第34話 カウント1、ワンモア告白

 剣淵と八雲が会う日を境に剣淵と距離を置く。そう決めてからというもの、時間はあっという間に流れていく。

 佳乃の決意を知らない剣淵は普段と変わらず、休み時間のたびに目が合ったり言葉を交わしたりと、まるで友達のように接していた。しかしそれも終わるのだ。


 八雲と会う日が明日に迫った金曜の放課後、ホームルーム終了のチャイムが鳴ると同時に佳乃は隣の席に声をかけた。


「剣淵」


 隣の席で帰り支度をしていた剣淵が、佳乃を見る。


 距離を置くとはまだ言えなかった。呪いの話だって出来ていない。それについては、明日の帰り際に告げようと決めていた。帰り際でなければきっと苦しくなる。剣淵と顔を合わせるたびに決心が鈍ってしまいそうだった。


「また……明日ね」


 距離を置けば学校で喋ることもなくなってしまうのだ。

 そう思うと、別れの挨拶を告げる声が震えた。気を抜けば泣き出してしまいそうで、ぐっとこらえる。


 そんな佳乃のことも知らず、剣淵は不思議そうに首を傾げて「おう」と短く返した。


「明日、八雲さんと会うでしょ? それが終わったら……話があるから」

「なんだよ話って。勿体ぶってんじゃねーぞ」

「い、いいの! 明日話すから。今日じゃだめなの!」


 剣淵は納得していないようだったが、頑なな佳乃の態度に屈して渋々頷く。


「……わかった。また明日な」


 かばんを引っ提げて、剣淵が教室を出て行く。その背を見送ってから佳乃も立ち上がる。


 呪いのことも、距離を置いて友達以下の関係になることも、明日にすべてを話す。そう決めているというのに、胸が苦しくて泣きそうになってしまう。どうしてこんなに苦しいのか。どれだけ考えてもその理由がわからない。



 帰り支度をすませて、佳乃が廊下にでた時である。


「三笠さん」


 振り返れば、そこにいたのは伊達享だった。


「大事な話があるんだ」



***


 向かったのは、特別教室棟の階段。屋上へ続く階段踊り場だ。普段生徒たちが使わない、ほこりとかびの混じった匂いが懐かしい。


 春の、あれは剣淵と出会ってすぐの頃にもここへきた。あの時は剣淵にいわゆる壁ドンというものをされ、それを伊達に見られてしまったのだった。それを思い返し、くすりと笑ってしまうほど、昔のことのように思えてしまう。


