十一.ピンインとカグムと、ティエン(弐)



 ◆◆



――へえ。お前がピンイン王子。呪われた王子って言われているわりに、ちゃんとした人間なんだな。えーっと、王子でいいんだよな? 王女じゃないんだよな? ……そっ、そんなに暗い顔するなって。ただ確認しただけだろう? 俺はカグム。今日からお前の近衛兵になる男だ。ああ悪い、馴れ馴れしくて。なんっつーか、敬語ってのが苦手なんだ。二人きりの時は見逃してくれねーか? 公の場では、ちゃんと敬語で話すから。堅苦しい空気は好きじゃなくてさ。ついでに、ピンインって呼んで良いか? 俺のこともカグムで良いからさ。



 はじめて、気さくに呼ばれた時、ピンインの名が好きになった。周りが己を蔑んでも、たった一人の人間に呼んでもらえるだけで、とても励まされた。


 今となってはピンインの名前など、ただの過去の名にしか過ぎない。今の自分は。



――あんた、天人じゃないの? 嘘だ。こんなにも綺麗な奴が、人間なわけがないじゃないか。俺を見ろよ。どっからどう見ても、泥くさい人間だろう? 土ばっかり弄ってるせいなんだ。しかし、声が出ないのは不便だな。俺、文字の読み書きできねーし。これじゃあんたの名前を呼んでやれねーよ。そうだ、声が出るまで俺が呼び名をつけていいか? 大丈夫だって。変な名前はつけない。そうだな。天人じゃないって言われたけど、あんた、それっぽいからティエン。俺、これからティエンって呼ぶ。どう?



 そう、ティエンなのだ。


 子どもから名づけられた名前は、とても心地が良い。

 この名前を付けられてから、自分は少ないながらも、かけがえのないものを手にした。家族ができた。弟ができた。友ができた。生きたいと自分から強く願うようになった。なよなよしていた己を捨て、強くなろうと思った。



 だから、これからもずっと――ティエンのままで。




 夜風が頬を撫でる。

 その冷たさに身震いをしたティエンは、ゆるりと瞼を持ち上げた。満目一杯に広がるのは、生い茂った藪と暗闇。何も見えない。自分はどうしたのだっけ。


 うつらうつらと顔を動かす。

 藪の隙間から、青白い月明かりが零れているのが見えた。

 振り返って目を引くと、微かに分かるカグムの顔。目と鼻の距離にあると気付き、肝が冷えていく。


 覚醒する。そうだ、自分達は急傾斜から滑り落ちたのだ。


 気を失っていたカグムが、小さな唸り声を上げて目を覚ます。

 急いで距離を置くティエンに対し、彼は身を起こして頭部をさすっていた。己を庇って落ちたにも関わらず、軽傷程度で留まっているらしく、「頭にコブができてらぁ」と、独り言をぼやいていた。


