めた。


(くそっ。こいつ、俺の心を読んでいるだろ)


 煮えたぎる感情を噛み締めていると知りながら、兵や従僕、侍女の前で服従を示せ、とは。

 本当に性格の悪い男である。半分でもティエンと同じ血が入っているなんて、にわかに信じられない。

 しかし、今は黙って従うべきだ。感情で物を考えると、見出せる隙すら棒に振ってしまう。


「セイウさま。恥ずかしながら、俺は学びを受けたことがございません。どうか、やり方を教えて下さい」


 さあユンジェ、賢い選択を取るために、ばかとなれ。

 第二王子がなんだ。服従がなんだ。屈辱がなんだ。根競べなら負けたことなどない。自分の長所は辛抱強いところだ。


 ユンジェはその場で平伏し、立ち上がるセイウに両手の甲を見せる。


 男は右の足でそれらを踏む。

 しかと踏まれていることを確認すると、足の甲に額を合わせた。どのようなことがあっても、自分は主君を裏切らない、主君に身を捧げると示すものらしい。

 きっと、これは公でする行為ではないのだろう。屈辱極まりない行為なのだろう。尊厳を傷付けられる行為なのだろう。


 ひしひしと感じる視線が、それを教えてくれる。


 けれど、いいのだ。


「リーミンはセイウさまの懐剣です」


 大丈夫なのだ。


「ユンジェの名を捨て、リーミンとして貴方様をお守りします」


 何も変わらないのだ。


「どうか。この身朽ちるまで、貴方様のお傍に置いて下さいませ」


 どんなに目に遭っても、ユンジェはいつだってそれに耐えてきた。今回も耐えるだけだ。

 すべてが終わったら、綺麗に忘れたらいい。美味い物でも食べて、嫌なことは全部忘れてしまおう。その未来を勝ち取るためにも、今は我慢だ。


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