 佳乃が階段をのぼりきったところで、伊達が振り返った。


「急に呼び出してごめんね」

「大丈夫だよ。あのまま帰るところだったから」

「そっか。迷惑にならなくてよかった」


 大事な話とは何だろうか。深刻な話を覚悟していたのだが、ふんわりと柔らかく微笑む伊達の姿が否定する。


「三笠さん、11年前の夏って覚えてる?」


 伊達と再会してから、11年前の夏について互いに話したことはなかった。伊達が覚えていたことが嬉しく、佳乃は勢いよく何度も頷く。


「うんうん、覚えてる! あの夏に伊達くんと出会ったんだよね」

「……よかった。覚えていてくれたんだね」

「忘れるわけないよ。大切な思い出だもん。ちゃんと記憶に残ってる」


 佳乃が答えると安堵したように伊達が笑った。そして、佳乃の方へ向かって階段をおりていく。


「不安だったんだ……三笠さんが夏のことを忘れていたら、って」


 一段、また一段。その優雅な動きはまさしく王子様のようで、見惚れてしまう。


「忘れられていたらショックだから、ずっと伝えられなかったけど。でも三笠さんを誰にもとられたくないから、」


 一段、また一段。近づく伊達に呼応して、佳乃の心臓も急いていく。



 伊達が、佳乃だけを見つめて、佳乃の元へ向かってくる。

 屋上へ至る扉の隙間から夕日が差し込み、ほこりをきらきらと映し出す。その中で二人だけ、きらきら輝く世界はまるで映画のワンシーンのようだった。


 そして距離が近づいて、これ以上ないほど近くに伊達がいて――あれほど焦がれたまなざしが夕日に赤く染まって、佳乃だけを捉えている。



「……三笠さんが、好きだよ」


 奇跡なのだ、と佳乃は思った。片思いが実って、結ばれることは奇跡。その希少な時間を佳乃は味わっている。


 質素な階段踊り場が溶けてなくなってしまったみたいに、体がふわふわと浮き上がっている気がする。

 伊達の言葉が鼓膜に焼き付き、頭の中で何度も何度も響いているのに、ひとつひとつの単語を噛み締めるのに時間がかかってしまう。

 だからこれは夢で、現実ではないのかもしれないと疑ってしまうのだ。


 佳乃の視界に伊達がいる。蕩けてしまうような甘い香りとその中心に伊達がいて、これは夢ではないよと示すように美しい微笑みを向けている。


「だ、伊達くんが……好きって、私を……?」

「そうだよ。ずっと三笠さんが好きだった」

「……嘘じゃ、ない、よね」


 ゆるゆると震える唇が開き、佳乃の声は驚きに掠れていた。唖然としたその顔はかばんにつけたタヌキのキーホルダーみたいなまぬけな顔とよく似ていた。


「ふふ、僕って信用ないのかな。嘘じゃないよ、本当に三笠さんが好きなんだ」


 伊達の指先が佳乃の肩に伸びる。優しくゆっくりとした動きと共に、伊達が聞いた。


「それで――僕は三笠さんの返事が聞きたいんだけど」

「へ、返事って、その」

「三笠さんは僕のことをどう思っているのかな、って」


 何度も夢見た時間だった。こんな風に伊達と話して、告白をされて、付き合って――それが佳乃の抱いてきた片思いだったのだ。


 それがいま、両想いだとわかっている。これ以上ない幸福だ。



 だがなぜか――迷いが、ある。


 あれほど好きだった伊達から告白されているというのに、伊達と付き合っている姿なんて想像できず、その道を選んでも佳乃が望むきらきらとした恋愛の幸福は得られない気さえしてしまう。


「……私は、」


 伊達のことが好きだ。そう伝える練習なら夢の中で何度もしてきた。それなのに、どうして手が震え、正面に立つ伊達の顔を見られないのか。聞きたかったのはこの人の声ではないと警鐘が頭の奥で鳴っている。


 別の人物を思い浮かべようと思考が巡り、しかし片思い続きに慣れた体が、伊達に応えてしまえと喜んでいる。


 それでも、ずっと好きだったのは伊達享なのだから。


「私も伊達くんが好き」


 長年抱いてきた片思いの末の、ずっと言いたかった言葉だ。



 だというのに――佳乃が言い終えた瞬間、階段踊り場の穏やかな空気に亀裂が入る。その隙間から冷気がじわじわと広がって凍りつくように、それは伊達にも侵食し、佳乃をじいと見つめる瞳から光が奪われた。


 その感覚は嫌というほど覚えていたので理解する。


 呪いだ。呪いが発動している。


「え、なんで、どうして……私、」


 伊達が好きだと告げたのに、それは『嘘』だった。春先に伊達のことが好きだと剣淵や浮島に明かした時は呪いは発動しなかった。ではいつから、伊達への好意が嘘になっていたのか。


 佳乃自身も信じられぬ展開に一歩後ずさりをするが間に合わず、瞳から生気を失いうつろな表情をした伊達に肩を掴まれる。がっしりと体を押さえつけられ、もはや逃げることはできなくなっていた。


 回避できないと察した佳乃は、観念して覚悟を決める。

 嘘の代償として唇を求め、影がゆっくりと落ちてくる。沈んでいく太陽のように、じわじわと蝕まれていく距離。さらさらとした伊達の髪が佳乃の頬をかすめた――その時だった。


 足音が、聞こえた。

 佳乃でも伊達でもない、三人目の近づく音。それと共に声が聞こえる。


「しっかし、佳乃ちゃんどこにいるんだろうねぇ」

「靴は残ってたから学校にいると思う。ったく、どこ隠れてんだよ……」


 我が耳を疑いたくなるほど、その声に覚えがある。


 剣淵と浮島だ。どういうわけか二人が佳乃を探しているのだ。その音が近づいてくる。


「様子がおかしかったんだっけ? 奏斗が何かやらかしたんじゃない?」

「俺は何もしてねーと思うけど……あいつが泣きそうな顔してた、から」


 彼らの行き先は佳乃と伊達のいる、階段踊り場だろう。


 これから来るだろう嘘の代償を、二人に見られたくない。

 しかし、佳乃が抵抗しようが伊達の腕の中から抜け出せず、それどころかより距離が縮んでいく。


 そしてついに、唇が重なった。

 相手が伊達であるとかキスの感触だとか、そう言ったものはわからなくなっていた。唇を塞がれた瞬間、聴覚が研ぎ澄まされ、全身が鼓膜に変わってしまったかのような錯覚を抱き――だからその呟きを聞いてしまったのだ。