 起きて早々ティエンは混乱する。


 なぜ、彼は自分と共に落ちる選択をしてきた。

 あの夜は剣で斬りつけ、無情に谷へ落としたくせに、なぜ。分からない。自分の命を狙った男のことが、自分を守ろうと共に落ちたカグムのことが。


 足元に己の持っていた短剣が落ちていたので、それを右の手で取って身構える。


 ようやく己の存在に気付いたのだろう。夜目が強いのか、ティエンの持っている短剣を捉え、肩を竦めてくる。


「話をしたいので、まずそれは仕舞って下さい。落ち着きません」


 まだ、心が荒れ狂っていたティエンは近寄る彼に、怒声を浴びせた。


「カグム。貴様は一体、何なんだ。私に近付き、一体何がしたいっ」


「私の目的は、すでにご存知でしょう? 天士ホウレイさまの下へ、貴方様を連れて行くことです」


 そこではない。聞きたいところは、そこではない。

 ティエンはもっと、彼の内面的なところを聞きたいのだ。その心はいま、ティエンをどう見ている。


 一瞬の隙がカグムとの距離を許した。

 我に返って短剣を振り下ろすも、右手首を掴まれ、力強く握りつぶされる。短剣を落として痛みに身悶えるティエンを、彼は小さく笑った。


「非力な貴方様では、私を殺すどころか、傷をつけることすらできませんよ。離宮の箱庭育ちの王子の力なんて高が知れています」


「おのれっ、カグム。よくも……よくも……」


「貴方がどのように私を憎んでいようが関係ない、抵抗するなら腕を捻るだけです」


 それだけで勝てる、カグムは柔和に頬を緩めた。


 それが嘲笑だと気付いたティエンは、強く下唇を噛み締める。

 怒りのあまり腹が熱くなった。できることなら、今一度短剣を突きつけ、めちゃくちゃに切り裂いてやりたい。襲ってやりたい。癇癪を起こして、すべてを無にしてやりたい。


 しかし。自分は無力だ。王族の近衛兵だったカグムに勝てるわけがない。

 彼は近衛兵の中でも、腕があると名が挙がっていた男。彼の言う通り、箱庭育ちの自分が勝てるわけがないのだ。


 その現実がティエンを打ちのめす。


(くそっ……くそっ!)


 どうして、自分はこんなにも弱いのだ。憎き手を振り払うことすらできないなんて。


 ふと、脳裏にユンジェの姿が浮かんだ。

 そういえば、子どもは口癖のように言っていたっけ。自分達は弱い。大人に力で勝てるわけがない。

 だったら、頭を使うしかない。頭を使うしか――ティエンは左の手で短剣を拾うと、己の右腕目掛けて突き立てた。


 刃は衣を破り、腕の肉を切り裂く。あまりの激痛に悲鳴を上げそうになったが、必死にこらえ、深く突き刺していく。



「ばっ、馬鹿野郎が! 何してやがる!」



 表情を変えたのはカグムだった。

 まさか、己の腕を突き刺すと思わなかったのだろう。急いで短剣を突き刺す左の手を掴む。


 その隙を突き、ティエンは彼の体を押して、駆け出した。

 右腕は燃え上がるように痛いが、手を振り払うことに成功したので、とても嬉しく思う。ユンジェに言えば、大層呆れられそうだが、それでも意表は突けた。


 さらに痛みのおかげで頭が冷えた。

 カグムと戯れている場合ではない。カヅミ草を探さなければ。ユンジェの熱を下げなければ。急がなければ。


(まずは広い場所に出て星の方角を確認しよう。落ちたことで、私が今、山のどこにいるか分からなくなってしまった。これではカヅミ草を見つけても、小屋に戻れないのでは意味がない)


