エピローグ

 鳥のさえずりで目が覚めた。

 可愛い花柄のカーテンを透かした朝日が眩しい。ただ真っ白いだけの壁紙に囲まれた部屋で、そこだけに淡い色がついていた。家具は小さなタンスと机、それから簡素な鏡台があって、どれも白く塗られて隠れるように部屋に溶け込んでいる。

 眠る時以外カーテンは開け放たれていて、季節だけが勝手に移り変わっていく。その様はまるで映画館のスクリーンみたい。私は映画館に行ったことはないけれどなぜかそう感じた。

 ここに来て半年が過ぎた。半年という数字もカレンダーの数字を数えて始めてわかるくらい。毎日が大きな河の流れみたいにゆっくりと繰り返されていく。そのせいか、何時の間にか時間の経過を感じるのが苦手になってしまった。


 その間に何人もの人がこの部屋を訪れ、私と話をしていった。男の人。女の人。年老いた人。若い人。仲のいい友達もできた。その中でもここ最近になって頻繁に来るようになった女の人は、何というか……特徴的だ。

 美人なのにいったい何が気に食わないのか、いつも不機嫌そうな顔をしている。西洋人とのハーフのようにも見える小ぶりの顔と不釣り合いなストレートの黒髪。そしてブラウスの胸元を突き上げる立派な胸。黒いレザーのスカートから突き出した脚は柄の入ったストッキングに包まれている。しかし、何よりも彼女の外見を印象づけているのは、吊り上がった目の片方を覆う真っ赤な眼帯だ。モノトーンの服装の中でそこだけに強烈な色が入っている。その赤は彼女にとても良く似合っていた。


「今朝の気分はどう?」


 彼女が優しく話しかける。優しい人は大好き。でも、まだ人をうまく見分けられないから、誰を好きになったかわからなくなってしまう。こんなに特徴のある人はとても分かりやすくてありがたい。

 最近になって、この人はどうやら先生らしいとわかってきた。だから時々『先生』って呼んでみる。でも、ここへくるのは仕事のためではないと言う。じゃあ何のためにくるのかと聞くと、何も言わずに彼女は優しく微笑んだ。この人は私のことが好きなのかもしれない。だから来てくれるんじゃないかな。もしそうだったらいいなと思う。


「裁判の方は、まあ順当なところに落ち着いたわ。判例だと人格が交代している間に行われた犯罪の場合でもほとんどが有罪になってるらしいわ。交代人格にも責任能力の有無を問われるのよ。でも、貴女みたいに主人格ごと以前の人格が消えてしまうなんて症例は過去にないって……。半年間、経過観察してみたけど以前の人格が一度も現れなかったから、おそらくこのまま不起訴処分になるでしょうね」


 そう言って彼女は微笑んだ。話の内容は難しすぎてぜんぜんわからなかったけど、なんだか胸の辺りが苦しくてつい視線を落としてしまう。彼女は笑顔なのに……変なの。


「今日は午後に叔父様が貴女を迎えにくるわ。叔父様と言っても……ああ、詳しく説明してもわからないわよね。貴女の親戚で、ここへも何度か来ているわ。とても優しい人よ。その人が貴女の面倒を見てくれるわ」


 優しい人がくると言われたら、うれしくて顔がほころんでしまう。

 彼女は大きなかばんをベッドに置いて、ファスナーを開けた。


「さあ、このスーツケースに入るだけ荷物を持って行っていいわ。洋服とか靴とか、大事なものは忘れていかないように気をつけてね」


「友達は?」


 かばんに入るだけと言うのなら、ベッドや机は持っていけない。じゃあ友達はどうなるの? 時々意地悪なことも言うけれど私にとっては大切な友達だ。


「ここで知り合ったお友達? 残念だけど一緒には行けないわ」


 彼女の顔が曇る。仕方がないと諦めた私を彼女は優しく抱きしめてくれた。


「大丈夫よ。良い子にしていればそのうちまた会えるから。ちゃんとさよならを言うのよ」


 そのうちというのはいつ頃だろうか。夕ご飯の後くらいか、それとも眠ったあと朝になってから?