「……三笠」


 階段の数段下の方から聞こえた剣淵の声。それは佳乃に向けたものというより、目の前の光景に失望して零れたものだろう。



 それが、胸を苦しめる。伊達とのキスなんてどうでもよくなってしまうぐらいに、ただにがくて、くるしくて。


 誰よりも剣淵にだけは見られたくなかった。その想いが佳乃の頬を伝って流れ落ちても、きっと剣淵には伝わらない。


 今までで一番、長いキスだった。長いと感じてしまうほど辛い時間だった。


 唇が離れて、伊達の瞳に光が戻りはじめる頃、バタバタと走り去っていく音が後ろから聞こえた。それは剣淵だろうと振り返らずとも予想がつく。


 意識が戻ったのか伊達は目を丸くして佳乃をじいと見つめていた。それからよろよろと後ずさりをし、佳乃から離れていく。


 まずは伊達に謝罪をしなければ。あの告白は嘘だと伝え、このキスについても説明をしなければ。


「あのね、伊達くん……」


 気まずい中、顔をあげた佳乃だったが、言いかけたものはすぐに飲みこんだ。

 なぜなら、伊達が青ざめた表情で佳乃を睨みつけていたからだ。体は震え、苛立ちのような感情を表にだして言う。


「……なぜだ」

「え?」

「なぜ呪いが発動した」


 ぶつぶつと呟くそれは佳乃に向けたものというより、自問自答のようだった。


 豹変という言葉がぴったり当てはまるほど、伊達の様子は変わっていた。王子様と呼ばれていた完璧な姿はなく、ひとり言にも荒々しさが混じっている。


「呪いは解けていないはずだ。記憶もずれていない。三笠佳乃は僕を好いているはず……ならば、これは嘘ということなのか……」

「……どうして伊達くんが呪いのことを知ってるの?」


 そして佳乃の心に疑問が生じた。

 佳乃が悩まされてきた嘘とキスの呪いは、伊達に話していない。なぜ伊達が知っているのか。佳乃が聞くも、伊達の耳には届いていないようで返答はない。


 佳乃を置いてけぼりにして、伊達はふらふらと階段をおりていく。青ざめた表情でぶつぶつとひとり言を呟きながら、どれだけ佳乃が声をかけようが振り返ることもしない。


 階下には浮島もいた。浮島も伊達と佳乃のやりとりを見ていたらしく、通り過ぎていく伊達を目で追うその顔にも驚きが残っていた。


 告白だと思っていたのに。ふたを開けてみれば、告白らしさなんてものはほんの一瞬だけだった。

 呪いが発動して、剣淵に見られて、そして伊達はおかしな様子になって佳乃を置いて帰っていく。


「……いったい、何なの」


 伊達の足音すら聞こえなくなってから、少しずつ平静を取り戻す。目まぐるしく変わる状況に理解が追い付かず、ただ悩みごとが増えるばかりだ。



 だが、これで終わらないのが三笠佳乃の修羅場である。


 佳乃が深くため息をつくと同時に、浮島が顔をあげた。

 そうだ。浮島もいたのだ。そのことに佳乃が気づくと、浮島は階段をのぼって佳乃の元へと迫る。


「すっごい場面、見ちゃった」


 にたりと笑みを貼り付けた浮島が迫る。


「佳乃ちゃんって伊達くんが好きだと思ってたけど、違うんだねぇ」

「話を……聞いてたんですか」

「さあ。でも色々とお察しはできちゃったかもね。呪い持ち女子高生って、わかりやすくてオレは好きだよ」


 浮島は、逃げる隙はなく立ち尽くしたままの佳乃にずいと顔を寄せる。

 それからシャツの袖を伸ばして佳乃の唇を拭った。まるで伊達と佳乃のキスを見ていたと告げるような仕草だった。


 それでも佳乃の思考にあるのは剣淵だった。いまは浮島に構っている場合ではない。剣淵を追いかけなければ。


「私、急いでいるんです」

「どうして? 伊達くんも奏斗も帰ったよ」

「それでも、行かないと」


 明日は剣淵にとって大切な日だ、剣淵は混乱しているだろう。せっかく八雲と会う決意を固めたのに、佳乃のせいで台無しにしてしまうかもしれない。


 それだけじゃない。明日がどんな日だろうと、剣淵と話したかった。伊達のことも呪いのことも、とにかくすべての誤解を解かなければ。


