5章 うそつきはスキのはじまり

第29話 呪い問題より厄介な

 呪いのことを話さなければ。そう考えながらもあけぼの山探索の後、剣淵に会うことのないまま夏は終わっていった。


 時間が経ち、剣淵に告白をされたのだと思うほど、どんな顔をして会えばいいのかわからなくなる。二学期がはじまり初登校の日、前日なかなか眠れず寝不足の佳乃が学校に行くと、既に剣淵が登校していた。


 隣の席ということもよくない。避けようとしても顔を合わせてしまうのだ。重い足取りで自席に着くと、早々に剣淵が声をかけてきた。


「三笠」


 名を呼ばれてびくりと体が震える。あけぼの山以来ということもあり、気まずさもあり、ぎこちなく振り返って、これまたぎこちなく首を傾げる。


「な、な、なあに?」

「なんつー反応だよ……これ、返す」


 差しだされたのは、剣淵には似合わない可愛らしいピンク色の包みだった。


「弁当箱だよ、返し忘れてただろ」

「あ、ああ! 勉強会のやつね」


 勉強会が夏休みだったこともありすっかり存在を忘れていた。中を開けてみるときれいに洗った弁当箱の上に、フェルト人形のタヌキがついたキーホルダーがある。


「それは、礼だ」


 言うなり、剣淵はふいと顔をそむけてしまった。キーホルダーを手に取ってよく見れば、なんともマヌケな顔をしたタヌキである。目は見開かれ舌は飛び出しているし、腹はぽこんと飛び出てヘソらしき罰印がついている。愛らしいマスコットではあるのだが、しかしこれを女性へのお礼に選ぶとは。


「剣淵のセンスって……斜め上だよね」

「あ? 文句つけんじゃねーよ。お前そっくりのタヌキじゃねーか!」

「これのどこが私に似てるのよ! 私がタヌキなら剣淵はハリネズミね」

「ハリネズミ……」

「ツンツンしてるでしょ、性格とか」


 とっさにハリネズミを思いついたのだが、案外似ているかもしれない。そっぽを向いていたはずがこちらに向き直り、不機嫌さを示すように眉間に皺を寄せる姿は、鋭い針山のようだ。触れたら痛そうなのだが、剣淵の荒っぽさにも慣れてきてしまっていまでは怖くない。


 次第に言い争いはエスカレートして声量が増していく。気づいた時にはクラスメイトたちの視線が二人に注がれていた。


 剣淵とよく話しているクラスメイトの男子がふらふらとやってきて、剣淵の肩を叩いた。


「仲いいよなぁ、お前ら」

「あ?」

「いや、会話が聞こえちゃってさ。弁当のやりとりってお前ら付き合ってるのかよ」


 けらけらと笑っているところから、クラスメイトは冗談のつもりで言ったのだろう。


 しかし『付き合う』と恋愛を想像させる単語はあけぼの山での告白を鮮明に呼び起こした。頬が熱くなりそうで、それを知られないよう佳乃はそっぽを向く。


「何言ってんだ、付き合ってねーよ」


 聞こえてきたのは剣淵の声だった。告白なんてなかったかのように、いつも通りに剣淵が喋っている。


「えー。仲いいのにな」

「俺にも選ぶ権利はある。んなタヌキは勘弁してくれ」

「って言われてるぞ、三笠!」


 剣淵も普段通りにしているのだから、佳乃にだってできるはず。


「こっちだってハリネズミはお断りよ」


 いつも通りに答えることができたはずだ。だからクラスメイトも剣淵も笑っている。

 しかしなぜかずきずきと胸が痛んで、剣淵の方を見ていられないほど苦しくなるのだ。


 普段通りにするなんて難しい。そして普段通りにしている剣淵の姿を見るのもなぜか嫌だ。

 ホームルームがはじまり、隣の席を覗いてみたけれど、剣淵は遠くの黒板をじっと見つめているだけでその心中を推し量ることはできなかった。



***


 その日の放課後。佳乃と菜乃花は一緒に帰り道を歩いていた。浮島や剣淵らの姿もないため、久しぶりに女二人ののんびりとした時間である。


「剣淵くんの様子どうだった?」


 菜乃花には浮島や剣淵に告白されたことや、剣淵に呪いのことを明かす必要についても話していた。そのため夏休み明け初日の剣淵の様子が気になったのだろう。


「普通、だった」

「……強いのね、剣淵くん」

「強い、っていうのかな。どうなんだろう。普通すぎてよくわからなくなっちゃった」


 佳乃がそう答えると、菜乃花は佳乃の頭を撫でて微笑んだ。


「佳乃ちゃんは可愛いわ。純粋よね」

「え、私が純粋? そうかなぁ……」

「佳乃ちゃんも剣淵くんも、純粋でまっすぐで……私はとてもいいことだと思うの」


 9月になったというのに外はまだ暑く、どこかで蝉が鳴いている。きっと今年最後の鳴きだろう。公園の横を通り過ぎていく間、目をこらして木々を観察してみたが見つからない。


