第32話 カウント7、両想いとは奇跡である

 剣淵と八雲が会う日まで残り一週間となった頃。

 三笠佳乃は使いパシリとなっていた。


「……今時、荷物持ちで呼び出してくる人なんているんですね」


 それは駅前のショッピングモール。どこで買ったのか謎の巨大ぬいぐるみ二体を抱えて汗だくの佳乃が悪態をついた。その矛先はというと、佳乃の少し前を楽しそうに歩く性格最悪の男こと浮島紫音だ。


「だってオレ、そんなお人形さん持って歩けないし?」

「じゃあなんでこれ買ったんですか?」

「可愛いでしょ?」


 可愛いとは言い難い、目玉が三つあって焦点のあっていないクマの人形に、元はウサギだったのだろうがゾンビのように溶け落ちた謎の生き物の人形。ファンシーというよりキモかわいいになるのだろうか。何にせよ浮島紫音にあまり似合わないのだが。

 佳乃の頭から胸あたりまでの大きさとビッグサイズの人形は目立つ。抱きかかえていればそれなりの絵になるのかもしれないが、大型のキモカワ人形が二体。その他に浮島が買った靴や服の紙袋もあるため、ラグビーボールのごとく小脇に抱えての移動となっている。


「うんうん、可愛い可愛い。佳乃ちゃんの腕筋肉ムキムキ」

「……写真撮る余裕あったら少しは持ってくれてもいいと思いますけど」

「ごめんねぇ、オレ非力だからさ。奏斗がいたらよかったのにねぇ」


 くすくすと笑うばかりで浮島が荷物を持つ様子はまったくない。


 こうなったのも前日のメッセージである。突如浮島が買い物に付き合えと命令を出してきた。

 佳乃も剣淵も断ったのだが、来なければ大量に溜まった二人の面白動画をばらまくと脅してきたのである。そうなれば佳乃は行かざるを得ない。渋々承諾するが、剣淵は先約があるからと頑なに断った。どうやらサッカー部の助っ人をすると決まっていたようだ。


「うわー、これ見て! 飲むだけで声が変わる飴だって。マジかよー」


 これまで何軒も店を回ったというのに、浮島の物欲は止まないらしい。ジョークグッズや一風変わった小物が並ぶ雑貨店で足を止め、怪しげなキャンディの袋を手に取っている。


「それも買うんですか?」

「面白そうなら何でも採用。うわ、一目惚れさせる粉だって。やばくない? 奏斗に盛るか」

「剣淵逃げろ、ってメッセージ送っておきますね」

「別に佳乃ちゃんでもいいよ。効果を試せればオッケーだから」


 随分と物騒なことを言う男だ。と呆れてしまう。


 まじまじと見れば、そのパッケージの裏には『ジョークグッズです。効果はない……かも?』と書かれていた。本物の惚れ薬ならば人が大勢来るショッピングセンターの、しかもワンコインで買えるお値段で売らないだろう。これが偽物なことは浮島もわかっていると思うのだが、見ればカゴの中にしっかりと声変化飴や惚れ粉薬が入っている。


「これも買うんですね」

「もちろん。そして荷物持ちは佳乃ちゃん」


 さらに荷物が増えると思えばさらに憂鬱な気持ちになってしまいそうで、逃げるようにキーホルダーのコーナーを見る。そこにはキモカワからファンシーまでの様々なマスコット付きキーホルダーがあった。


「……あ、」


 佳乃の目が止まったのは、まんまるの目とツンツンの頭がかわいいハリネズミのキーホルダーだ。どうやら人気があるシリーズなのか、サングラスをかけてたばこを咥えた不良バージョンやしなびた針の上に手ぬぐいをのせて温泉につかるなど、様々な種類があった。