 浮島を避けて歩き出そうとした佳乃だったが、一歩踏み出したところで腕を掴まれた。


「待って」


 こうしている間にも、剣淵が離れていくかもしれない。その焦りを嗤うように、浮島の指先は力強く、佳乃を行かせまいとする。


「放してください、急いで追いかけないと」

「どこへ行くの?」


 浮島の問いに、普段のような軽さはない。手を振りほどこうとした佳乃でさえ、それに驚いて動きを止めてしまうほど、真剣な声音だった。


「伊達くんのことが好きではないんだよね。じゃあ誰が好きなの? いま誰のこと考えてるの?」

「――っ、それは、」

「教えてよ。佳乃ちゃん、誰を追いかけようとしてるの?」


 佳乃の腕を掴んでいた指先がずるずると落ち、手のひらまで至ったところで優しく握りしめる。浮島の指先はかすかに震えていて、まるで縋りついているようだった。


「伊達くんを好きじゃないなら……オレにしてよ。オレならここにいるから」


 失恋とは苦しいものなのだと、菜乃花を通じて佳乃は学んだ。

 佳乃に縋る浮島もその辛さを味わおうとしているのかもしれない。そう思うとずきりと胸が痛んだ。


 しかし頭から消えてくれないのだ。浮島ではなく、剣淵奏斗の姿が。


 振り返って剣淵の表情を確認することはできなかったが、きっと傷ついた顔をしていたのだろう。強くて優しい男だから、明日にはそれを押し隠して佳乃に接しようとするのかもしれない。



 気づいてしまったのだ。浮島に失恋の辛さを与えてしまうとしても――それよりも、もっと、傷つけたくない人がいる。


「……浮島先輩」


 佳乃はじっと浮島を見つめた。そのまなざしに宿るのは、ようやく自分の気持ちと向き合って得た小さな決意だった。


「ごめんなさい。好きな人が、たぶん、います」


 まだ自信はないけれど。きっと好きなのだと思う。長年抱いてきた片思いを打ち砕くほど、その人のことが好きになっていた。


 佳乃の答えに浮島は頷く。嘆くことも驚くこともせず、淡々とそれを受け入れていた。


「……ふうん、オレよりもそいつの方がいい男なんだ?」

「はい……でもこんな私を好きになってくれて、ありがとうございます」

「じゃあ最後に――オレのお願いを聞いてよ」


 佳乃の手をぎゅっと強く握りしめて、浮島が言う。


「『奏斗が好きだ』って言って。それで許すから」


 その言葉にどきりとした。浮島の好意を断った直後なだけに、剣淵の名を口にすることに罪悪感を抱いてしまう。


 それでも浮島の願いを叶えようと勇気を出し、唇を開く。



「私は、剣淵が好きです」


 呪いが発動してしまったら、と抱いた不安は消えた。階段裏の穏やかな空気は壊されることなく、浮島の様子にも変化はない。



 佳乃が抱いている剣淵への想いは嘘ではないのだと、呪いが証明しているようだった。



「……ふ、はは、あはは」


 少しの間をおいて浮島が声をあげて笑いだす。


「せめてこういう時ぐらい、嘘をついてくれてもいいのにね。オレの好きな子はキスもさせてくれない正直者だ」

「ご、ごめんなさい」

「いいよ、謝らないで。あーあフラれちゃったな。まあ伊達くんより奏斗の方がマシか」


 浮島の手がするりと離れる。そして佳乃の頭をそっと撫でた。


「オレのお願いを聞いてくれてありがと。だから、そんな泣きそうな顔しないで」

「……はい」

「フラれちゃったけどオレは佳乃ちゃんの味方だから。奏斗にいじめられたらいつでもオレと付き合ってよ」


 好意を断って、きっと傷つけてしまっただろう。だというのに、浮島は優しく佳乃を見つめている。


 それが切なくてたまらないのに――でもやはり、頭に剣淵の姿が浮かんでしまうのだ。


 もっと早く気持ちに気づいていたら。剣淵に呪いのことを話していたら。きっとここまでこじらせることはなかっただろう。これ以上周りを傷つけてしまわないために、剣淵と話さなければ。


