1-18.憎悪と甘えと策略と

 父――キュトスス公爵が食卓へ現れたことはフィージィの想定にはなくて、それでもみっともなく客人の前でうろたえる不出来な彼女を、父は叱ることをしなかった。いつものようにすっかり薄くなった青い髪を撫でつけながら席に腰かけ、葡萄酒と魚だけを望む父へ手つかずの自分の料理をそのまま差し出した。さすがに食刀と食刺が足りなかったので、それだけは小間使いに持ってきてもらったのだけれど。本当は肉もとってほしいと思ったが、痩せた父の食は細く、何回注意してもやんわりと拒絶されてしまう。そのやり取りを繰り返すような真似を客人の前でしないのは、公爵たる父への威厳を守るためだった。


 簡単な紹介が終わり、ぎこちなかった食事の場は一気に和やかなものへと変わった。


「ほう、ほう。ダネウール領ではそんなことがあったか。あちらとは久しくあっておらんゆえな」

「ダネウール伯爵に謁見してはおりませんが、心身ともに健やかなご様子とうかがいました。作物が少し不足しているところが悩みだとか」

「地の半分を腐食されて、なおまだ余りおる畑は羨む限りよ。なにせここは山と森が過分に多くての」

「キュトススを軽くですが見て回った分、イチジクと松がとてもいい具合に育っていますね。道中助けられました。ぶどうも非常に美味で。ここは果物が豊富にあり嬉しく思います」


 父はずいぶん楽しげにノーラの話を聞いていて、彼女もまた、適切な内容の会話と公爵に対する礼節をわきまえた受け答えをしており、それがフィージィの気に障る。よくしていた貴族たちの会合でも、こんな父の柔らかい笑顔を見たことはない。牛酪がかけられた挽肉を切りわけ、口に運びながらも味わうことを良しとせず、フィージィはノーラとカインを観察してみる。


 公爵の家にあっても場に溶け込んでいるノーラは、礼儀も食事の作法にもけちをつけるところがない。下手をしたら成り上がりの貴族たちよりきちんとしていて、そこだけは許せる。一方のカインは話は聞いているようだけれどどこか上の空で、何を考えているのかわからない。殊魂アシュムについてなのか、また別のことを思案しているのか。むっつりした顔で、焼き魚をほぐしながら少しずつ食べている。


「魚はお嫌いですの?」

「いや……そんなことはない」


 少しだけ長い濃緑の髪が左右に振られる。食べ方を見ていて、粗雑ではなく、ただ作法を知らないだけなのかもしれないとフィージィは感じた。


 それにしても、と彼女は火照った顔を軽く押さえた。酒は苦手だ、自分を鼓舞するために飲んだけれど、やはり飲み慣れない。それでもしっかりと残してある意識で考える。この二人にはどんな繋がりがあるのだろう。傭兵と戦闘商業士の組み合わせはとりたてて珍しいものではないけれど、二人が表す言動はまるきり正反対だ。ノーラが初夏の爽やかさと多少の冷たさをはらんでいるのに対し、カインは初秋に微かに残る暑さと落ち着きを持っている。知識も話題も豊富に持ち合わせていると推測できるノーラと、幼子みたく真っ白な印象を抱かせるカインという組み合わせはフィージィの好奇心をあおって止まないのだけれど、それ以上にノーラへの反発心がフィージィにはある。


「……そういえば、六年前もここに訪れたそうですわね、ノーラさんは」


 公爵とノーラの談話が一段落ついた瞬間を見計らい、フィージィは言葉の刃を差し出した。絶妙な間であった。殺戮の場であったなら、確実に相手を殺せるであろう鋭い一撃。


「六年前、ここに出た超級位の巨蛇人テュポンと戦ったとか。十七歳で階級一位の<妖種ようしゅ>と死闘を繰り広げるなんて真似、あたくしにはできはしません」


 刃を突きつけられても、ノーラは怯む様をみせなかった。彼女は公爵へ向けていた体をフィージィの方に戻し、にこやかな笑みを浮かべている。まるで知らない語りを聞く聴衆の一人のような、ついぞ知らぬといった顔だ。整った顔もあいまって無機質な陶磁の人形みたくも見え、フィージィは有り余る余裕に眉をひそめた。