 触るなよとばかりに針を立てるハリネズミを見つめていると、剣淵が浮かぶ。


 剣淵に買っていこうかと思ったが、悔しいことにどれも可愛いのだ。同じコーナーにあるタヌキのマスコットシリーズはどれもマヌケだったり面白かったりするのに、ハリネズミたちがどれも可愛いのが許せない。特に走っているハリネズミが剣淵らしい。首なのか胴体なのか判断つかない部分にタオルを巻き、ハリネズミの癖に後ろ足二本で走っている。佳乃や浮島に振り回されて走り回っている姿にそっくりだ。


 買うにせよ買わないにせよ、両手いっぱいに荷物を抱えている状態ではどうにもならない。

 救いを求めるべく浮島の姿を探すと、その姿はレジにあった。どうやら買い物を終えていたらしい。声をかけようとしたところでふと気づく。


 表示された金額に対し、浮島が取り出したのは財布――ではなくクレジットカード。そういえばここまでの買い物すべて、浮島はカードで支払いをしていた。佳乃はカードなんて持っていないし、浮島が人形や靴、服といったものをあっさり買えるほど財布が豊かではない。


 買ったばかりの品を詰めた袋をさげて浮島が戻ってくる。


「おまたせー! あれ、まぬけな顔してどうしたの?」

「あ、えっと……」


 気になる、けれど聞いていいのだろうか。戸惑いながらとりあえず佳乃は手を差しだす。


「……どうぞ」

「うん?」

「どうせ私に持つんですよね。早くこっちに渡してください」


 すると浮島は呆れたように笑い、佳乃の頭を撫でた。


「従順だね、よしよし。でもいいよ、そろそろ許してあげる」

「『許してあげる』ってものすごーく上から目線ですね……」

「あれあれ。荷物もっと持ちたいって? どうしようかな」

「……勘弁してください」


 そしてまた浮島はふらりと歩き出す。次に足を止めたのはドラッグストアだった。


「ここでも買い物ですか?」

「まあ、ね」


 浮島にしては珍しく歯切れの悪い返答が引っかかる。店内に入っていく浮島の後をついていくと、向かったのはヘアカラー剤が並ぶコーナーだった。


 歩く校則違反でもある浮島紫音の髪は、派手なピンク色である。色が抜けやすいからと数日おきに手入れしている話を聞いたことがあり、今回の買い物もそれだろうかと予想していたのだが、浮島が手を伸ばしたのは黒のヘアカラー剤だった。


「……え?」


 どれだけ先生に言われようが生徒から噂をされようが、髪色を変えなかった浮島である。それがまさかの黒ときたもので、佳乃は素っ頓狂な声をあげていた。


「そんなに驚かなくてもいいじゃん。オレだってイメチェンぐらいするしー?」

「いやいやいや。でもそれは……浮島先輩っぽくないというか」


 そういうと浮島は苦笑した。


「一応、受験生だし。もうすぐ卒業だから」


 その一言が佳乃と浮島の間に存在する年齢差の壁を映し出す。佳乃や剣淵らと違い、浮島は三年生。高校生活のカウントダウンがはじまっているのだ。


「って言っても悩んでるんだけどね……まあいいや、買ってくるよ。これで買い物は終わりだから、佳乃ちゃんはベンチで待ってて」


 浮島の困ったような微笑みから寂しさを見出してしまう。普段と変わらないように見せつつ、しかし何か悩みを抱えているのではないかと、レジに向かう浮島を見送りながら考えていた。



 フードコートのベンチに座り、荷物を置く。改めてビッグサイズの人形と向き合えば、浮島は本当にこれが必要だったのかと問いたくなる。靴も服も、どれも遊ぶように買ったものばかりだ。どういうつもりなのだろう。


