第33話 カウント3、煽られ王子様
人を好きになることは残酷で、誰かを傷つけることもある。両想いなんて奇跡なのだ。
そのことを知った佳乃はある決意を固めた。
剣淵奏斗と距離を開く。
たとえ一緒にいる時に心が安らごうが、剣淵を信頼していようが、接していればそれだけ剣淵を傷つけてしまうだろう。距離を置くことは剣淵のためになる。
まもなくやってくるだろう剣淵と八雲の話し合いの日を最後にする。それが三笠佳乃の決意だった。
話し合いの日が三日前と迫った頃だった。
放課後、佳乃は浮島に呼び出されて三年生の教室にいた。その日は部活動もないため残っている生徒は少なく、教室には二人しかいなかった。
「私はここに立っていればいいんですか?」
浮島に指定された通り、扉の前に立つ。対する浮島はというと、廊下や扉の方からは死角になるだろう教卓の影に座りこんでいた。
「そう。んで先生がきたら『浮島先輩はここにはいません』と言ってほしいんだよね」
「つまり……私は見張りですか」
「見張りだなんて言葉が悪いなぁ。佳乃ちゃんは騎士。んでお姫様がオレ。騎士様、オレを守って」
語尾にハートマークがついていそうな、裏返った気持ち悪い声で浮島が言う。
どうやら浮島は担任に呼び出されているらしく、逃げ回るべく佳乃を見張りに選んだようだった。悪事の片棒を担がされている気がしてしまう。
「呼び出しって、また何かやらかしたんですか?」
「えー。オレがそういう男に見える? ただの進路話だよ。願書提出準備や勉強の進捗確認だってさ」
「それって大事な呼び出しじゃないですか」
こそこそと逃げ回り、佳乃を見張りに立てるほどだ。相当なことをやらかしたのかと思っていたが、ふたを開けてみればこの時期の三年生らしい内容である。
しかし浮島は渋っていた。教卓の影から出てくる気配はまったくない。
「オレ、留年したいんだよねぇ。そしたら佳乃ちゃんと同級生になれるし」
「またそういうことを言って……ちゃんと卒業してくださいね」
「佳乃ちゃんが同じ大学にきてくれるならいいけど。でも空白の一年ができちゃうのか。それは困るなあ」
「浮島先輩、大学進学予定なんですね……意外でした」
卒業の話は聞いたことがあったが、大学進学を目指しているとは意外だった。素直に告げると、困ったように笑って浮島が言った。
「オレはどうでもいいんだけどね。親父と兄貴たちがうるさいから」
先日の買い物の時を思い出し、はっとする。浮島にとって触れられたくない話かもしれないと息をひそめる佳乃だったが、教卓からかすれ声が続く。
「どれだけ好きなことをしようが遊んでいようが構わないから、親父や兄貴たちに恥をかけないようせめて大学は出ろだってさ。困っちゃうよね、オレは留年希望なのに」
「……留年はよくないと思いますけど」
「だって、オレがいない間に佳乃ちゃんをとられちゃうかもしれないじゃん?」
教卓の影から、にたりと笑った浮島が顔をだす。
「ライバル多いからさ。伊達くんに奏斗に」
「け、剣淵もですか!?」
「オレ的にはそっちのが手強そうなんだよねぇ。だってこの間の買い物でも――」
そして浮島が言いかけた時だった。
教室の扉についた小さな窓に、影が差し込む。それに気づいて佳乃が振り返るとそこには先生――ではなく、伊達がいた。伊達も佳乃に気づき扉を開ける。
「……三笠さん、どうして三年生の教室に」
首を傾げている伊達に答えたのは佳乃ではなく、面白そうな気配を察知したのかニコニコご機嫌の浮島だった。
「はーい。オレが呼びました」
「ああ……浮島先輩もいたんですね」
ほんのわずか、だが。伊達の表情が不快を示すように歪んだ気がした。それは佳乃がまばたきをする一瞬の出来事で、気づいた時にはいつもの優しい笑顔に戻っていた。
「何か用事があってここにいたのならともかく、あまり上級生の教室に出入りしない方がいいと思うよ」
「ご、ごめんなさい……」
「オレが呼んだんだからいいじゃん。それとも、王子様な伊達くんは、オレと佳乃ちゃんが二人で教室にいるのが嫌だったり?」
さすが浮島はもめ事を起こす天才だ、と佳乃の視界がくらりと揺れる。なんという発言をしてくれたのか。
「……僕は構いませんよ」
笑顔を浮かべてさらりとかわす様子は普段と変わらないのだが、佳乃は不安になってしまう。心の中では佳乃たちに呆れているかもしれない。一年生合宿やら体育祭やらせっかく仲良くなれたと思っていたのに、変な誤解を生んで距離が開いてしまうかもしれないのだ。
「あれ。王子様は随分と余裕だね」
「あはは。僕は王子様ではありませんよ。普通の人間です」
「やだなぁ。モテる男でしょ――ね、佳乃ちゃん?」
浮島と伊達が話しているだけ、と思いきや唐突に話をふられて佳乃は困惑する。
