第十九話 眠れる森の俺 1

 ベッドはベージュ色のパイプと同色のプラスチックのヘッドボード、ブルーのマットレスで構成されていて、なんだか安っぽくて頼りない。淡いピンク色のカーテンが今は開け放たれていて、向かいに建つ内科病棟のコンクリートの外壁が窓いっぱいに広がっていた。

 ここは本来二人用の病室だが、今は一床しか入っていないのでまるで個室のようだ。

 鼻に酸素のチューブを通され包帯まみれで横たわっている純次は、集中治療室ICUを出てから丸三日経ってもまだ目を覚まさなかった。


「おい純次。俺の葬式が済んだばかりだっていうのに、お前まで死んじまったらシャレにならねぇぞ」


 昏睡状態の弟に、今日も俺はそうやって話し掛ける。


 マコ様の住居兼診療所だったマンションで、俺達はのえるの父親の襲撃に遭った。紗江の協力で父親を油断させ、奴の急所に噛み付いて……でも、噛みちぎることまではできなかった。

 自分の中の男の心が行動にブレーキを掛けたのだろうか。あるいは、のえるが未だに父親を愛していて、俺を止めたのかもしれない。

 傷はかなり深かったが、縫い合わせる程度の処置で済んだだろうと思う。奴が起訴される頃には怪我は治っているかもしれない。

 それに比べて純次の方は重症だった。恐らくは車で撥ねられて、マンションまで引き摺られて来たのだろう。その上、太腿にナイフを突き立てられたのだ。複数の肋骨と鎖骨、その他脚や骨盤の骨折と多数の打撲、そして太腿の動脈を掠めたナイフの傷が致命傷で、全部の手術と処置が終わるまで十二時間を要したほどだ。


 警察で事情聴取を受けた時に、のえるの母親が自宅で死んでいたと聞かされた。自殺なのか殺されたのかはまだわからないらしい。夫の娘への性的虐待を知っていたのかどうかわからないが、のえるを見る時の彼女の冷たい視線は今でも忘れられない。


 父親を倒した後、俺は縛られていたマコ様を解放して警察と救急車を呼んでもらい、瀕死の純次のもとへ駆けつけた。こう言うととても的確に行動したように聞こえるけれど、実際には縛られたままもがいているマコ様に気付くまで彼にすがって泣き続けていた……。

 バスルームの入り口に倒れていた純次はすでに相当の血を失っていたので、傷口を押さえバスタオルとドライヤーのコードで縛って止血した。もちろん俺は傷口を押さえていただけで、実際に処置したのはマコ様だ。

 バスルームでのたうち回る父親もマコ様が縛った。痛みと恐怖で暴れる奴を大人しくさせるために、頭や腹を何発も蹴ったのは内緒の話だ。

 それからパトカーと救急車が来るまでに、俺はマコ様の指示で意識が混濁している純次に繰り返し話し掛けていた。

 その時と同じ言葉を、ベッドの横でずっとかけ続けている。


 病室のドアがノックされ、見舞いの花束を持ったマコ様が顔を覗かせた。今日はピンクのブラウスに黒レースのペンシルスカート姿だった。脚は柄が入ったストッキングに踵の低いパンプスを履いている。


