第30話 それぞれの好きな人

 悩みというのはつきないものである。一つが解消されれば新たな悩みが生まれ、平穏なんてなかなかやってこない。三笠佳乃もそのことはよく知っているのだが、しかしこれは悩みごとを抱えすぎではないだろうか。


 レストランでの八雲ショック翌日。呪いやら剣淵やら菜乃花やら、頭に渦巻く悩みごとによって足取り重たく、学校に行くのも面倒だった。


 本来ならば早々に呪いについて明かし、剣淵が抱く好意の誤解を解きたかったのだが、八雲の登場によってそれどころではなくなってしまった。まだ話す時期ではないと判断し、呪いについては後回しとする。


 問題は、八雲だ。剣淵と八雲の関係が悪いことはわかったのだが、佳乃が思うに八雲と菜乃花の間にも暗雲が立ち込めている。菜乃花が表情を失い、氷のように冷たい瞳をしていたあの一瞬で、佳乃はそれに気づいてしまった。


「……まずは、剣淵をどうにかしないと」


 目下、戦うべき目標は剣淵である。休み時間にこっそりとメッセージを送っておく。


 『放課後、話がある』と用件のみにまとめたのは、ホームルームだろうが授業中だろうが休み時間だろうが、佳乃の方を一度も見ることなくむすっとした不機嫌の塊を思ってだ。余計なことを書いてもいまの剣淵には不要だろう。


 まもなく『わかった』と返信が届いたのだが、剣淵の態度は変わらなかった。それは授業が終わり、放課後になるまでずっと。



***


 空き教室に集まることも考えたのだが、学校には蘭香もいるし浮島に見つかるかもしれない。それに菜乃花も部活動のため学校に残っているはずだ。考えた挙句、佳乃が選んだのは、一緒に帰ることだった。他の生徒に見られて噂をされるかもしれないが、それよりも他の邪魔が入らず剣淵と話をすることが重要である。


「……で、下校中に少し話ができたらと思いまして、このような形にしたんですけども」


 とぼとぼと歩きながら、隣にいる剣淵をちらりと見上げる。相変わらず不機嫌男となっていて、返答はない。反応がなくとも話は聞いてくれるだろうと勝手に判断し、さっそく本題に取り掛かる。


「この間のことだけど……私も、八雲さんが剣淵のお兄さんだって知らなかった」


 剣淵はじっと前を見ていて、頷くことも唇を動かすこともない。


「何があったのかはわからないけど、きっと剣淵は会いたくなかったんだと思う。なのに八雲さんと剣淵を会わせてしまったから、ごめん」

「知らなかったんなら、仕方ねーことだろ。謝るな」


 二人を出会わせてしまったことで嫌われたのではないかと不安だったが、ようやく返ってきた言葉に、佳乃は安堵する。


 しかし用件はこれで終わりではない。どうやって切り出したらいいものかと丁寧に言葉を探していると、剣淵が言った。


「んで、どうせ何か言われてきたんだろ?」

「……うん」


 佳乃が頷くと剣淵は数歩ほど歩き、「それで?」と続きを急かす。


「剣淵のお兄さん、結婚するらしいの。ねえ、その相手って誰だと思う?」

「あ? 俺の知ってるヤツか?」

「そうだよ――なんとね、蘭香さんなの」


 これにはさすがの剣淵も驚いたらしく「はあ?」と素っ頓狂な声があがった。


「あの後蘭香さんもレストランにきて、二人が結婚するって聞いてびっくりしたよ」

「じゃあ蘭香センセーは俺のことを知ってて、UFOの話してたのか……」


 おそらく、蘭香が剣淵を指名して『もう少し話してみたい』と言ったのは、婚約者の弟だと知っていたからだろう。八雲が剣淵に会うためのきっかけを探っていたのかもしれない。