 近くにいるようで遠い。剣淵と佳乃の状況に似ているのかもしれない。憂鬱な気分になっていく。


「ねえ。剣淵くんと佳乃ちゃんの、あけぼの町で過ごした日の記憶が似ていたでしょう?」

「でも、それは伊達くんだったけど……」

「そうね。呪いの判断だとそれは『真実』。だけど私は……違和感だらけで納得がいかないの。私たちは呪いのことを詳しく知る必要がある」


 ではどうやって調べればいいのか。まさか手当たり次第に嘘をついてあらゆるものとキスをしろというのか。この短期間で、剣淵や浮島、伊達といった三人の男と口づけを交わしてしまった佳乃だが、これ以上被害者を増やしたくないところである。そして佳乃自身もこれ以上傷をつきたくない。


 一瞬浮かんだ怯えの表情から察したのか、菜乃花が慌てて「ごめん、そういう意味じゃないの」と訂正を入れた。


「……協力したい、って人がいるの。こういう話に詳しいオカルトライターさん」

「オカルトライターって、呪いとかUFOとか?」

「そう。だから佳乃ちゃんの呪いについても手がかりを得られるかもしれないし……その、剣淵くんも……」


 珍しく、菜乃花がそこで口ごもった。その理由はわからないが、UFOについて詳しい人ならば剣淵は喜ぶのではないか。夏のあけぼの山も空振りに終わってしまったのだ、今度こそUFO発見の糸口を掴めるかもしれない。


「いいと思う。みんなでその人に会ってみようよ」

「……ええ。ありがとう」

「剣淵にも話しておくね。その人の名前とかわかる?」

「あ、……えっと、八雲やくも史鷹ふみたかさん。剣淵くんには『八雲さん』と伝えてほしいの」


 会う日取りについては菜乃花の方で調整し、浮島や剣淵を呼んで集まることとなった。

 その際は呪いについても話すことになるだろう。佳乃が抱え、剣淵を困らせてしまった呪いについても明かすことができるかもしれない。


 剣淵と浮島に連絡をすれば協力者が増えることを彼らは歓迎していて、八雲がオカルトライターだという話に剣淵は興奮しているようだった。同好の士が増えることが嬉しいのだろう。


 そして9月の中頃。八雲との顔合わせの日がやってきた。


***


 場所は駅前のレストランだった。佳乃が向かうと既に浮島と菜乃花。そして菜乃花の隣には初めて見る男の人が座っていた。彼は佳乃の姿を見るなり立ち上がり、お辞儀をする。


「はじめまして、八雲やくも史鷹ふみたかです。君が三笠佳乃ちゃんだね」


 オカルトライターという肩書からお洒落なイメージを抱いていたのだが、目の前にいる男はそれとは程遠く、こげ茶色の髪はぼさぼさで分厚い眼鏡をかけ、着ているカーディガンも伸びきっていて毛玉がついていた。予想していなかった姿に驚きつつ、佳乃も頭を下げる。