「貴方一人?」


「どうぞ。お母さんがさっき帰ったところです」


 純次の母親は、昨夜から病室に泊りがけで看病していた。俺は兄弟共通の友達として今日夕方まで看病を任されている。

 母親からすれば、俺は息子に大怪我を負わせた犯人の娘ーーということになるのだが、そんな俺の申し出を快く受けて看病を任せてくれた。さすが、俺たち兄弟の母である。


「貴方に聞きたいことがあるの」


「……警察に全部話しましたよ」


 マコ様が持ってきてくれた花束を花瓶に活けながら答える。


「いいえ。のえるとのことよ、雄一君」


 そう言って、マコ様は病室の隅に設えた小さなソファーに腰掛ける。

 それが彼女の配慮なのか、事件の直前まで話していた入れ替わりについて、彼女は触れてこなかった。


「以前、のえると貴方がお付き合いしてるって聞いたけれど、そうなったきっかけはなあに?」


「それは……」


 それは、祥子の話を聞いてしまってから俺が頭の隅に追いやって意識しないようにしていたことだ。


「乱暴されそうになったところを佐々木 雄一君に助けられたのは、本当はのえるじゃないの。クラスメイトの園田 祥子さんなのよ」


 ああ、やっぱり。祥子が言っていたことは本当だったのか。

 避けていた現実を突きつけられて俺の頭が混乱する。


「彼女はその事件の後、PTSDの治療のためにあたしの所に通っていたの。症状は幸いとても軽かったのだけど、以前から患者だったのえると偶然会ってね、クラスメイトだという気安さからか、自分の体験を詳しく話したのよ。話を聞いたのえるはそれを羨ましく思ったのでしょうね。まるで自分が王子様に助けられたかのように思い込んでしまったの。本当はのえると佐々木 雄一君の間に接点は何も無かったのよ」


 なるほど。祥子が『人生を盗んだ』と言っていたのはそういうことか。しかし、どうしてもわからないことがまだ残っている。


「のえるはどうして俺に嘘をついたんだろう」


「きっと、貴方に助けて欲しかったのよ。父親に虐待されている自分を……」


 しかし……。


「だったら入れ替わった俺の身体で父親に復讐すればいいでしょう? のえるに喧嘩の経験がなくたってバットでもナイフでも手近な武器があれば、あの変態親父を血祭りにあげられたハズだ」


 俺は疑問をぶつけてみた。しかしマコ様から答えは返ってこない。


「以前、電車で痴漢に遭った立花 のえるを駅まで迎えに行ったことがあったけれど、あれは貴方?」


 急に話題を変えられて少しだけ頭にきたが、仕方なく黙って頷いた。

 あの時、集団痴漢に襲われている紗江を連れて駅のトイレまで逃げたのだ。そして学校に電話したら、迎えにきたのがマコ様だった。


「これは警察にいるあたしの従姉妹から聞いたんだけど……もちろんオフレコね……立花家から押収された証拠品の中に、女子高生が電車の中で複数の男に襲われているDVDがあったそうよ。被害者が襲われる一部始終を撮影して依頼者に渡す闇業者があるみたい。それを発注したのはおそらく父親で、写っていたのは……娘の『のえる』だったの」


 それを聞いて思い至る。

 痴漢野郎はあの父親に雇われていたのだ。


「それから、本庄という苗字の現役政治家は文部科学大臣の本庄政臣だけなのだけど、末っ子は長女で三男はいなかったわ。貴方の復讐の相手も誰かが成りすましていたみたいね」


 デッキチェアに寝そべって、いやらしい笑いを貼り付けたソフトモヒカン男の顔が目に浮かぶ。

 そうか、あの顔を見たのは暴漢を殴った時じゃなかったのか。だとすれば電車か……おそらくあの集団痴漢の中に奴はいたのだ。偽物の犯人を用意して仇だと思わせたのか、記憶の中に埋れていた顔を俺が街で偶然見つけてしまったのか、そんなところだろう。

 何のことはない。すべてはあの痴漢野郎が用意した舞台で、俺はただそこで踊らされていたということだ。


「それでね、あたしが駅まで迎えに行った時、貴方は被害に遭ったのが『紗江』だと言っていた。でも、その場には貴方一人しかいなかったわ。そのDVDの映像でも、襲われている被害者はのえるだけだった。紗江という女の子は写っていなかった」


「そう……なんですか」


「驚かないのね」


 反応の薄い俺を見てマコ様が意外そうな顔をする。

 やっぱり、紗江は実在しなかったんだ。じゃあ、紗江とはいったいなんだったんだろう?

 俺だけが見た幻覚なんだろうか。それとも幽霊?