 人形とにらめっこして待つことしばらく。浮島はアイスクリームとコーヒーを手にして戻ってきた。


「おまたせー。はい、ご褒美」

「私にですか?」

「うん。荷物持ちのご褒美だよ」


 感謝しつつ、ストロベリー味のアイスを一口食べる。イチゴの酸味混じった爽やかな甘みが、疲れ切った佳乃の体に染みこんでいく。まさに至福の時だ。


「……浮島先輩は食べないんですか?」

「オレはいいや。買い物で疲れちゃったし」


 そりゃこれだけお店を回れば疲れもするだろう。呆れつつ、気になっていた人形の使い道について聞く。


「あのお人形って、浮島先輩の趣味ですか?」


 キモカワ系が好きなのだろうか、と思ったのだが浮島は軽く笑って首を横に振った。


「まさか! あれはストレス発散のお買い物なだけだよ」

「ストレス発散って……てっきり何かに使うのかと思っていました」

「あはは。欲しいなら佳乃ちゃんにあげるけど」


 ここまで必死に持ち運んでいたというのに、浮島の態度があっさりしているものだから愕然とする。ならばなぜ買うのか。ストレス発散のために買って、佳乃に持たせるなんてひどすぎやしないか。


 不満を訴えるように睨みつけると、浮島はポケットからあのクレジットカードを取り出した。


「これ、魔法のカードだから。親父のだけど」

「勝手に使っているんですか?」

「好きに使えって渡されているんだ。オレの家、放任主義だからさ」


 ちらりと隣を見やれば浮島は普段よりも沈んだ表情をして遠くを見つめていた。


「小さい頃に母親が出て行っちゃって、親父と兄貴たちしかいないむさくるしい家なんだよね。親父は出来のいい兄貴たちばかり構うからオレは自由で、だからこうして嫌がらせみたいに金を使い込んでやるわけ」

「それ、お父さんに怒られるんじゃ……」

「もう怒られないよ。呆れられてるから、野放し状態。オレにとってもありがたいけど」


 そこで浮島が佳乃を見やる。この間にも佳乃はアイスをしっかりと食べていて、もはやコーンの一部しか残っていなかった。


「……食べるねぇ。ダブルアイスの方がよかった?」

「喉が渇いてたので美味しくてつい……」

「コーヒーも飲んでいいよ。オレ、そんなに飲みたい気分じゃないから」


 差し出されて断り切れず、佳乃はコーヒーも受け取る。コーヒーは熱すぎない、ちょうどいい温度になっていた。これまたアイスで冷えた体にうまい具合に染みこんで絶品である。


「こないだ八雲さんに会って思ったけど、オレが奏斗のこと構うのは、自分と似たものがあるからなのかもしれないねぇ」


 性格は違うが、二人とも家庭環境は似ている。


 だが佳乃には浮島と剣淵は別物のように感じられた。特に浮島は他人に対して不誠実である。剣淵はというと騙されやすく不器用なほどまっすぐだ。


「……あいつ、すごいじゃん? 出来のいい兄貴がいて、それを恨んだり不貞腐れたりはしても、自分の努力は怠らない。勉強だの運動だの趣味だの、なんでも真面目にぶつかってく」

「そうですね。確かに剣淵は真面目です」

「だから、可愛い後輩たちだなって思うよ」

「後輩『たち』?」


 佳乃が聞くと、浮島はくすくすと笑って佳乃を指さした。


「キミも真面目でしょ。オレに面と向かって『本気で人を好きになっていない』なんて言う子はじめてだよ」

「そ、それは……生意気なことを言ってすみません」

「いいよ。そういうところが面白いから佳乃ちゃんが好き」


 好き、とあっさり言われてどきりとする。その動揺を隠すように慌ててコーヒーに口をつけた。まだ温かさは残っているはずなのだが、わからない。ほろ苦さだけが口の中に広がる。


「オレの母親はさ、親父じゃない男を作って出て行っちゃったんだよね。それのせいかもしんないけど、カノジョだろうがトモダチだろうが、いつかはみんなオレを置いていくんだろうなって思ってた」

「だから……色んな女の子とお付き合いしたり、人を試すような発言をしていたんですね」

「うーん。そうかもね。でもそういうのもさ、必死に努力して真面目に向き合ってる奏斗とか、面と向かって叱ってくる佳乃ちゃんとか見ていたら、どうでもよくなっちゃったよ」