 私はそんなに長い間友達と離れるのがイヤだから、さよならは言わないことに決めた。


 先生と一緒に食堂で朝食を食べた。メニューはスクランブルエッグとベーコン。それとパン。ミルク。施設の菜園で採れた野菜のサラダ。

 味気ないと言いながら彼女は朝食を平らげてしまった。変な人。


 それから手伝ってもらって荷物をまとめると、身支度にかかる。秋らしいアースカラーのロングスカートとレースのカーディガン。それとお揃いのレースで編まれた幅広のチョーカーを首に巻いた。チョーカーは何だか息苦しくて好きじゃないけれど、これは優しい人に出会える魔法のチョーカーなのだ。人に会う時につけていないと魔法が解けてしまう。


 ロビーで施設の人たちとおしゃべりしているうちに迎えの車がきたらしい。男の人が近づいてきてみんなに挨拶した。


「久しぶりだね。前にきた時はずっと眠っていて話せなかったが、意識が戻れば戻ったで今度は裁判所命令でなかなか面会ができなくてね……。本当に役人は融通が効かなくて困る」


 その男の人は、文句を言ってるハズなのに嬉しそうな顔をして私に話しかけてきた。そして、私の両手を手のひらで包んでくれる。大きくて暖かくて、そして優しい手だった。

 私はこの日のために練習した台詞を口にする。


「お久しぶりです、叔父様。のえるです。よろしく、お願いします」


 本当に久しぶりなのかどうかよくわからない。でも、先生に言われたからそうなんだと思う。そう考えながら、優しいこの人のためにとびきりの笑顔を見せた。


 新しい家に行くと思っていたら、車は大きな建物の地下に入って止まった。エレベーターに乗るまでに白衣をきた人をたくさん見たから、ここもきっと病院なんだと思う。


「退院したら、まずここへ連れて行って欲しいと鷹村先生に言われていてね……」


 私にそう言うと、叔父様は病室のドアをノックする。ドアが開いて女の人が顔を出した。


「あらまあ、何度も来ていただいて……」


 その人は叔父様に向かって挨拶をすると、後ろにいた私に気がついた。


「のえるちゃん!」


 そう言うと女の人はいきなり私に抱きついてきた。びっくりして身体が固まる。でも、すごく優しくて温かかった。この人のことは聞いていなかったから、挨拶の練習はしていない。どうしていいのか分からずに慌てて周りを見回すけれど、もう先生はいない。


「今まで大変だったのね。鷹村先生に聞いたわ。気づいてあげられなくてごめんねぇ」


 そう言って女の人は私の背中を優しく叩く。泣いているような声だった。泣くのはすごく痛い時と何か大切なものを無くした時。親切な友達が私に教えてくれたことの一つだ。痛そうには見えないから、きっとこの人は何か大事なものを無くしたんだろう。


「のえるが来たのか?」


 病室の中から男の人が呼びかける。その声に誘われて中に入ると、声の主がベッドに横になっていた。硬そうな癖っ毛が長く伸びて、顔にはヒゲが生えている。その顔は絵本で見た神さまを連想させた。


「しまった! 昨日散髪行けばよかった!」


 彼は自分の顔を触りながら怒っている。怒っている人は泣いている人よりももっと辛いのだ。


「あんたが『まだいい』って言ったんじゃないの!」


 そう言って女の人が手のひらで彼の頭を叩いた。私はそれを見てびっくりする。

 私は神様みたいな顔をした彼にゆっくりと近づく。辛い人を叩いてはダメ。慰めてあげるべきなのだ。彼の頭を撫でようとしてベッドの脇まできたところで、彼は突然私の手を握った。叔父様のように大きくて温かい手。きっとこの人も優しい人なんだと直感した。


「格好悪いとこ見られちまったなあ」


 手を握ったまま彼が言う。

 私は頭を撫でられなくなったから、そのまま黙って俯いた。


「膝の関節を元通りにするための三度目の入院なんだ。あと少し我慢すれば普通に歩けるようになるぜ」


 彼の膝が元通りじゃない状態になってるのを想像してみたけれど、ぜんぜん思い浮かばなかった。もし、膝が反対側に曲がっていたなら、ベッドに腰掛ける時さぞかし不便に違いない。そう思ってシーツを捲って見たけど細い金属の棒が見えただけで膝がどうなっているのかよくわからない。


「何するんだよ、エッチだなあ!」


 彼がまた笑いながら怒った。でも私にはどうして彼がそんな顔をするのかわからない。


「ホントに覚えてないんだな……」


 彼の表情がとても辛そうなものに変わった。こんな顔をする時は良くないことを言っている時だ。ひょっとして元通りじゃない膝が痛いのだろうか。痛みで彼が突然泣き出してしまわないかと私はハラハラしていた。


「先生の話では主人格ごと再構築されているらしいんだ。だから、感情と理性のバランスがまだとれていない。会話はできるんだけど、こちらの言ってることが理解できているかわからないこともある。せっかく純次君に会いにきたのに、こんな状態で済まないね」