「でもね、実はあたし、彼女に会ったことがあるのよ」


「え?」


 俺は驚いて椅子から立ち上がる。


「紗江が……見えるんですか?」


 マコ様は眉根を寄せて俺の顔を見る。


「のえるがあたしの患者だった話はしたわね。あの子は隔週でカウンセリングにきていたの。ずっと以前から不安定な子供だったけれど、あんな家庭で育ったのなら無理もないわよね。その日、あの子はなんだかいつもと様子が違ってた。まるで別人のようなトロンとした表情とおっとりしたしゃべり方で、彼女がまだ小さかった頃の話をし始めた。そして、初めて父親に性的なイタズラをされてから、最近までどんな体験をしてきたかを語ったの。彼女はそれを自ら受け入れているとも言った。でも、それをのえるには言わないで欲しいと……。彼女は、自分を『紗江』だと名乗ったわ」


 マコ様はひと呼吸おいて続ける。


「初めは、のえるの演技かと疑っていたのだけど、カウンセリングを繰り返すうちにそうではないと思えてきたの。それからもときどき紗江は現れた。あたしは治療のために撮影したビデオをのえるに見せて症状を説明したわ。もちろん、性的虐待の部分は除いてね。だけど、勘がいいあの子は気付いてしまったの。自分が愛する家族からそういう扱いを受けていたことに……」


 父親から性的なイタズラをされていた。長い間それに気づかなかったばかりか、今でもそれは続いていた。彼女が受けた衝撃は果たしてどれ程のものだったのだろう。


「こういう症例を解離性同一性障害というのだけれど……」


 目を伏せていたマコ様が顔を上げて俺の目を見る。


「……多重……人格?」


 俺はずっと心の片隅に引っ掛かっていた単語を口にした。


「そう、俗にそう呼ばれているわ。よく知ってるのね? つまり『紗江』という女の子は、幼いのえるが自分の心を守るために作り出した交代人格だったのよ」


 俺を見つめるマコ様の瞳は、どういうわけか痛みに耐えているようにも見えた。

 ああ……結局はそういうことだったのか。

 俺はやっと理解した。紗江が幻覚でも幽霊でもないのなら……のえるが多重人格で彼女がその交代人格だと言うのなら、考えられる結論は一つしかない。


「貴方がバスルームに連れて行かれた後、声が聞こえてきたわ。陰湿で暴力的な父親の声と、貴方の必死な声、それから純次君の叫び声。その後、しばらくしてから貴方は妙に明るくておっとりした声でしゃべり出したの。まるで父親を愛しむような口調で。それは、聞き覚えのある紗江の喋り方だったわ」


「つまり……精神の入れ替わりなんてことは、初めから起こっていなかった。俺は本物の佐々木 雄一ではなかったということなんですね」


「貴方はびっくりするくらい冷静で論理的なのね」


 そう言ってマコ様は微笑む。


「これでもかなり驚いてますよ。ついこの間までは、自分の心が女の子と入れ替わったとか、元の身体が死んでしまって戻れないとか、そんなことで悩んでたんです。今だから言えますけど……彼女の心を殺した連中に復讐して、すべてが終わったら死のうとさえ考えていたんですよ。それが今度は『多重人格』ですか。ああ良かったと安心するべきなのか、それとも自分が本物の雄一ではなかったことを嘆くべきなのか、まるでわからないんです」


 話しているうちに、ゆっくりと感情が高ぶってくるのを感じる。

 俺は本当に冷静なのか? 自分が本当に代理人格だと納得しているのか? 俺は本当は何者なのだ? そう考えていくと急に胸が苦しくなって、自分が息を吸えていないことに気が付いた。急に身体がガクガクと大きく震えだす。マコ様が立ち上がって俺を支えて、優しく抱きしめてくれた。

 そして俺は唐突に思い至った。

 そうだ! のえるは?


「のえるの人格はどうなってるんだ?」


 マコ様の顔が目の前にある。彼女は悲しそうな目をしていた。


「それが、わからないの。最近までマンションにも来てたのよ。えーっと、佐々木 雄一くんが亡くなったのはいつ頃なの?」


 あれは確か……。


「三週間くらい前です」


 そう話すとマコ様の顔が曇る。そんなに表情に出てしまって、この人はカウンセラーとしてやっていけるのだろうか。余計なことをつい考えてしまう。


「あの子が来なくなったのも丁度その頃よ。ああ、でも勘違いしないでね。入れ替わって死んでしまったワケじゃないのよ。おそらく、のえるが死んでしまったと思い込んだ雄一君の人格……つまり貴方が、のえるの主人格が現れるのを無意識に抑制しているのかもしれない」