 ああしまった。松明を作ってから逃げ出せば良かった。前がよく見えない。

 藪を掻き分けていく。そこを抜けたところで、追って来たカグムに捕まった。己の足の遅さに舌打ちをしたくなる。


「ピンインっ、腕をみせろ。今すぐに!」


「私は急いでいるんだ。邪魔をしてくれるな、カグム」


 すると、足を払われ、尻餅をつかされた。何が何でも腕の傷をみるつもりらしい。

 もう短剣の手は使えない。他に手を振り払う方法は無いか。目で周りを確認していると、「俺の負けでいい」と、カグムが声音を張って片膝をつく。


「今の駆け引きは、お前の勝ちだ。だから、腕の傷をみせろ。お前まで傷が炎症して、熱で倒れられたら敵わねーよ」


 本当によく分からない男だ。

 先ほどまで煽ってきたくせに、今度は心配を寄せる。それが不気味であったり、戸惑いを抱いたり……訳が分からないのひと言に尽きる。


 彼は半ば強制的に、ティエンの衣を破ると、月明かりを頼りに右腕の傷の具合を確かめた。

 簡単になら応急手当ができるようで、己の飲み水で傷口を洗うと、外衣を裂いて細くした。


「これをハオが見たら、どやされそうだな。馬鹿なことをしやがって」


 正気の沙汰ではない。止血する彼が苦言した。それがとても愉快だったので、ティエンは鼻で笑い、口角をつり上げる。


「貴様が言ったんだろう。抵抗するなら腕を捻ると。だったら使えないようにしようと思ってな」


 それが使えなくなれば、捻られてもなんの問題もないだろう? ティエンが疑問を投げると、カグムの眉間に皺が寄った。


「お前はっ、何をどうしたら、そんな考えに至るんだ。馬鹿にも程があるだろ!」


「その馬鹿に意表を突かれた、貴様にだけは馬鹿と言われたくない。大体、なんで私と共に落ちたんだ。気色の悪い。さっさと突き落として、見捨てれば良かっただろう」


「おいおい。俺がいつ突き落とした。あれはお前が襲ってきたからだろうが。俺はあの時、暴れるなっつったよな?」


「私の邪魔をしたのは、貴様ではないか。せっかく見つけたカヅミ草も見失ってしまった。しかも遭難だ。どう責任を取ってくれるんだ」


「俺の忠告を先に無視したのは、お前だろうが。ピンイン」


 怒りを見せるティエンに、カグムも苛立ちを見せた。

 あまりにも言うことを聞いてくれないので、敬語で話すことすら忘れている。昔からそうだ。この男は敬語での会話を苦手としていた。堅苦しい会話や空気を嫌っていた。


 いつから、カグムはそれを好むようになったのだろう。


 裏切られたあの夜も、再会した今も、彼は努めて敬語で話す。言葉を重ねるごとに、崩れることも多くなったが基本的に敬語だ。余所余所しい態度は表裏を感じる。


 と、彼が深いため息をついた。


「ったく……ピンイン。お前がおとなしくしていれば、こんな事態にはならなかったんだよ。箱庭で育った王族のお前は弱いし、足手まといなんだ」


 下々に任せろと言った言葉には、そういう意味も込められていたのだとカグム。

 もし、王子がおとなしく小屋で待っていれば、このような面倒な事態に発展しなかった。慣れている者が動くべきであったのだ。


 止血を終えた彼はティエンの肩を掴み、現実を突きつける。


「今のお前は、少々自分を過信している。道を引き返した時もそうだ。なんで、自らの手で兵を討った。俺達に任せれば良かっただろうが」


 誰の手も借りず汚れ役を買うことで、成長と強さを誇示したかったのか。意地を張ろうとしているのか。

 だったら、なんの自慢にもならない。ティエンのしたことは、ただの人殺し、強さの象徴ではない。王族にすることではないのだ。カグムは語気を強めた。


「今まで箱庭にいたお前は、少しできるようになったからって勘違いしているんだよ。ピンイン、お前は弱い人間なんだ」


 静聴していたティエンは小さく噴き出す。この男は何を言っているのだろう。


「カグム。貴様こそ何を勘違いしている。自慢? 意地? 私はただあの子と生きようとしているだけだ」


 兵をなぜ討ったか? 決まっている。討たなければ、自分とユンジェの身が危なくなるからだ。

 なぜ、動き回るか? 勿論、あの子を救いたいためだ。

 弱い? 百も承知だ。ティエンは弱い人間だ。足手まといだということだって知っている、


 カグムに言われずとも、すべて分かっている。

 ティエンはとても弱く、力のない人間だ。それでも足掻かなければ、何も得られないと知っている。


「私は己の力量を知っている。だから事あるごとに工夫しているんだ。それを過信とは……私をなんだと思っているんだ」


 何もできない人間とでも? ああ、そうだ。この男はそう思っていることだろう。


「確かに、私は今まで知らなかったよカグム。食事は待っても、誰も与えてくれない。喉が渇いても、水は降ってこない。起きたところで美しい衣を着せてくれる人間などいない」


 そういう生活にいたティエンは、本当に何も知らなった。自分がずっと生かされている、ということに。


「そうだ、私は生かされていることすら知らなかったんだ。これが貴様の知る第三王子ピンインだ。哀れだろ、無様だろ、扱いやすかろうっ……まんま生きた人形だっ!」


 ティエンは握り拳を作る。

 振り返っても、あの頃の己は手間も世話も焼かせることなく、誰彼にうんっと頷くばかりの人間。さぞ扱いやすい人間だったことだろう。ああ、なんて、つまらない人間なんだ!


