1-17.二人の攻防

 金の糸で細緻まで刺繍が施された垂れ幕、色硝子をはめ込まれた柱、青磁に銀で模様が記されている水瓶――見たことも触れたこともない豪華な調度品があちこちに点在していて、しかも蝋燭がふんだんにあるものだから、その輝きにカインの目はチカチカとした。貴族の家というのは、どこもこうなのだろうか。隣にいるノーラは平然としているのだから、きっと同じなのだろうと思いながら、柔らかい絨毯で転ばぬよう注意して歩く。


 人々に手を差し伸べる女神らしき人物を描いた天井画が丸い天辺に鎮座している場所まで来たとき、フィージィははじめて振り返り、こちらを向いた。


「食卓までご案内したいのですけれど、用意がありますの。少しここで待って下さいます?」

「構わないわ」

「ではカインさん、腰につけている剣を預かってもよろしいでしょうか」

「……わかった」


 それが礼儀なら仕方ない。やはりノーラの言った通りになった、が、どうやら胸衣は預けなくてすみそうだ。フィージィが手を叩くと、どこかより現れた小間使いの女数人が頭を垂れてこちらに手を差し出してくる。親鳥からの餌を待ち、口を開ける雛みたいな女たちをそのままにさせておくのは気が咎めて、腰にくくりつけた大剣を鞘のまま静かに渡す。お預かりします、とその重みを感じさせぬ声色で言う女たちは丁寧に剣を運んでくれて、それにだけは安心する。


 数個ある扉のうちの一つに女たちが消えたのを見計らってか、フィージィは軽く膝を曲げた。


「では、また後ほど」


 そう言い残し、違う扉に入っていく。応接間にしては大きすぎる場所にはなんの音もしない。よほど堅牢な作りになっているのだろう、外からも、扉からもまったく音が聞こえなくて、静かすぎるこの城にやはりデューがいる心象がわかない。雰囲気にどうしても落ち着かない中、ノーラが柱の一つに背を預けるのを見て口を開いた。


「ノーラはいつ気付いたんだ?」

「何が?」

「フィージィのことだ。呼び出されたときにか?」

「違うわ、その前ね。名前がちょっと引っかかってたから」

「名前?」

「フィージィは確か、多分、になるんだけど。何かの花の名前なの。天護国アステールでそのまま花とか樹木に関する名前を使うのは、貴族たちに許された変な特権だから。最初に言われたときには思い出せなかったけど、騎士団の出立があったでしょう、昼に。そこでピンとね」

「どうして話してくれなかった」

「必要だった? これ。今のあなたにそれほど重要なものじゃないと思うんだけど」

「必要も何も」


 頭の奥がしびれたような感覚を受けて、知らずのうちに次いで言葉を発していた。


「必要かどうかは、俺が決めたい」


 強張った声音に己でも驚いた。はっとしてノーラを見直せば、彼女は己が思う以上に真剣なおもてで少し沈黙した後、小さく首肯した。


「そうね。あなたの意思を無視した私が悪かったわ。ごめんなさい」

「いや。その、気を悪くしてしまったなら、すまない」

「謝る必要はないわ。あなたの意志から出た言葉でしょう? なら、私はそれを尊重する」


 さっぱりとした、それでも固い意志が込められた返答にはまるで誓いにも似た頑なさがある。ノーラはきっと口が硬いのだろう、己のことも気軽に話さぬ程度には。一瞬悩み、視線をさ迷わせてから、結局は斜めにいるノーラへ話しかけることしかできない。


「それと……フィージィには弟がいて」

「シェデュ=イグ・キュトスス。『閃風せんぷうのデュー』のことね」

「それも知っていたのか。デューの本名まで」

「組合で聞いたの。キュトススでは有名みたいよ。暗黙で、みたいだけど」

「誰も俺には話してくれなかった」

「本人が嫌がってるみたいだから。何か、彼から聞いた?」

「話をしてほしくない、としか」

「でしょうね」

「ほらまた。一人で理解している」


 ノーラは困ったように苦笑した。後でね、とノーラが人差し指をそっと唇に当てたと同時だった。


「お二方、準備が終わりましたので、こちらへどうぞ」


 年嵩のいった小間使いが、少し奥にある扉から出てきてこちらを見ている。ノーラに続いてそちらへ向かうと、何やら芳ばしい香りが漂っていることに気付いた。開けてくれた部屋の中に入れば、そこは食事処だった。そう呼ぶにはとても豪華すぎる部屋なのだけれど。