「結局は騎士団も総出で倒せたそうですけれど、もう少しで中央都たるここが危うく侵略されかかったと聞いております。その爪痕はご覧になりましたの?」

「貧民区のところなら、軽く見たわ」


 目を閉じて葡萄酒を口にする彼女は悪びれた様子もなく、それがまたフィージィの癪に触る。隣のカインは少し重たげな瞳を見開き、ノーラをうかがうように見つめていた。どうやら彼ははじめて耳にしたらしい。丁度いい、とフィージィは軽く唇をつり上げた。ここで彼女の本性を暴露したところで、それがノーラ=プラセオという人間の本性なのだと知らしめるだけのことなのだから。


「あなたは戦闘の途中、離脱したとか。仲間の方を見殺しにして」

「これ、フィージィや……」

「見殺しなんて言葉では生温いでしょうか。死骸を盾にしたとも、殊魂術アシェマトを暴走させて味方を巻きこんだとも聞きました。何人の同胞を犠牲に逃げおおせたのかわからないくらいの犠牲を経て、あなたは生きている」


 公爵の穏やかな制止はフィージィを止めることができず、また彼女もやめようとする気はない。罪を認めさせ、自らの溜飲が下がることを期待するかのようにフィージィは正論の刃をかざし続ける。


「そうしてようやく生き延びたあなたは、二脚翼竜ワイバー三頭犬カルバロスなどを狩猟して、二十歳のときに『蒼全そうぜん』の二つ名を手に入れた。凄まじい経歴ですのね」


 ちぐはぐな岩を何層にも重ねたような、重苦しく奇妙な雰囲気は空気となって四人の中で制止した。


 今から約一ヶ月後――『時騒神じそうしん』の月の六年前、キュトススの領都たるここは、戦闘商業士組合が定める<妖種>の最上、一位に分類される非常に厄介な生命体に襲われた。丁度この城の半分ほどもある巨躯と蛇と化している半身を使い、海岸線に敷かれていた戦場を易々と突破した巨蛇人は領都で猛威を振るい尽くしたのだ。頬まで裂けた口から吐かれる炎に逃げ遅れた人間は焼かれ、青錆色の腕と半身によって建物は破壊され、討伐に当たった騎士団と傭兵の団員、組員を含めて多数の領民が犠牲となった。キュトススに逗留していた戦闘商業士が巨蛇人を呼ぶ餌を撒いたとか、隣接する王都アステールから逃げて来たのだとかいう臆測だけはあったけれど、滅多に姿を現すことのない成人の巨蛇人に人々は恐れをなして逃げる他なかったという。


 そして討伐に当たった戦闘商業士の一人が、悪名高い仲間殺しのプラセオ・・・・・・・・・であることを、フィージィは見聞でよく知っていた。


 ノーラにはいろんな噂がついた。それこそ戦いが終わった後、巨蛇人を呼んだのは彼女だったと真実か嘘かわからないものや、仲間がノーラの術で死んだといった生き残りの証言による非難が殺到した。だから憎むし、敵視する。騎士と傭兵たちはノーラを認めない。民が許しても忘れても、とフィージィは公爵嫡子として、ノーラを断罪しようと決めていた。


「あなたがおめおめとここに顔を出せるのは、死者に対する礼を知らないからですの?」


 今度の沈黙は、長かった。誰もが食事に手をつけず、じっとノーラを見つめている。


 沈黙という重さに耐えかねたのか、それとも自分に恥じ入る気持ちがあるのかわからないが、ノーラが大きな呼気を吐く。


「彼らには打算と欲があった。野望もあった。あれほどの<妖種>を倒せば、絶対に二つ名は手に入るだろうし、あわよくば蛇の鱗を採ろうとしていたのかもしれないわ。彼らには理由があって戦って、死んだ。私はそれを利用した」


 だが、フィージィの言ったことを認めておきながら、それでもノーラの口ぶりは淡い。あるべきはずとフィージィが考えていた謝罪の言は、そこに含まれていない。


「あなたの言う通り保身ね。若かったわ、今でも若いけど」

「そうして残されたのが貧民区だけ、というのは、領全体をして見れば痛手ですのよ」

「はっきり言ってあそこまでで食い止めることができたのは、戦闘商業士なかまが、そしてそこにおられる公爵閣下が適切な判断を下したからよ。そうでなければもっとひどいことになっていたと思うわ」