 そう言って、浮島が佳乃の頬をつつく。


「オレが卒業しても、仲良くしてよ」

「もちろんです――って頬ぷにぷにしないでください」

「えー? オレと付き合うって言ってくれたらやめたげる」

「何ですか、その脅し!」


 冗談だとわかってはいるが、以前告白されたことが頭に残っていて心臓がばくばくとうるさく急いてしまう。


 佳乃が言い返すと浮島は唇を尖らせて、ふてくされたように自らの髪の毛をいじりだした。くるくると指で巻くようにし、そしてすねた声で言った。


「オレが髪黒くして、伊達くんみたいに真面目になったら好きになってくれる?」

「もしかしてそのためにヘアカラー買ったんですか!?」

「あはは、違うよ。あれは卒業が近いから。気乗りはしないけどね――でも佳乃ちゃんが『髪の黒い浮島先輩も好き』って言ってくれたら気が変わるかも」


 髪の黒い浮島は想像つかず、しかし似合うような気もしてしまう。元々浮島紫音の顔立ちは整っているのだ。派手なピンク色だろうが落ち着いた黒色だろうがあっさり合わせてしまいそうである。しかし――


「どんな姿をしていようが、浮島先輩は浮島先輩ですよ」


 考えて浮かんだのはその言葉だった。どんな姿であったとしても飄々として、人を騙して遊ぶのが好きな、意地悪な浮島紫音は変わらないだろう。

 それを告げると浮島は目を丸くしてじっと佳乃を見つめ、それから呆れたようにため息をついた。


「……オレのかわいい後輩ちゃんはすごいね」


 そして佳乃の頭を撫でる。


「あんまり変なことを言うと、帰せなくなっちゃうよ」

「帰してください。荷物持ち解放してください」

「んー、じゃあそのコーヒー飲み干して」


 交換条件としてなぜコーヒーなのか。疑問に思いながら、コーヒーをすべて飲み干す。佳乃の喉がごくりと上下したのを見終えてから、浮島が紙袋を取り出した。


「どう? 効果ある?」

「え? 特に変わりはない気がしますけど……」


 浮島は空になった白い紙袋を佳乃に渡す。そこには『一目惚れさせる粉』と書いてあった。先ほどのお店で買ったやつだろう。慌てて中身を確認するが中は空っぽである。


「残念だなぁ」

「な、何飲ませてるんですか!?」

「これで佳乃ちゃんを落とせたら最高だなって思って。ざーんねん」


 お店での宣言通り剣淵に飲ませて遊ぶのだろうと思っていたので、まさか佳乃が食らうとは思ってもいなかった。驚きと同時にどっと疲れが全身を襲う。これだから浮島は油断ならない。何をしてくるかわからないのだから。