「ご苦労様です。後はあたくしがやります」


 中にはフィージィがいて、中央を占領する長すぎるとしか思えぬ机の右奥に彼女はいた。白い清潔な布がかけられた机の上には、銀でできた蝋燭台と共に麺麭ブケをはじめ、果物や魚などの料理があって、少し前のデューとの会話を思い出す。魚を分け与えるような貴族はいない。フィージィもその類だったのかと思うと、なんとなくがっかりした。それは身勝手な失望だと思い直し、軽く呼気を吐くにとどめたが。


「まずはこの度のお招き、至極恐悦です。イル・フィージィ」


 部屋に入り、数歩行ったところで立ち止まったノーラが頭を下げたものだから、慌ててカインも真似をする。敬礼はしなくてもいいのだろうか、と考えたが、とりあえず慣れているであろうノーラをなぞらえていけば、きっと間違いは起きないだろう。


 扉が静かに閉じられた音がして、ノーラが顔を上げるのを見計らってカインも頭を上げた。


「普通で構いませんのに」

「さすがに使用人がいる場所では面目があるでしょう、あなたにも」

「言われてみればそうですわね。さあ、どうぞ席へ。食事をしながらお話しすることにしましょう」


 フィージィが手のひらで示した真正面、カインから見て左側には椅子が二脚ある。一番奥にある席には誰もおらず何も置かれていないが、その椅子の作りは他の三つよりも豪奢だ。そこはフィージィとデューの親たるキュトスス公爵が座る場所なのだろう、とさすがのカインにもわかる。


 言われた通り、ノーラと二人で並んで座る。目の前に置かれた皿には、香草で着飾った焼き魚がいい香りを放ちながら食べられるのを待っている。その他にも芋と茄子を挽肉で和えて固めたものや、瓜や玉葱を四角に切った野菜の盛り合わせなどがあって、思わず唾を飲み込んだ。葡萄酒が充たされた銀のグラダレ筒盃フィッザよりもよっぽど立派な装飾をされているが、華美すぎてあまり好きになれそうにない。


「あら、魚。マスかしら」

「はい。新鮮なものが入ったと聞いたので。貯水池を守って下さって感謝しますわ、カインさん」

「いや……」


 それはデューへ、弟へかけてやる言葉ではないか。そう言いたかったけれど、彼との約束を破るわけにもいかず、カインは口ごもった返答しかできない。そっと机の上にあった食刺を掴もうとしたが、フィージィとノーラが両手を組んで肘をつき、その手を額に当てているのに気付いて手を止めた。


「『天体神クリウス』をはじめ、十二神からの糧を得られる喜びに感謝します。神々の恵みと英知に祈ります」

「祈ります」


 おごそかな二人の言葉がカインの記憶を呼び起こす。晩餐などで家に人を招き食事をとるときは、十二神へ祈祷を捧げるのが礼儀だったと。少しばかりの祈りが終わり、二人が目を開けた。祈っていないのがばれてしまうか緊張したが、フィージィは気付かなかったようだ。ノーラも何も言わないでいてくれたことに安堵する。


「それでは、食べましょうか」

「遠慮なくいただくわ」


 フィージィの言葉で動いたのはノーラで、彼女は銀の食刺と食刀を器用に両手で使い分け、魚を切りに入った。皿にぶつかる音がほとんどしないことに内心で驚きながら、食刀を上手く使えるかわからないことに気付いた。だから、一人用に分けられている野菜盛りを食刺で食べる。玉葱の辛さがイチジクの調味汁で上手く緩和されており、ほどよく胃を刺激してくれる。


 フィージィは当然のように豪華な杯を華奢な片手で持ち、軽く口をつけてからじっと己を見た。


「今回お呼びしたのは他でもなく、カインさんの殊魂アシュムについてです」

「俺の、殊魂」

「失礼ですけれど、カインさんの殊魂を少し調べてみました」

「どうやって?」

「血液で。垂れた血を採取させてもらいましたの」

「そんなことができるのか」

「はい。血液は殊魂の波動を帯びていますので」


 カインは神殿での出来事を脳裏で描き直し、そういえば手を強く握りしめていたことに思い至った。そこで血を垂らしたのだ。痛みは思い出せないままだったけれど、左の手のひらをそっと見てみれば白い傷痕が残っているのがわかる。