何と答えたらいいものか、浮島と伊達の顔を交互に見やって考えるが、なかなか言葉はでず。そうして悩んでいる間に、教卓の影から出てきた浮島が佳乃の腕を引いた。
ぐい、と強く引き寄せられ、胸元に体を預ける体勢となる。伊達がいる前でこんなことをするとは。しかし佳乃を驚かせるための行動ではないのだとすぐに気づいた。
見上げた浮島はにたにたと笑っているくせに、したたかな獣のように鋭い目つきを伊達に向けている。これは挑発だ。浮島は伊達で遊んでいるのかもしれない。
「……浮島先輩、」
動いたのは伊達だった。軽蔑するかのようにしんと冷えたまなざしを浮島に向けている。こぼれた声にも、王子様には不似合いな苛立ちが混じっている気がした。
「三笠さんが困っていますよ。女性に乱暴をしてはいけません」
「えー? 大丈夫だよ、オレと佳乃ちゃんは仲がいいから」
「そうでしょうか。僕にはそう見えませんけど」
じり、と伊達が歩み寄る。緊張感漂う嫌な空気となっているのに浮島は楽しそうに頬を緩めていて、それどころか佳乃を手放さないとばかりに強く抱きしめている。その手に力がこもるたび、伊達がぴくりと顔を強張らせた。
「う、浮島先輩! 困るんですけど!」
「いいじゃん。オレたち、夏休みもデートした仲なんだし」
「そ、そ、それは……」
伊達の前でなんてことを言うのか。誤解されてしまうに違いない。おそるおそる伊達を見やるが、伊達は不快感をあらわにして浮島を睨みつけたままだった。
「浮島先輩、やめましょう。三笠さんが可哀相ですよ」
「オレには佳乃ちゃんが可哀相になんてみえないけど。それともあれかな、オレと佳乃ちゃんに嫉妬していたり?」
浮島に言っても効かないと判断したのか、伊達がため息をついた。
あまり見ることのできない、意外な伊達の姿に驚いていると、その隙をついて今度は伊達に腕を引かれる。
浮島も油断していたのか、それとも手放す気だったのか、佳乃の体はするりと抜けて、伊達のところへと移った。
「……三笠さん」
救出した佳乃を見下ろす伊達の顔は、やはり不機嫌なまま。佳乃に怒っているのか、それとも呆れているのか。その細かなところまではわからない。しかし佳乃の腕を掴む力は、伊達らしくないほど強いものだった。
「剣淵くんといい、浮島先輩といい、君の周りにはたくさんの人がいるんだね」
そしてぽつりと、感情のこもらず無機質な呟きが佳乃に落ちる。困惑して伊達を見つめるが、その表情から真意はわかりそうになかった。
「もう少し、気を付けた方がいいよ」
「き、気をつけるって……えっと、男の人に、ってこと?」
「それもあるけど、行動もかな。不注意が多いから君はよく転ぶ」
そして伊達の視線が佳乃の足に落ちた。
「……助けてあげられる時ならいいけど、そうじゃない時なら大変なことになるかもしれない」
伊達が佳乃の足を見つめていたことから、体育祭の転んだ時のことだろうと思ったのだが――違和感があった。
じっとりと穴が空くほど見つめられているのは、右足である。
佳乃が体育祭の転倒でくじいたのは左足。
最近で右足をくじいたのは、あけぼの山で転んで斜面を落ちた時だ。あの時は右足を捻ってしまった。だがあの場に伊達はいない。
左右の違いなだけでささいなことではないとわかっている。これは偶然だし、伊達が勘違いしているだけ、もしくは深い意味はないのかもしれない。だというのに、妙に引っかかって気になってしまう。
そして記憶をくすぐる、伊達の甘い香り。バニラとかムスクとか、この世の甘ったるいものを全て詰め込んだ芳醇な香り。
包み込まれれば多幸感に包まれるのだが、しかし引っかかるものがある。どこかで、伊達がいないはずの場所でこの香りを味わった気がするのだ。
佳乃が逡巡するわずかな間に、伊達の表情が柔らかなものに戻る。そしてふわりと羽根が舞うような軽さで伊達は言った。
「僕以外の男に愛敬を振りまかないでほしいな……なんて僕のわがままだね、ごめん」
さらに不思議なことがある。いままでならば、伊達からこんな甘い台詞を言われてしまえば、佳乃の心は舞い上がっていただろう。顔中熱くなって、伊達のことを見つめるなんてできなかったはずだ。
それがどうしてか。いまはひどく落ち着いている。伊達と目を合わすことだって、できてしまうぐらいに。
いままでと違う。あんなにも焦がれて、想い続けてきたというのに、気持ちは凪いだ海のようにしんと静かだ。それどころか冷静になって、伊達がきても感情揺れ動かぬ自分自身を客観視できているのだ。
こんなことは初めてである。この自分自身の変化に理解が追い付かない。なぜ伊達と会ってもときめかないのか、その理由を考えるのに頭がいっぱいで、伊達どころか浮島と話す余裕もない。
「ごめん。私、帰るね」
考えれば考えるほど頭がずきずきと痛む。ふらりと立ち上がってそっけなく告げると、佳乃は教室を出て行った。