「巨蛇人を呼んだのは戦闘商業士……あなたであるという噂は本当ですの?」

「それは知らない。私でもないし、そんな馬鹿なことをやるような商業士とは組んだことはないわ」

「馬鹿なことをした、かもしれないお仲間とやらを殺したのも、あなたでしょうに」

「そうね、死んだわ。目の前で。肉が焦げた匂いに胃が痙攣した話でもする?」

「二人とも、止めぬか」


 いささか厳しく緑の目を吊り上げ、公爵がグラダレを置いた。縁から葡萄酒がこぼれ、なめらかな布に紫の染みを作り出す。


「フィージィや、それは今更言うても詮無きこと。プラセオ殿が生きるため逃げたのは確かに汚点じゃが、それを上回る活躍を今ではされているであろう」

「ですが……」

「公爵閣下、過分なお言葉です。が、同時に救われます」

領都ここで苦労していることはないか? 必要であれば、布令を出すぞ」

「お父様!」


 発作的に金切り声を上げたフィージィを余所に、ノーラの小さな笑いが食卓に響いた。


「公爵閣下がご冗談も上手だとは知りませんでした。何も不自由はありません。皆様良くして下さいます」

「まあ、そうは言うものの、布令を出すのも今はフィージィの役割だがな。儂は形だけよ」


 硬直した愛娘を諭すような優しい眼差しで、公爵はフィージィを見る。緑の目はどこまでも安らいでおり、ゆえにフィージィは疑問を抱く。キュトススの公爵たるもの、被害を出して今なお平然とそこにいるノーラへ思うことがあるはずだ。いや、持ってほしかった。すっかり丸くなって衰えた父に、苛立ちが募る。


 <妖種>は敵だ。だって十数年前、母を、父が妻としていた女性を殺したのは<妖種>の一種なのだから。だから一緒に怒ってほしかった、娘として当然の権利だとフィージィは手を握りしめる。父もあのとき泣いていた。いつも穏やかで冷静さを失わず、威厳を衣として纏っていたキュトススの公爵たるものが、我を忘れて泣いていた。妻を失ってからというものの、父は<妖種>を狩ることを第一に考えるようになっていたはずだ。なのに共感は失われ、今、フィージィと公爵の間には見えない何かが暖かい日常という名をともなって存在している気がした。


「六年前のあのいくさと片付けに、儂の生気は持って行かれたのでな。ああ、プラセオ殿を責めているわけではないぞ」

「ありがとうございます。公爵閣下の手腕はお見事としか言いようがありません。戦闘商業士たちに代わり、礼を申し上げたいくらいです。六年前の惨劇を起こしてもなお、閣下は商業士たちを拒むことをなさらなかった。恩恵とも呼べる心の広さに感服します」


 しゃあしゃあと言ってのけるノーラに、フィージィの頭の中で溶岩がふつふつと煮えたぎる。


 フィージィには打算があった。殊魂学者としての顔とキュトスス公爵の娘としての顔、両方に。ノーラが『蒼全のプラセオ』だとわかったときから考えていたことは、六年前、彼女自身が認めた通りノーラが出した被害に対する謝罪をさせることの他、カインを手元に置きたかったからだ。こんなに強い殊魂を持つ人間は、そう周りにはいない。学者として彼を観察し、その殊魂をつぶさに観察するために、組んでいるノーラという邪魔を排除したかったのが本音だったのだけれど、傲慢なまでの彼女の企みは父によって防がれた。


「娘がすまぬことを言ったな、プラセオ殿。何分忙しい娘なのじゃ、神経を尖らせることもあろう。許してやっておくれ」

「私は気にしておりません。イル・フィージィがお忙しいのも承知の上、ご自宅で気が緩むのもわかります」


 優しい慰めと、ノーラがフィージィに向けて放った一言は、これ以上話を蒸し返すことを許さぬ柔らかな言葉の盾となった。フィージィは噤んだ口の中、奥歯を噛みしめる。蝋燭の明かりに揺れるノーラの口はほころんでいるが、目に笑いはない。隣のカインは難しい顔をしながら、ぶどうをつまんで食べている。


「そ、そういえば、こちらのカインさんも本日、活躍をなさったんですのよ」

「……む?」

「ほう」


 話題と空気を変えるために、フィージィはカインを利用した。客人をしらけさせることをしてはならないのは礼儀であったが、正しかったかどうかフィージィ自身にもわからない。話を振られたカインが手を止め、それを父が興味深そうに見ているのを確認した後、まるで自分が戦場にいたように誇らしく胸を張る。