「いやあ。噂に聞いていた呪われガールが目の前にいるなんて素晴らしいですね。感動だ」

「噂には……って菜乃花から聞いていたんですか?」

「ん? うーん、まあ、だいたいそんなところですね」


 はは、と誤魔化すように八雲が笑う。そしてずり落ちそうになっていた眼鏡を指で押し上げ、コーヒーを一口すすった。


「できれば佳乃さんから当時の出来事を詳しく聞きたいところですが、今日はあまり時間がありませんから……まだ一人きていないようですが話をはじめましょうか」

「はい、よろしくお願いします」

「まず。佳乃さんの呪いについてですが、いままでに呪いが発動した時の嘘を覚えていますか?」

「えっと――」


 八雲が用意したノートに、呪い発動時の嘘を書いていく。覚えている限りだがここ最近でいえば四回だ。


 『天気が晴れていたのに、雨だと嘘をついた』

 『忘れていなかったのに、忘れたと嘘をついた』

 『呪われているのに、呪いなんてないと嘘をついた』

 『小さい頃の夏休みを一緒に過ごしたのは伊達くんなのに、剣淵かもしれないと嘘をついた』


 するとノートを覗きこんだ浮島がにやりと笑う。


「あれ。最後のやつ、オレは知らないなぁ」

「……うっ、み、見なかったことにしてください」


 嘘をついたということはつまり佳乃は誰かとキスをしたということだ。気まずくなって佳乃が顔をそらすと、浮島は「別にいいけど」と拗ね気味に呟いた。


「でも、奏斗と佳乃ちゃんの夏の記憶が似ていたからねぇ。てっきり実は奏斗なんじゃないかなって思ってたんだけど」

「それがご覧の通り、呪いが発動しちゃったんです」

「じゃあ伊達くんが正解ってこと? 同じ時期に同じ町に、三人も揃ってたなんて奇跡~。世界はせまーい」


 浮島が話し終えて背もたれにもたれかかると、今度は八雲が口を開く。


「……夏、ですか」

「何かわかりましたか?」

「いえ、ちょっと気になっただけです――ここに書いてある嘘の一覧、きっと共通点があるはずです。それを探した方が、呪いを解く繋がりにもなるでしょうし、佳乃さんの生活も楽になるはずです」

「なるほど……」

「それから呪いが発動してキスの相手となる条件も調べた方がいいかもしれませんね。ここに書いてあるのは、人間・豆腐・猫でしたがどうしてこれらが選ばれたのかも知っておいた方が後々役に立つでしょう」


 それを聞いて浮島が吹きだして笑う。小声で「豆腐と猫っておいおい」と呟いているのが聞こえた。


「呪い、呪術とはオカルティックなものです。目に見えるものではないので、万人が信じるものではない。信じない人には見えないし、信じるものには見えるものです」

「は、はあ……」

「例えば。丑の刻参りをご存知ですか? 丑三つ時、深夜二時ぐらいに藁人形に釘を打ち付ける。それを七日間誰にも見られなければ呪いが成立するというやつです」

「それなら知っています。藁人形が五寸釘だらけになっちゃうかわいそうなやつですね」


 佳乃が答えると八雲は「正解です」と頷いた。


「あれは藁人形を用いた呪術の儀式。これは目に見えるものですね。ですが目に見えない呪いというものもあります。これは何を使うと思いますか?」


 佳乃は首を傾げた。救いを求めて菜乃花と浮島を見るが、二人も答えは浮かばないようだった。三人の様子を見た後、わずかな間をおいて再び八雲が口を開く。


「最もシンプルな答えは『記憶』です。よく言葉には力が宿るとか、言霊とか言うでしょう? 力強い言葉は記憶に焼き付くんですよ」

「ああ、それってわかるかも。オレもイヤなこと言われたら忘れられないし」

「ええ、僕もですよ。記憶に焼き付いてしまった人には『呪い』が見えるんです。佳乃さんが誰かとキスをしたとして、呪いが見える人は『呪いによるキスだ』と思うかもしれない。しかし呪いの見えない人は『ただのキスだ』としか判断できません」


 これを聞いて真っ先に浮かんだのが剣淵だった。八雲の語る通り、剣淵は佳乃の呪いを知らないためキスをしてしまった理由が好意によるものだと考えている。


 やはり剣淵にも早く呪いのことを明かさなければ。ずきりとまた胸の奥が痛んだ。


「おそらくですが、佳乃さんの記憶には『嘘をついてはいけない。嘘をついたらキスをされる』という言葉が焼き付いている」

「でも。史鷹さんの言う通りだとしたら、どうして佳乃ちゃんが嘘をつけば呪いの通りにキスをされてしまうの?」

「引き寄せの法則……いや、僕のわからない未知なるものが関係しているかもしれませんね。僕たちでは到底理解できないような、高度な世界の話かもしれません。いやいや、僕としてはそっちの方が探求心が疼くなあ。夢がありますね。未知なるものといえば最近僕が研究している宇宙の――」