***


 買い物も終わり浮島と共に駅前通りに出た時である。


「佳乃ちゃん、あれ見て」


 前を歩いていた浮島が足を止めて、前方を指さした。


 見やればそこにいるのは、菜乃花と――八雲だ。

 八雲は駅前のベンチに腰かけて普段通りだが、菜乃花は笑顔で、それは佳乃も見たことのないような幸せそうな顔をしていた。


 その光景を視界に捉えたことで菜乃花は八雲のことが好きなのだと思いだす。きらきらとした菜乃花の表情には間違いなく好意が滲んでいた。

 言葉を失う佳乃の代わりに浮島がぼそりと呟く。


「菜乃花ちゃん、オンナノコって感じ。もしかして、そういうこと?」


 佳乃は答えることができなかった。浮島の手を引いて、駅前通りの花壇の影に隠れる。菜乃花の邪魔をしてはいけないと思ったのだ。



 そして二人が隠れてすぐ。一台の赤い車が路肩に止まった。


 その車は見たことがある。北郷家に遊びにいったときに見たことのある、蘭香の車だ。

 蘭香がくるやいなや八雲は立ち上がる。菜乃花にお辞儀をし、それからあっさりと蘭香の車に乗りこんで去っていった。


 菜乃花はそれをじっと見つめていた。八雲が車に乗りこんでも、車が動きだしても、普段通りを装い、しかし視線は常に車内にいるだろう八雲を追いかけている。



 その車の姿が見えなくなってから、ようやく菜乃花の時間が動きだした。

 張り詰めた糸が切れてしまったかのように、がくりと道端に座りこむ。


「……浮島さん。荷物、ここに置きますね」


 浮島の返答を待たず佳乃は荷物を道に置き、それから駆け出した。

 大切な友達が、菜乃花が泣いている。そう思ったら、止められなかった。


「菜乃花!」


 近づけば、菜乃花の周りにはぽたぽたと黒いしみができていた。声をかけると菜乃花は顔をあげたが、その頬は涙で濡れている。


「よ、佳乃ちゃん……どうしてここに。まさか、見てたの……」

「ごめん、見てた!」


 嘘はつけない。あっさりと覗き見を白状しつつ、座りこんで呆然としている菜乃花を抱きしめる。


「わ、わたし、史鷹さんが、」

「うん。気づいてた。菜乃花の好きな人なんだ、よね」


 佳乃が言うと、菜乃花が佳乃の腕を強く掴んだ。そして佳乃の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。


 切ない呻き声に、ぽつぽつと菜乃花の言葉が混じる。まるで堰き止められていた感情が少しずつ決壊して漏れていくかのように。


「あきらめているわ、こんなのだめだってわかっているの。でも、好きになってしまったからどうしようもないの」


 佳乃の腕の中にいるのは菜乃花ではなく、『好き』という感情の塊な気がした。それは純度が高く、幼さを捨てなければ飛び込めない棘だらけの世界。菜乃花はその中に裸足で踏みこんで、そして泣いているのだ。


 ここまで強く誰かを想うことが――佳乃にはできるだろうか。佳乃が抱いている片思いはもっとふわふわきらきらとした綿菓子でできていて、菜乃花の世界とは違う気がしてしまう。


「ただ見ているだけで、史鷹さんを応援するだけでいい。それで満足なの。今日だってそう、お姉ちゃんと史鷹さんの待ち合わせに偶然通りがかっただけよ――でもその偶然に、私は」


 途切れた言葉の先は、佳乃が見た菜乃花の表情が語っている。その偶然に幸せを感じたのだろう。見ているだけでいいと言いながら、しかし神様が手を差し伸べたような偶然に感謝し、幸福を噛み締めたに違いない。


 でもそれは――菜乃花を傷つけていくだけなのだろう。近づけばその分だけ棘は肌に食いこんでいく。幸せを味わいながら、しかし体は蝕まれていくのだ。


 手の届かない、好きになってはいけない人。姉の婚約者に惚れてしまった菜乃花は、どれだけの幸福を味わおうが、けして結ばれる奇跡に辿り着けない。史鷹に近づけば近づくほど、傷が深まっていく。


「……菜乃花は偉いよ。がんばってる」


 好きな人に、他の好きな人がいる。それを知りながら、菜乃花は史鷹を応援しようとしているのだ。剣淵と史鷹を合わせる計画も、菜乃花は史鷹のために協力したのかもしれない。


 優しく頭を撫でた瞬間、菜乃花はより一層声をあげて泣いた。


「佳乃ちゃん、ごめんね……でも辛いの、こんな風になるなら史鷹さんを好きになりたくなかった」



 好きな人と結ばれることは奇跡なのだと語った菜乃花は、佳乃が知らなかった失恋の辛さを知っていた。


 ここまで傷つき、苦しめられることも恋なのだとしたら――佳乃の脳裏に浮かんだのは、もう一つの失恋だった。菜乃花を抱きしめているはずが、どうしても彼の顔を思い出してしまう。


 夏、あけぼの山からの帰り道。『お前が伊達を好きなのは知ってる』と告げた、あの時は見ることのできなかった表情が、いまははっきりと想像できてしまうのだ。



 剣淵を苦しめている。失恋とはこんなにも辛くて、切ないものなのだ。


 泣き崩れた菜乃花の姿は、佳乃の知らなかった失恋そのものだった。

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