「そんなピンインにお前がトドメを刺し、ユンジェがティエンを生んだ。あの子はいつも言ってくれたよ。何もできない私に、『ティエンならできる』と」


 ティエンは本当に何もできない人間であった。

 火の熾し方も、刃物の使い方も、針に糸を通すことすらも。何もかも王族だとか、身分だとか、危ないだとか、なにかと理由をつけては遠ざけられていた。


 そんなティエンはユンジェと暮らすことで、自分自身のことを知る。不器用であることも知ったし、無知であることも知った。何もできない人間だと痛感した。


 しかし、ユンジェは『やったことないだけだろう』と笑い、事あるごとに生きる術を教えてくれた。

 上達すると褒めてくれたし、できなかったらできるまで丁寧に教えてくれた。やればできる人間だと自信もつけさせてくれた。


 だからティエンは、何もできない人間から、やればできる人間になった。誰かに生かされる人間から、自分で生きようとする人間となった。

 力が無い、だから嘆くではなく、無いからよく考えて動くようになった。


 それが今のティエンだ。顔色ばかり窺うピンインなんぞ、もうどこにもいない。


「あの子と生きたいから、私は汚れたことでもなんでもする」


 それに成長だの、強さだの、できるようになっただのと綺麗ごとを述べるつもりもない。少しでも生きたいから、生きようと足掻く。それだけだ。


「カグム、貴様とてそうだろう? 国を守りたかったから、自分が生きたかったから、私にトドメを刺したのだろう?」


 同じではないか、カグムとティエンのしていることは。それを過信だのなんだのと責められる覚えなどは無い。


 強く主張すると、圧倒されていたカグムが苦笑する。やがて、彼は脱力したように肩を落とすと、「扱いづれぇの」と悪態をついた。


「あの頃のピンインと、えらい違いだ。顔は変わらず綺麗なのに、口は強くて生意気。おまけに態度は悪いときた。いつも俺の後ろをついて回った姿がまるでねえ。可愛げがねえ」


「何が言いたいっ」


「べつに。ティエンのお前とは、ちっとも気が合わないと言いたいだけだ」


 カグムは己の着ていた外衣を取ると、ティエンの肩に掛けて紐で結んだ。


 それを取っ払う間もなく、彼は着ておけと命じてくる。

 夜の山は冷え込む。傷を負った者にとって、その冷えは体調を崩す原因になると説明し、彼はすくりと立ち上がった。


「時間がねえ。小屋へ戻る道を探す。その合間にカヅミ草も探すぞ」


 急に指揮を取られたので、思わず訝しげな顔を作る。

 そんなティエンに、「ユンジェが死ぬぞ」と、カグムは言って太い枝を拾った。それに裂いた外衣の余りを巻きつけると、貴重品の燐寸マッチを頭陀袋から取り出し、火をともした。


「あのガキに死なれちゃあ、俺達も困るんだよ。あれは麒麟から使命を授かった者。それがホウレイさまの手元にあれば、謀反も円滑に進む」


 二人の間に冷たい山の夜風が吹き抜ける。感情を押し殺し、ホウレイさまの手元の意味を尋ねると、彼は含み笑いを浮かべた。


「あれは玄州に着き次第、ホウレイさまに献上する。そうしたら、お前はおとなしく謀反に乗ってくれるだろう?」


「ユンジェを物のように扱うつもりかっ、貴様」


「お前の懐剣になった時点で物になったも同じだろう。あいつは自分が人間であることを、時々忘れるみたいだからな。人間だと思うんなら、せいぜい所有者のお前が思い出させてやれよ」