 そして眼鏡がずり落ちても気にせず、ぶつぶつと喋り続ける。

 オタク魂を丸出しにして、未確認飛行物体だの宇宙人だの、アブダクションだのと不思議な単語が飛び出してくる。


 どう答えたらいいか迷って菜乃花に助け船を求めると、菜乃花は呆れ顔で咳払いを一つし、八雲の暴走を止めた。


「その話はあとにしてくださいね、史鷹さん」

「あ、ああ! ごめんね、僕の悪い癖がでてしまったようだ」



「それで、質問ですけど。佳乃ちゃんの呪いを解く方法は何かあるのでしょうか?」


 すると八雲は再び考えこむ。ぼさぼさの頭を掻きながら、うつむいた顔はそのままレストランのテーブルにくっついてしまいそうだ。

 なかなか語らぬ八雲の代わりに答えたのは浮島だった。


「つまりはさ、佳乃ちゃんが呪いを信じなければいいんじゃない? 忘れちゃえば?」


 すると八雲が顔をあげた。


「それは難しいと思うな。傷ついた言葉とかトラウマってなかなか忘れられないでしょう? 佳乃さんの場合は小学生の頃から今日までずっとだ、一度焼き付いてしまったものを忘れるのは難しいんじゃないかな」

「んー、確かにそうだねぇ。剣淵との二回目のキスだって、『忘れたと思っていたのに忘れていなかった』だもんね」

「解くとしたら心理療法もしくは呪いをかけた本人から発言を訂正してもらうぐらいでしょうか。お祓いとか解呪の儀式という手もありますが、僕はこういうのを信じていないんです。オカルト話は大好きですけど、宇宙人とかUFOとかそっち専門なので」

「オカルトマニアっていうから呪いとか好きなのかな、って思ったらそうじゃないんだねー。はっきり信じていないなんて言っちゃうし、なんだか意外かも」


 どうやら浮島も同じことを考えていたらしい。その通りだと佳乃も頷いて浮島に賛同した。


「そうですね意外かもしれません。僕はUFOを探しているんです。呪いとか心霊話も嫌いではないですが、一番はUFOが見たいんですよ。ロマンが詰まっていますからね、皆さんは見たことはありますか? ちなみにUFOって――」


 再び暴走した八雲に困り、呆れ顔の菜乃花に視線を送る。


「史鷹さんね、こういう人だから。暴走した時は放っておいて」

「は、はは……個性的だね」

「他にも聞きたいこととか気になることはない?」

「んー……」


 気になること、といえば、ある。

 あけぼの山の斜面を落ちた時、呪いが発動しなかったことだ。


「……あのね。気になっていることがあるんだけど」


 佳乃が切り出すと、暴走してぶつぶつ喋っていた八雲もぴたりと動きを止めて聞き入った。


「あけぼの山で落ちちゃった時、足をくじいて捻挫しちゃったんだ。でもそのことに気づいていなくて、みんなに『大丈夫だよ』って答えてから、足の痛みに気づいた」

「ああ。だから奏斗に背負ってもらってたんだね」

「その時、嘘にはならなかったの? だって私たちに『大丈夫』と言った時には足を捻挫していたんでしょう?」


 佳乃は頷く。


「なんでかわからないけど……嘘にならなかった」


 するとここまで黙って聞いていた八雲が動いた。


「もしかすると、それは――――」


 そこまで言いかけた時である。

 レストランのフローリングにこつこつと響く靴の音。それが佳乃たちのテーブル近くでぴたりと止まった。


 遅れてきた剣淵なのだろう。遅刻を責めてやろうと顔をあげた時――剣淵は目を丸くし、一点をじっと見つめて硬直していた。


 それから数秒の間をおいて、眉間に皺が寄る。怒りの感情がみるみる表に現れ、どすの効いた声で呟いた。


「なんで、ここにいるんだよ」


 それは菜乃花や浮島、佳乃たちに向けられたものではない。佳乃が振り返り確認すると、その言葉をかけられた男は困ったように微笑んで答えた。


「久しぶりだね、奏斗」


 八雲と剣淵が知り合いなのだと思われるが、剣淵の反応を見るに、剣淵はあまり会いたくなかったのではないか。困惑する佳乃らを無視して、剣淵と八雲のにらみ合いが続く。一方的に睨んでいるのは剣淵で、どちらかというと八雲は申し訳なさそうにしていた。