「それで、俺の殊魂は」

「そう焦らないで下さいな」


 フィージィの目が、まるで獲物に食いつくかのように光った。


「ノーラさんの殊魂は【灰簾石ゾイーズ】の亜種、特殊混石番号十三番の【黝簾石ザナタス】でしたわね。噂に聞くと」

「特殊混石……一般の混石とは違うのか」

「希少という意味で特殊、と言われていますの。あたくしの【蛍石フロトン】も混石ですけれど、緑の中が一つに青と赤の弱が二つですから」

「【蛍石】は術の幅は広いが弱い。そして持っている人間も多い、ということでいいのだろうか」

「その通りですの。カインさんは賢くて教えがいがありますわ」


 ノーラは何も言わないし、答えなかった。切った魚を口に運び、全てを味わうかのようにゆっくりと食べ砕いている姿は落ち着きの極致にあって、動揺は見られない。殊魂がフィージィに判明したところで構わない、そんな態度だ。黙って麺麭をちぎるノーラをぎらつく瞳で見ながら、フィージィは続ける。


「ノーラさんの場合、交術を使った際に……青と赤、どちらかで強と中があると推定して、かなり力ある殊魂術アシェマトが使えることになりますわね」

「こうじゅつ?」


 知らない単語だ。巻物に書いてあっただろうか、全て読み終えていないカインは悩むが、フィージィはカインの内心を知らぬようにうなずく。


「二つの殊魂の属性を掛けあわせて発動する術です。交魂とも言いますわね。例えば緑の風と黄の地を合わせて発動すれば、作り上げた石の塊を突風の速さでぶつける、ということができます」

「大工が使うわよ。建物を組み上げるときにね。毎回使うと体力も精神も疲れちゃうから、ごくたまに、だけど」

「なるほど、使い方次第ということか」


 なかなかに奥深い話を聞いて、カインの中で疑問が頭をもたげた。己に殊魂の強が二つあるのなら、もしかしたら傭兵の他にもふさわしき路があるかもしれない。剣技を捨てることになるが、殊魂術を使う職業で、給金がいいならそちらでも構わないのではないか。考えあぐねるカインは知らずのうちに、食事の手を止めていた。


「注意してほしいのは、交術は二種までしか組み合わせることができないということですの。三つ以上を掛けあわせた場合、『神々の嫉妬』で命を落とすこともありますから」

「神様が嫉妬したりするのか?」

「そうも言うけど、要は容量を超えちゃうのよ。波動が強すぎて制御できないの」

「『天体神クリウス』が禍星スピラ・マザとの戦いの終わり、人々が大地を荒らすことがないよう制御した、という説もあります。ですので神々の、までは正しいでしょう」


 ずいぶんと食ってかかるなと、カインは小首をひねった。ノーラに対するフィージィの返答には、茨より固い棘がある。まるで負けることは許されないと自身に言い聞かせているような口調だ。そのことにフィージィも気付いたのだろう、前のめりになった姿勢を一旦制して、小さく咳払いをする。


「話を元に戻しますわね。未だ研究の途中なのですけれど……カインさんの殊魂は、やはり黄色も緑も共に、強。間違いなく強が二つでした」

「ふむ」

「以前お話ししたとは思いますけれど、強を二つ持てる人間は、そういません。特殊混石にもありませんでした」

「ということは……?」


 フィージィははじめてここで微笑んだ。自負と充足感にあふれた子供みたいな顔が、はじめてデューと被った気がした。


「カインさんが天護国アステール王族直系の人間でない限り、新種の殊魂を見つけたと言うことになりますわね。あたくしは」


 自信に満ちた言葉にどう答えればいいのか、カインは戸惑う。納得すればいいとは思えず、喜べもしない。新しい殊魂といわれたところで実感がついてこなくて、眉をひそめた。むしろ今まで見つかっている種類のものであるなら、まだ安心できたように思う。でも結局、己を示す核たる殊魂、それすらもまっさらなままで、余計に己が何者なのかわからなくなったというのが本音だ。ぬかるみの中でもがいているような感覚、そんなものばかりを味わっている。