「はい。貯水池周辺の<妖種>を討伐なさって下さいましたの」

「それはそれは、ありがたいことよ。儂からも礼を言うぞ、カイン殿」

「いや……」


 戦のことを思い出そうとしているのか、カインの瞳は猫が動く物体をとらえるようにせわしなく動き、ようやく手元の魚に止まった。魚は身がほぐれきっていて、皿のあちこちに香草が飛んでしまっている。


「俺は、ほとんど何もできなかった」

「ですけど、カインさんは二匹もの<妖種>をしとめたと聞いておりますのよ」

「俺は最初動けなかった」


 誰かが置いたかすかな食器の音がやけに大きく、フィージィには聞こえる。


「俺が動けたのは……デューという傭兵のおかげだ」


 ささやくようなカインの言葉に、フィージィは動くことを忘れた。公爵は笑みを絶えず浮かべており、ノーラは流し目でカインを見ている。デューという名前は、久しくこの家から消えているもので、彼女も口に出すことをいつからかしなくなっていた。忘れざるをえなかった、と言えば嘘になる。意図して排除し、草にまぎれ落ちさせたはずの抜け殻を、カインが踏んだ。


「知らぬな」


 やわらな笑みは公爵の顔に張りついていて、変わることを許さない。フィージィが幼いときから見ている微笑みはしかし、カインの言葉を一刀のもとに切り伏せる。


「そのような人間は、知らぬよ」

「……シェデュ、という名に聞き覚えも、あなたはないか?」

「あったとしても、儂には関わりないこと」

「そうか」


 突然立ち上がったカインに呼応するように、ノーラが大きく息を吐き出した。


「すまないが用があることを思いだした。無礼だと思うが、ここで失礼する」


 何かに耐えているみたいな苦痛の顔を公爵とフィージィに向け、カインは椅子を元に戻す。そして心持ち大股で扉の方へ歩き出した。どことなく粗暴で乱雑な動きに、フィージィはただ驚いた。フィージィが何かを言う前にもう一つの椅子も動く。


「公爵閣下、イル・フィージィ。連れの無礼をお許し下さい。ですがもう宵も回る頃、私もここで失礼したいと思います」

「ふむ、そうか。達者でな」


 カインとは違い、たおやかだがしっかりとした敬礼を一つ行い、ノーラもまた離席する。あっ、とつい漏らしてしまったフィージィを見るノーラの瞳は、どこまでも冷ややかだ。冷たい双眸に総毛立ったフィージィはようやく、扉が閉められた音で我に返るものの、混乱する頭を整理するのに少しの時間を要した。


「……お父様、あたくし見送りに行って参ります」


 返事を待たず、机の下に置いていた小箱を持って食間を飛び出したフィージィが見たのは、応接間で困った様子の使用人から剣を受け取るカインの姿だ。ノーラは平然とした顔で窓の外を眺めるように見つめているが、それはこの際おいておくことを決めた。


「待って下さいカインさん。待って」


 フィージィの必死な呼び声が何かを呼び起こしたのか、カインは剣を腰につけなおしたままでも動かない。それだけが今の救いだ。例えカインの顔が明るいものでなくとも。


「まだ何か用があるのか」

「……これを。カインさんにこれをお渡ししたかったのです」


 フィージィが手にしていたのは白い箱で、眉根を寄せるカインへ中を開けてみせる。そこにはフィージィ自らが調達した翠玉シュスドラが静かに輝いていた。腕輪に取りつけられた翠玉の曲面には、『陸海神りくかいしんハーレ』が愛したとされる一角獣ユニコーンが小さく、けれど確かな存在感を放つほど巧みな彫り方で描かれている。


「腕輪?」

「象徴媒体です。これがあれば、自らの殊魂を遥かに強めたりすることができますの」

「そんなものをもらうことをした覚えはない」

「貯水池を守って下さったお礼にと……」

「なら、デューにやればいいだろう」


 禁句の名を出されて、フィージィは肩を跳ね上げた。使用人の女も一瞬ぎくりとし、厄介ごとはごめんだというように一礼を残して仕事場へ戻っていく。二人の様子がわかっているはずなのに、固まりかけた空気を吹き飛ばす勢いでカインは続ける。