 後ろから男の人の声がする。

 じゅんじくん。じゅんじくん。じゅんじくん。じゅんじ……。

 声が頭の中で繰り返し再生される。私にはそれが何だかわからなかったけれど、なぜだか急に不安に襲われて彼のおでこに手を当ててみた。それから手首を触ってみる。そして胸に耳を近づけて鼓動を聞こうとした。


「どうした? 俺はちゃんと生きてるよ」


 生きてる……。


 その言葉を聞いた瞬間、頭の中でとても小さな火花が散った。いろんな色の小さな火花が真っ暗な頭の中で鮮やかに輝く。それはとても素敵な光景で……。そして私は 、理由もわからないまま自分の頬を涙が静かに伝っていくのを感じた。


「のえるっ!」


 彼が叫んで私を引き寄せる。その太い腕に抱きしめられながら、私は自分の涙の意味を考えていた。身体はどこも痛くないから、私も何か大切なものを無くしたのかもしれない。

 一体どこで何を無くしたのだろう。考えてみたけどわからない。

 でも、抱きしめられて彼の髪の匂いに包まれているうちにどうでもよくなってしまった。


◇◇◇


 車の助手席に揺られて季節よりも早く過ぎて行く景色を眺めながら、まるで私の人生のすべてとも言える施設での生活を思い返す。あの部屋にもう戻らないと思うと少しだけ不安だ。でも、これからの素敵な生活を思うと心は自然とウキウキしてくる。

 なによりも、一緒に行けないと言われていた友達と別れなくて済んだことが嬉しい。さよならを言わなくてホントに良かった。

 彼女たちは今もすぐ近くにいる。さっきからヒソヒソと話す声が聞こえてきて、そっと後ろを振り返ってみたらそっくりな制服を着た女の子が二人仲良く座っていた。


「純次君が無事で良かったぁ」


 友達の一人がのんびりした明るい声でしゃべる。彼女はとっても優しくて、ついでに胸が大きい。


「頑丈なところは良いんだけどね。付き合うにはちょっと頭が悪いかな。将来性がない男と付き合って出来ちゃった婚なんて、目も当てられないわ」


 もう一人が答える。彼女は美人で頭が良いくせにとっても口が悪い。


「でも彼、ちょっとカッコ良くない? この子もたぶん彼のこと好きなんだわ。急に泣き出したりして可愛かったわぁ! もう、感動しちゃってあたしまで泣いちゃったぁ」


「あなたはホント、安い女ね!」


 二人の会話が叔父様に聞こえてしまわないかとドキドキしていたけど、運転に集中していて聞こえないようだ。


「そんなだからあなたは馬鹿だ天然だって言われるのよ。どうしてパパはこんなアホ女に籠絡されたんだか。ホントに情けないわ。雄一君じゃなくて紗江が消えれば良かったのよ」


「ひどいよぉ、のえるぅ! それに雄一君だって、あんなになっちゃったけど消えてないよぉ。リセットされただけだよぉ! わあぁぁぁぁぁぁぁーん!」


 片方が急に泣き出した。私はびっくりして後ろを振り返る。


「大丈夫よ。この子は痛くないし何も無くしてないの。ただ悲しくて泣いているだけ。そういう涙もあるのよ」


 いつも意地悪な彼女が私にそう言う。今日の彼女はとても優しい。ひょっとして、チョーカーの魔法が効いているのかもしれない。私は嬉しくなって微笑む。


「あなたには一日も早く一人前になってもらわなきゃ……。パパが釈放されたらすぐに死んでもらうんだから。それまでに元通りになってもらわないと困るのよ」


「こんなになっちゃって元に戻るの? 記憶も残ってないんじゃない?」


 さっきまで泣いていた彼女はもうツッコミを入れている。嘘泣きだったのかな。


「身体が自由にならないんだから仕方ないじゃない! 消えずに済んだのは良かったけど、ずっとこのままだったらこの子に頼るしかないでしょう?」


「もういいんじゃない? パパを許してあげようよぉ」


「ダメよ! 私は貴女だって許してないんだからね!」


「しつこい女は嫌われるよぉ」


「黙れ、色情狂!」


 シートにもたれて揺られていたら眠くなってしまって、彼女たちの話も何時の間にか聞こえなくなった。

 目が覚めたらみんな仲直りしてることだろう。


     ー 完 ー

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トランス・ペアレント 孤児郎 @kojie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