 ならばとカインは下がっていた顔を上げ、慎重に言葉を選んだ。


「直系とかいう可能性は、その、あるわけがないと思うが」

「肌の色が違うわ。耳も尖ってないし」

「肌と耳?」

「そうですの。<神人>の血を引く王族は、耳が一般の方々とは違い、少し尖ったように伸びています。肌も透けるような白。カインさんは、そのどちらにも当てはまらない」


 確かに、と己の手を見て思う。少し日に焼けた肌は透明さとはまったくかけ離れていて、余計にカインは落胆した。礼儀作法の欠片も記憶の檻から拾えなかった時点で、別に高貴な出だなんて思ってはいなかったけれど、やけになりそうな気持ちがため息を呼び起こす。嘆息は、ノーラが口を拭いた布を机へ置く音に紛れて消えた。


「結局のところ、新しい殊魂ですってことを言うためにわざわざ呼んだのかしら」

「ひどい言いぐさですわね。新種の鉱石を見つけることは……」


 フィージィは杯を一気にあおり、確固な意志の輝きを瞳に灯しながら言った。


「異人や詞亡王しむおうに対して、何らかの効力を持つ術を見つけることに、きっと繋がると信じてますの」


 強い言葉に、食卓へ沈黙が降りる。


 神殿ではじめて単語を聞いたときとは違い、奇妙な動悸や衝動はカインに起こらなかった。ただ、あまり耳障りの良い二つではないとは思う。


 詞亡王、すなわち詞亡ことばなくしものの王と異人。生き物全ての殊魂を黒へと染め、森や大地すら腐食させてしまう黒の王と、冒された人々――さざ波よりも遅い動きで唐突に現れる泥みたいなそれは、殊魂を見つけた途端それらを貪る。異人はただ命じられるままの存在と化し、黒によって増した巨悪な力を振るい、城塞を、畑を、村を壊し、人を殺し尽くす人形と――


 待て、とカインは思考を止めた。


 どうして、なぜ己は、それに関してだけはっきりと思い出せるのだろうか。


「白や金、銀の術を調べた方が早い気もするんだけど、どうなの?」

「金と銀に術がないことくらい、ノーラさんならご存じだと思っていたのですけれど」


 思考の海にたゆたうカインを外して、ノーラとフィージィの応酬は続く。そこに入る術を持たないカインは、聞き慣れない単語を耳に入れるので精一杯だ。


「持ち合わせる方が極端に少ない、というのもわかってらっしゃるでしょう」

「金と銀はね。白は夢と心……精神に関する術があるって聞いたわ。これの研究は? はかどってないって噂だけどどうなの?」

「……その通りです。それもひとえに、持ってらっしゃる方が協力をしてくれない、という事実もありますけれど」

「誰だって物にはなりたくないでしょう」

「あたくしが、いつ、どなたを物にしたと?」

「別にあなたのことを言っているんじゃあないわ。神殿に尽くすだけの価値がそれだけあるのか、皆は疑問に思ってるんじゃないかってことよ」


 言い当たる節でもあるのか、フィージィは顎を引いて、まるで敵を見るかのごとき面持ちでノーラを睨んだ。一方のノーラといえば臆すことない視線でフィージィをとらえ、離さない。


「神殿に軟禁されたっていう人にも会ったことがあるわよ。ここではそんなことはしていないのかもしれないけれど、そういう過激派の神官もいて、被害に遭った人間もいるってことの方が重要じゃあないの?」

「それは……」


 事実を伴うであろうノーラの言葉に、フィージィがただ唇を噛んだ、そのときだ。


「そう娘をいじめてくれるな、客人よ」


 面白そうに笑う声が突然届いて、部屋の奥を見る。

 フィージィ側の方にあった暗闇――そこに紛れて垂れていた吊布コフィンがじれったくなるほどの遅さで上げられていく。


「娘もなかなかに忙しいのじゃ。それでも神殿や家のことを一手に担っている身なのでな、研究に身をやつせないのは儂の不甲斐なさゆえ」

「お父様!」

「……キュトスス、公爵」


 装飾をこれほどかと施された杖の音をさせて現れた年老いの男は、驚くフィージィと強張るノーラ、そして己へと鷹揚な笑みを浮かべてみせた。

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