「……えーっと。ちょっと事情がよくわかんないんだけど、奏斗と八雲さんは知り合いってやつ?」


 冷え込んでしまった場に浮島が切りこむと、八雲が頭を下げながら答えた。


「そうです。いつも弟がお世話になっています」

「誰が弟だ。ふざけんじゃねぇ!」


 剣淵の拳が叩きつけられ、テーブルの上に乗っていたコーヒーカップとソーサーが揺れた。ガチャンと不快な音が響き、佳乃たちはおろか周囲の客の視線も剣淵に集まった。

 レストラン内が妙な沈黙に包まれ、その静けさが剣淵の頭を冷やしたのだろう。皆の注目を浴びていると気づいた剣淵は背を向け、引き返そうとした。


「奏斗。ちゃんと話をしよう」

「うるせー、二度とそのツラ見せんじゃねーぞ。俺は帰る!」


 八雲に呼び止められても剣淵は振り返らない。菜乃花や浮島、そして佳乃でさえ剣淵に声をかけることができず、そのまま見送るしかできなかった。





 剣淵が去ってしばらくしてからである。重い沈黙をやぶったのは、八雲だった。


「ごめんね。みんなを巻きこんでしまった」


 剣淵が去ってからというもの、八雲の表情は晴れない。


「奏斗と話がしたくてね。でも家庭環境の問題があって、奏斗に会おうとしても断られていたんだ。それでこんな形をとったんだけど……失敗だったね。佳乃さんや浮島くんを巻き込んでしまって申し訳ない」

「でもこれは……強引すぎるやり方だと思います。これじゃ剣淵を怒らせるだけだし、話なんてできないと思いますよ」

「わかっています。でも、こうでもしなければ奏斗と話をすることができない」


 剣淵兄弟の間に何があったのかはわからないが、剣淵奏斗の性格を考えればこのやり方は逆効果だろう。下手な小細工をし、騙して会う方が剣淵をより怒らせる気がした。そして何より、剣淵がひどく傷ついているのがわかったのだ。だから剣淵の代わりに、文句を言ってやりたいと佳乃は八雲を睨みつけた。


「あのね、佳乃ちゃん」


 間に入ったのは菜乃花だ。


「史鷹さんじゃなくて、私が悪いの。二人が兄弟なことを知っていて、佳乃ちゃんにも言わなかった。それにこの提案をしたのは私なの。こうすれば剣淵くんはこの場にきて、史鷹さんに会ってくれると思ったから」

「だから、剣淵には『八雲さん』と伝えるように指定してきたのね」

「僕の母は、父と離婚した後に再婚しているんです。それで苗字が『八雲』になったんですよ」

「剣淵くんはそのことを知らないから『八雲さん』なら自分の兄だと気づかないと思ったの」


 佳乃と菜乃花は長い付き合いだった。親友だと信じていた。

 だからこそ、うなだれる菜乃花に対して怒りしかわいてこない。剣淵を騙して無理やり会うなんてひどすぎる。しかもそのことを佳乃や浮島にも黙っていたのだ。


「……気になるんだけど、聞いてもいーい?」


 険悪な空気が流れる中、浮島が手をあげた。


「奏斗にしたい話ってのは何だったの? 巻きこまれたお詫びとして教えてくれてもいいと思うんだけどー」

「それは――まもなく来ます」


 時計を確認しながら史鷹が言った。それと同時に、今度はコツコツと硬い音がこちらへ向かってくる。レストランフロアをハイヒールで叩く、その音は学校で聞いたのと似ているものだった。


「……あら。主役、きてないじゃない」

「ら、蘭香さん!?」


 現れたのは北郷蘭香だった。


 剣淵のことだけでなく蘭香の登場も聞いていなかったのだ。佳乃の頭が混乱していく。八雲は剣淵の兄で、菜乃花の知り合いで、それから蘭香の――そこまで考え、蘭香と八雲の関係は何だろうかと疑問が浮かぶ。顔をあげると、その疑問に答えるかのように八雲が口を開いた。


「僕、蘭香さんと結婚するんですよ」


 小さな頃から、実の姉のように面倒を見てくれていた蘭香が結婚するなんて。こんなに喜ばしい話があるだろうか。相手が剣淵の兄だとか八雲だとかはさておき、蘭香が幸せそうにしていることが嬉しい。


 こんないい報告を隠していたなんて。とちらりと菜乃花を見やれば、佳乃の予想とは逆に菜乃花の表情はしんと冷めていた。それでなくても綺麗なまんまるの瞳が、この一瞬だけビー玉に変わってしまったのかもしれないというほどに。


 その冷やかさから佳乃は察したのだ。


 これは荒れる。嵐がくる。厄介なものを上乗せした大混乱の秋がくる。

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