 暗い山道を歩き出すカグムの嫌味ったらしい指摘に、反論の言葉が見つからない。間髪容れず、彼は言葉を重ねた。


「ピンイン。お前は王族だ。名を変えようが、農民を名乗ろうが、その運命からは逃げられねえ。早いとこ観念するんだな。俺はお前を何度も逃がすほど、甘くはねーぞ」


 通告か。忠告か。それとも警告か。

 いや、違う。これは宣戦布告だ。だったら、受けて立とう。誰彼に言われて流される人生など、もうまっぴらごめんなのだから。


「だったら、力づくで諦めさせてみろ。ティエンはピンインと違い、簡単には屈せぬぞ」


 ティエンとして宣戦布告を返すと、振り返ったカグムが目を細めて笑った。


「やっぱ可愛げがなくなったよ、お前。ティエンとは気が合いそうにねえや。けど、個人的には威勢があって良いと思うぜ。しごく人間らしいよ」


 彼が語気を弱めたせいか、ティエンの耳には途切れ途切れにしか届かない。


「まっ。ガキを献上されたくなかったら、俺の首でも討ち取るんだな。『ティエン』さま」


 これは語気を強められたので、しかと聞こえた。

 首を洗っておけ、と軽く返しておく。討ち取ることで未来が切り開けるのであれば、なんだってやってやるさ。なんだって。


「一つ聞く。カグム、貴様はなぜ国に逆らう側に回っている。私を討ったことで、クンル王から地位や名誉を授かっただろうに」


 返事が来るまで、しばし時間を要した。


「ピンインと過ごした六年間は、あまりにも長かった。良くも悪くも」


 前を向いて歩くカグムの表情は見て取れない。それでいい。見る勇気など持てなかった。


「俺はお前を斬ったことに後悔はしていない。天士ホウレイさまの下についたことも、一年間諜をしていたことも。そして、いまお前と再会していることも」


 まったく答えになっていない。

 自分に理解できぬよう、カグムが言葉を濁していることは手に取るように分かった。ああ、未練ったらしく、どこかで真実を知りたいと思う己がいる。いつか、彼の真実を知る日は来るのだろうか。


 ティエンは視線を横に流す。

 そこには、一輪のしるべの草が、風に身を揺らしていた。探し求めていたカヅミ草だ。急いでそれに近寄れば、点々した光が下の傾斜へ向かって続いている。


 下を覗き込めば、数え切れないほどのカヅミ草が集まっていた。花畑だ。

 ティエンは目を輝かせ、頭陀袋から布縄を取り出すと、近くの木に結び付けた。様子に気付いたカグムが、その縄を貸すように言ってくるが、「私の方が身軽だ」と返事して、腰に縄を巻きつける。


「おいおい。お前は怪我を負っているんだぞ。その腕で下に行くのかよ」


「引き上げる時は声を掛ける」


「そうじゃなくて……あーあ、行っちまいやがった。ほんと、ユンジェのことになると突っ走りやがって――お前、もしもユンジェを失ったら、どうなるんだろうな」


 布縄を伝って花畑に下り立ったティエンは、両の膝を折った。

 そこはとても幻想的で、月よりも明るく、松明よりも明度の低い光を放っていた。白い花弁達が、それぞれ発光しているカヅミ草は、まさしく『しるべ』に相応しいもの。


(これがユンジェの命を救ってくれる。私はあの子を助けられる)