 それってつまり、俺のせいでのえるが出てこれないということなのか。


「でも、心配しなくてもいいわ。解離性同一性障害の場合は、交代人格の抱えている問題をカウンセリングで解決していくことで主人格との融合を図っていくの。時間はかかるかもしれないけれど、あの子はきっと帰ってくるわ」


 ああ、そうか。のえるが消えてしまったワケでも、俺が消えるわけでもないのか。

 それを聞いて、心の中のわだかまりが溶けてゆく。


「それから……」


 マコ様が付け加える。


「のえるの父方の親戚から連絡があって、貴方が成人するまで面倒をみてくれるそうよ。東京にある豪邸らしいから、うちのソファーよりもきっと寝心地はいいわね」


 俺は事件直後から、現場検証で自宅が使えないマコ様と一緒にウィークリーマンションで寝泊まりしていた。一つしかないベッドに一緒に寝ようと言ってくれる彼女の提案を断って小さなソファーで眠っている。いくら身体が女とはいえ、女性と一緒に寝るのは抵抗があった。もちろん他にも理由はあるのだが。そうでなくても、事件のせいで不眠症気味になっているのに……。

 そうか、のえるにはまだ行くところがあったのか。


 良かった。


 病室は柔らかい静寂に包まれ、俺はいつの間にかウトウトとしていた。しばらく黙って窓の外を見ていたマコ様が、おもむろに話し始める。


「ねぇ、雄一君。ええと、雄一君と呼んでいいかしら」


 純次のベッドの足元に寄りかかっていた俺は、はっとして頭を上げた。


「ちょっとだけ気になることがあるんだけど…」


 俺の様子を見てからマコ様が話し始める。


「あたしのマンションでお父さんのアレを噛み切ろうとした時の話なの。貴方は『紗江』の指示に従ったって言ってたけれど、それが気になってるの」


 そう言って彼女は少しだけ首を傾げる。

 一体何が言いたんだ?


「以前、貴方があたしに話した『痴漢に触られても平気な友達』って彼女のことでしょう? そんな紗江が『噛み切れ』なんて言うかしら? 彼女は父親からの性的虐待を受け入れるために生まれた交代人格だから、性的な行為に対する抵抗感が極端に少ないと考えていいと思うの。アレを噛みちぎろうとするほど父親に対して害意があったとは思えないのよ」


 マコ様はそこまでしゃべると俺を見つめて首を傾げる。まるで俺の顔に答えが書かれているとでも言うように。


「でも、あれは間違いなく紗江でしたよ。……っていうか、紗江じゃなかったら誰だって言うんですか!」


 そう言ってから、はっと思い浮かぶ。でもそんなことは……。


「ありえない……」


「どうしてそう思うの? 紗江はのえるの交代人格なのよ。タレ目でおっぱいが大きいという特徴は、のえるが貴方に植え付けたイメージかもしれない。だとしたら、のえるが紗江のフリをしていたとしても貴方にはわからないんじゃないかしら」


 確かに、紗江がどんな友達だったのか俺はのえるに聞いただけだ。

 しかし、そんな馬鹿なことが……。


「……あるわ」


 突然、女の声が俺の思考に返事を返した。

 顔を上げると、目の前に聖華女子の制服に身を包んだ少女が立っていた。


「だからこの女には近づかないでって言ったのに……。ホント、使えない彼氏ね」


 彼女がしゃべり始める。


「のえる……なの?!」


 マコ様が唖然とした顔で彼女を凝視している。何か言おうとしたがどういうわけか俺の言葉は音にならない。


「お久しぶりね、志摩子先生。最近はこんな殺風景な病室でカウンセリングするのが流行りなのかしら。私、こんな消毒薬臭い所はイヤだわ。次の予約日までにお部屋を直しておいてくださいね」


 目の前の彼女が答える。

 のえるはこんなしゃべり方をする女だったのか?


「貴方のレベルに合わせてあげてたんじゃない。そんなこと考えなくてもわかるでしょ? ああ、そうか。わからないからこんな事になっちゃったのよね。ホントにダメな彼氏だわ。粗暴で、馬鹿で、キレやすい……そんな性格だったからこそ、特別なステージを用意してあげたのに……。あんな簡単なことさえ満足にできないだなんて……ホントに呆れちゃうわ」


 のえるはそう言って両手のひらを天井に向けて顔をしかめた。

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