「弟なのだろう。シェデュ、いや、『閃風せんぷうのデュー』は。討伐のときに一緒に組んで助けられた。なぜ彼に渡さない?」

「よ、傭兵組合には、ちゃんと提示された額以上の金額をお渡ししてあります」

「魚を分け与える貴族などいない」

「え?」

「多分君もそうだったんだな。金や物で全てが解決できるわけでないということも、わかった」


 放たれた言葉は飛礫のようにフィージィを叩き、思わずうなり声を出させた。


「何も知らないくせに」

「……そうだな、確かに俺は何も知らない」


 カインはなぜか、笑った。その微笑みに同情にも似た哀れみが含まれていることをしかと感じて、フィージィの手が震える。


「殊魂術のことだってまだ理解し切れていない。そんな俺がこれを使えるとは思えない。だから、いらない」


 震える手の上で、行き場を失った媒体はただ光り続けている。これ以上なくはっきりと拒絶の意を示されて、フィージィは悔しさと恥ずかしさでどこかに逃げたい気持ちに駆られた。


「行こう、ノーラ」

「……そうね」


 ノーラだけは残念そうに腕輪を見つめた後、でもカインの呼びかけに答えて彼女もフィージィの下から去ろうとしている。せめてノーラにだけは謝らせたいという気持ちが勝ち、まなじりを決したときだ。


「ああ……最後に言っておくわ」


 ゆっくりと振り返ったノーラの顔は冷淡極まりなく、年下とは思えぬ迫力があって思わず唾を飲み込んだ。


「仲間が死んだのは、私のせいでもあるけれど、彼らの野望が身を滅ぼしたせいでもある。屍の上に私は立っていることくらい理解してるの。だけど私のために死んだ、なんてことはこれっぽっちも思わない。さっきも言ったわ。野望があって戦ったんだと。その意志や志を無視して被害者面なんてしてる暇は、私にはない」

「……死者を、お仲間を弔う気はないということですの? 死んだ民は報われません」

「気持ちはあるわよ。悼む胸も。でも、立ち止まるくらいなら私は先に行く。ここの住人には申し訳ないけれど、運が悪かったとしてあきらめてもらう他ないわ」

「運? そんなもので巻きこまれた民が納得するとお思いですの?」

「誰もが死ぬ時代よ、今は。相手が<妖種>だっただけのこと。詞亡王しむおうに汚されなかっただけまだましね」


 これ以上なく不遜に唇をつり上げてみせるノーラに、フィージィは怒りを爆発させた。


「ましだとか、運だとか、あなたという人は!」

「私に文句を言うより、今どうすべきか考えるのがそっちの仕事じゃあないの?」


 濃淡を描く青い瞳がかがり火に照らされてきらめく様はまさに青い炎のようで、視線に込められた威圧にフィージィは一歩、後退った。


「なぜ今でも貧民区をそのままにしているの? 救護院はあるみたいだけれど動いているの? 配給は? 支援は? あなたは今、次に何をしようとしているの?」


 落ちついた、これ以上なく真っ当だと認識せざるを得ない正論の棘は容赦なくフィージィの心を縛り、反論を許そうとはしない。


「何もできなかった気持ちを私にぶつけるのは、止めてちょうだい」


 少量の怒気を込めて放たれた言葉は確かにフィージィの胸を抉り、開きかけた口を閉じさせた。振り返って歩き直したノーラを止めることは、フィージィにはできそうにない。六年前、学者として王都アステールにいた自分には、少なくとも。ノーラを罪とするにはあまりに自身は戦いのことを知らず、また、言う権利がないことにようやく思い至って、ただ震える手を押さえることしかできない。もしくは、とフィージィは自嘲に顔を歪ませる。ノーラは、自分が事件の当事者でなく、傍観者であったことを知っているのかもしれない。そこを突かれていたならば、多分に立ち直ることができなかっただろう。公爵を前にしている娘へ最低限の礼儀を払ったのだと気付かされて、フィージィは汗ばんだ手を垂れ幕で強くこすって屈辱に耐えた。結局自分は何もかも中途半端なのだ、学者としても、爵位を継ぐものとしても。


 布令を出すような真似をしなかったことだけを矜持とし、フィージィは使用人が呼びにくるまで、まるで染みついた恥辱を落とすかのように手をこすり続けていた。それこそ血が出るまで強く、何度も、何度も。

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