 ティエンはカヅミ草を愛おしげに摘むと、衣の袖で軽く目元をこすった。



 二人が小屋に戻ったのは、明け方のことである。

 あまりにも帰りが遅いと思ったハオが、シュントウとライソウに馬で探してくるよう指示したのである。


 彼らはあっさりと、遭難したティエンとカグムを見つけ出した。

 曰く、しるべの草がいざなうように咲いていたのだとか。それを辿った先に、二人がいたそうなので、これは偶然なのか、それとも天の導きなのか。


 どちらにせよ、ティエンは無事小屋に戻ることができた。


 首を長くして待っていたハオは、二人の汚れ切った姿に大層驚き、尚且つティエンの怪我に対して、何をやらかしたのだとカグムに詰問していた。

 腕の傷は少々深かったようで、縫わなければいけないではないか、と怒声を上げていた。

 しかし。そんなことは二の次、三の次。優先すべきはユンジェだ。


 子どもは留守の間に、また熱が上がったようで、真っ赤な顔でうわ言を呟いていた。本当に危ないところまできているそうだ。


「ユンジェ。よく辛抱したな。もう大丈夫、熱を下げてやるからな」


 ティエンは煮詰めたカヅミ草の汁を、少しずつ子どもに飲ませた。

 それはとても苦いようで、一口飲むだけで咳き込み、ユンジェは吐きそうになっていたが、汁が無くなるまで口元に運び続けた。


 翌日の夕方になると、ハオの表情がとても明るくなる。子どもの額に手を当て、脈をはかり、呼吸を確かめて、ティエンに告げた。


「まだ熱は高いですが、安定しています。もう大丈夫ですよ。ガキは助かります」


 その瞬間、ティエンの全身から力が抜けていった。

 新たに煮詰めたカヅミ草の汁をハオに押しつけると、少し外の空気を吸ってくる、と言って小屋を出る。


 残されたハオは困惑した。


「外の空気って……ライソウ。ついてやってくれ。もう夕暮れだ。近くに獣でもいたら」


「待てハオ。すこし、あいつを一人にしてやってくれ。おおかた張りつめていた糸が切れたんだろ」


 止めたのはカグムだった。

 彼は苦々しく笑い、「あれは癖なんだ」と、肩を竦めて眠っているユンジェに目を向ける。


「あいつは何かあると、陰に隠れて泣くんだ。ピンインからティエンになっても、その癖は直ってねーな。よくもまあ、そんなんで簡単に屈しない、なんざ吠えられたもんだぜ」


「そういうお前は何かあると陰に隠れて、いつまでもぼんやりしているだろうが。辛気臭い面してよ」


 聞き手に回っていたハオは嫌味を投げ、押し付けられたカヅミ草の汁を木の匙で掬う。


「カグム。俺は他人に口を出さない主義だが、同志として助言しておくぞ――ちとお前は背負い込みすぎだ。黙っておくことが優しさだけじゃないと俺は思うぜ。寧ろ、そうされた方は『ずるい』って思うだろうよ」


 掬った汁を口に含んだハオは、苦味に顔を顰める。それを横目で見たカグムは、何も言わず、子どもの寝顔を見つめ続けた。




 外に出たティエンは、枯れ井戸の前で崩れていた。

 助かる、その一言に、内なるところで抱えていた不安や恐怖が消える。ああ、救われた気分だ。


(ユンジェが生きた。助かってくれたっ!)


 ティエンはユンジェと約束をしていた。強くなると、何か遭っても子どもを生かすと、守れるだけの男になると。


 だから約束を果たすため、懸命に足掻き、己のやれることはすべてやり尽くそうと思った。

 将軍カンエイが追って来るならば、それを撒こうと躍起になった。熱が下がらないなら、下げるためのカヅミ草を見つけようと夜の山に入った。


 大丈夫。助けられる。

 己に言い聞かせていた一方で、もしもの未来を想像して、恐怖していた。どこかでティエンは自分自身を信じることができずにいた。


「やればっ、できるじゃないか。呪われた王子だって……やれば……」


 弱くて情けなくて、何もできなかった自分が、約束を果たせたのだ。少しは自身を褒めてやってもいいのではないだろうか。

 なにより、助かってくれたユンジェに感謝したい。よくぞここまで頑張ってくれた。よくぞここまで。


 ティエンは枯れ井戸に縋り、気が落ち着くまで声を押し殺した。時期に目を覚ますであろうユンジェには、笑顔で「おはよう」と言いたいから。


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