***
三笠佳乃が去った後。教室に残ったのは浮島と伊達と、奇妙な組み合わせだった。
追いかけるように教室を出ようとした伊達を浮島が引き止める。
「……大変だねぇ、王子様。タヌキちゃんモテモテだよ」
その言葉に反応して振り返る伊達だったが、そこに王子様と呼ばれる優雅さもなければいつもの余裕さもない。表情筋はぴくりともせず凍りつき、浮島を睨む瞳は鋭利な刃物のようだった。
一瞬ほど、浮島は息を呑んだ。伊達享が冷酷さを隠し持っていることは予想していたものの、目の当たりにしてしまったのはそれを超える、もっと冷ややかなものだったからだ。
「僕をからかって遊ぼうなんて考えない方がいいですよ」
「遊んでいるわけじゃないよ、こう見えても結構本気なんだ。君が王子様のふりをしている間に、悪ぅい人があの子を奪っちゃうかもね」
再び煽るが伊達の表情は氷のまま、変わらない。
伊達は佳乃のことを好いているようだが、両想いとなるつもりはないらしい。しかし遊びではないだろう。だからこうして、浮島をいまにも射殺してしまいそうな顔をしている。本気で佳乃のことが好きならば、なぜ佳乃の気持ちを受け入れないのか。その理由を知りたいが、それよりも伊達を焦らせたらどんな反応をするのか確かめたくてたまらないのだ。
「オレ、佳乃ちゃんに告白したんだよね」
「……浮島先輩も、ですか」
浮島の言葉に伊達の様子は変わらなかったが、しかし気になるものがあった。すかさず浮島がその隙をつく。
「複数形ってことはオレ以外にも佳乃ちゃんに告白してるんだねぇ。それって伊達くん?」
「……さあ、どうでしょう」
その返答に、浮島は考える。
伊達が告白をしていたとしたら、佳乃の態度が何も変わらないのはおかしい。あの正直な子だ、ここで伊達と会った時に面白い反応を見せてくれていただろう。だとするなら浮島以外に誰が。
そこで浮かんだのは、剣淵奏斗だった。
「ねえ、知ってる? 佳乃ちゃんさ、小学生の頃の夏休みに思い出があるらしいよ」
伊達は剣淵のことを快く思っていないのかもしれない。その推測から、佳乃から聞いた夏の話を持ち出す。すると浮島の勘は当たり、伊達の表情にわずかな変化が見られた。
「ええ。知っていますよ。彼女と出会ったのは僕ですから」
「うんうん、そうだよねー。でも――その時期に、剣淵くんも君たちと同じ町にいたんだよ」
伊達の瞳がかすかに揺れ、見開かれる。その反応に浮島はにたりと笑った。
「今年の夏休みにみんなで遊んだんだけど、あの二人って仲良くってさ、転んで足をくじいちゃった佳乃ちゃんを剣淵くんが背負ったんだよねぇ」
「……そ、れは」
「いいの? 佳乃ちゃんをとられちゃうかもよ」
言い終えて、ちらりと様子を伺う。
浮島の望み通り、伊達は平静を欠いているようだが――しかし、その反応は異常なものだった。
ぴんと伸びていた背は崩れ、ふらりと壁にもたれかかる。うつろな瞳は教室の床に向けられ、もはや浮島なんて眼中にないようだ。
「なぜだ……まさか、解けている……そんなはずは、……改変したはずだ……」
うわごとのように何かをぶつぶつと呟いているのだが全ては聞き取れなかった。
ふらふらと歩き、おぼつかない足取りで教室を出て行く。
その異質な姿が気になり、名を呼んで引き止めてみるも、伊達は振り返らずそのまま廊下を歩いていってしまった。
学校で一番のプリンス。欠点なんて存在しない。それが伊達享だったのだが、浮島が知ってしまったのは王子様とは言い難い姿。
ぽつんと一人教室に残されてから、浮島はぽつりと呟く。
「……やっぱ、留年したいなぁ」
あの完璧な男がここまで動揺するなんて、三笠佳乃に関わると面白いことばかりではないか。
それに。佳乃に告白したのが剣淵なら最悪の展開だ。伊達よりも手ごわいライバルである。
剣淵のことはかわいい後輩で、友達だと思っている。それが同じ子を好きになったのなら――こういう時、一年の空白が惜しくなる。佳乃と同じ学年の剣淵が羨ましい。
「奏斗が相手って……勘弁してほしいよね」
いつだったか『無意識のうちにキスをしてしまうのは佳乃のことが好きだからだ』と煽ってしまったことを後悔する。
その時は面白いからと剣淵を唆してしまったが、まさか浮島自身が佳乃を好きになるとは想像もしていなかった。
悔やんだところで遅く、最悪のライバルが存在する事実に浮島は落胆するだけ。どうしたものか、好きになった女の子は呪いにかかっていて、そしてなぜかモテる。面倒な恋の戦争に巻き込まれていると、浮島は苦笑した。
そして――剣淵と八雲の話し合いが翌日と迫った日である。
誰が言い始めたのか決戦は金曜日。
動いたのは、伊達享だった。
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