 恋とはきらきらしたものだと思っていた。

 しかしあたりを見渡してようやく、自分や周りを傷つける棘だらけの世界なのだと気づく。それでも、会いたくて会いたくてたまらない。恋とはこんなにも苦しい。



***


 頭が真っ白になった。覚悟していたはずなのに、その未来を予想していたはずなのに。


 こんな風になってしまうのなら、三笠佳乃を探さなければよかったのだ。後悔しても遅く、剣淵の記憶にはっきりと階段踊り場の映像が焼き付いている。


 本当はまっすぐ帰る予定だったのだ。しかし『また……明日ね』と告げた時の佳乃の様子は普段と違っていても泣き出しそうな顔をしていた。嫌な予感がして、気になり、佳乃を探してしまった。


 下駄箱で確認したところ佳乃はまだ学校に残っているようだった。だが教室に引き返してもその姿はない。学校中を探して、探して――そして見てしまった。



 あれは春の、三笠佳乃を壁に押し付けた時と同じ場所。屋上へ至る扉についた小さな窓から、オレンジ色の光が差し込む。舞い上がったほこりに光が反射してきらきらと輝き、まるで幻想的な空間だった。


 そして重なる影。伊達享が佳乃に口づけたのだ。


 三笠佳乃の想い人が伊達享なのだから、いつかそういう未来がくるだろうと思っていた。そのために協力だってしてきた。

 だというのに目の当たりにしてしまえば、なぜそこにいるのが伊達なのかという無力な疑問と、佳乃を奪ってしまいたい衝動がせめぎあう。剣淵の足元だけ深い落とし穴があると錯覚してしまうほど、すとんと落ちていくように体の力が抜けていく。


 愕然とする剣淵の視界で、ふわりと佳乃の髪が風に揺れた。それにはたと我に返り、剣淵は背を向けた。


 このまま佳乃が振り返って目が合ってしまったのなら、どんな顔をしていればいいのかわからない。

 協力してやるなんて言いながら、恋の成就を祝ってやる余裕も自信もないのだ。

 それならいまは、何もかも見たくない。


 家に帰っても鼓動が不安に急いていた。

 失恋をする未来はわかっていたのに、こんなにも動揺するとは思ってもいなかったのだ。外に走りこみに行く気力もなければ勉強をする元気もなく、ベッドに倒れこんで呆然とするばかり。


「あいつ、見る目ねえだろ。バカか」


 ひとりごとと共に頭に浮かぶのは佳乃と伊達のことだ。三笠佳乃の想い人が伊達享なのが気に食わない。


 11年前の夏に伊達と出会っていたからといっても性格は最悪。デートをすっぽかしたり子供みたいな嫌がらせをして、佳乃が困る姿を楽しむような歪んだ男だ。もっとマシな男がいるのではないか。佳乃に伊達だけはやめろと忠告してやりたいほどだ。


 しかしそれができないのは、それほど佳乃のことが好きになってしまったからだ。伊達への嫌悪よりも佳乃への好意が上回り、クソッタレ男が相手だろうが応援してやりたいと思ってしまう。何よりも、佳乃の幸せそうな顔が見たかった――はずなのに。


 伊達にキスをされているあの瞬間、きっと佳乃は幸せだったのだろう。

 剣淵では与えることのできない、最高の幸福を味わっていたはずだ。それが求めていた未来だったのに、胸が張り裂けそうに苦しい。


「……俺も人のこと言えねーな」


 見る目がないのは佳乃だけではないのだ、と自嘲する。そこまで佳乃を好きになってしまった剣淵自身も見る目がないのかもしれない。



 しかし何だって、今日だったのか。明日の土曜日は八雲と会う日。そこに佳乃もくることになっている。

 来なくていいと連絡するべきかと悩んだが、何度かメッセージをかきかけて、そのうちにやめた。失恋したとわかっているのに、まだ佳乃に会いたいと思ってしまう浅はかな自分がいる。


 剣淵が想像していたよりも、失恋というのは苦しいものである。好きな人を手に入れるだなんてきっと奇跡みたいな確率なのだ。


 剣淵が、佳乃が。それぞれの想いがすれ違って悩む中も時間は過ぎていく。

 そして土曜日。二人は駅前に集まった。

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