「それで? その報告のために、兄貴は俺と会おうとしてたって話か」

「わからないけど、八雲さんと蘭香さん、結婚したら遠くに引っ越すみたい。だから……離れてしまう前に剣淵と話したいって言ってた」


 それは剣淵に伝えてほしいと八雲に頼まれていたことだった。こんな大切なことを部外者である佳乃から伝えていいものかと渋ったが、菜乃花や蘭香にも頼まれてしまったため逃げられなかった。


 そこで剣淵は立ち止まった。振り返って、佳乃をじっと見つめる。


 駅近くに住んでいる剣淵はこの道を曲がらなければならない。だが佳乃はこのまま真っすぐ。方向が同じならばもう少し話すことができたのだが、時間切れだ。


「……話は以上です。聞いてくれてありがとう」


 剣淵と一緒の下校もこれで終わりである。名残惜しくはあったが、用件は終わっているのに機嫌の悪い剣淵を引き止めることはできない。「また明日ね」と言って背を向けようとした時、佳乃と同じ道へ剣淵が歩き出した。


「え? 剣淵、こっちじゃないでしょ?」


 こちらから帰っては遠回りになる。首を傾げる佳乃に対し、剣淵は不機嫌な顔のまま言う。


「家まで送ってやるから、さっさと来い」

「送ってやる、って女の子に対してその言い方はどうなの?」

「あ? そもそもお前から話がある誘ってきたんだろ」

「そうだけど……」

「もう少し付き合え。行くぞ」


 ぶっきらぼうな物言いだが、しかし、もう少し一緒に歩いていれたらいいのにと思っていたので、剣淵との下校時間延長が嬉しい。



 再び隣に並んで歩きだすと、今度は剣淵から話を切り出す。それはやはり八雲のことだったが、幾分か怒りは和らいでいるようだった。


「……前に、兄貴のこと少しだけ話しただろ」


 佳乃は頷く。


 夏休み、あけぼの山に行った時に剣淵が話していた。夏の日、祖母の家にやってきた剣淵兄弟だったが母親は剣淵の兄――つまり八雲だけを連れていなくなった。両親が離婚し、母親に置いて行かれた剣淵の寂しさを想像し、佳乃の表情が曇る。


「最初は、なんでおふくろが俺と姉貴を置いていったのか訳がわからなかった。その前日まで何も変わらず普段通りだったのに、なんでおふくろと兄貴がいなくなったんだろうって考えてた。離婚は……仕方ねーことだけど、俺を置いていったことが許せなくて、ずっとおふくろを恨んでた」

「……それは、恨んじゃうかもしれない。私が剣淵だったら同じ気持ちになる」

「兄貴のことも恨んでた。嫉妬みてーなもんで、あいつだけおふくろに選ばれたから許せなかった。何回も連絡をもらってたけど無視していたのは、兄貴に嫉妬していたからだ」


 自嘲気味に呟いて、剣淵は俯いた。


「兄貴は嫌いじゃねぇんだ、ただ羨ましかっただけだ。だから、会った方がいいんだろうなってわかってる――けど、怖い」

「剣淵……」

「俺は、どうしたらいいんだろうな」


 こうして佳乃に語ることも剣淵にとって勇気がいるのだろう。かばんを掴んだ剣淵の指先がかすかに震えていた。その弱弱しい姿に胸が痛む。


 佳乃なら、どうするだろう。その状況で兄と会うだろうか、それとも会わないだろうか。だが会わずに兄が遠く離れてしまったら、いつか後悔してしまうかもしれない。


 剣淵奏斗は優しくてしかし不器用な男だ。努力を隠し、傷ついても隠し、不機嫌そうにしながら実は周りをよく見ている。いまでさえ辛そうな顔をしているのに、ここで会わずに後悔を背負ってしまったら――そこまで考えた時、佳乃の体は勝手に動いていた。剣淵の前に立ち、手を掴む。


「……悩んでるなら、会うべきだと思う」


 震える手を両手で優しく包みこむ。まだ暑さの残る秋だというのに、剣淵の指はひやりと冷たかった。


「お兄さんが遠くに行ってしまったら、剣淵はいつか後悔するかもしれない。それなら、会って後悔した方がいいと思うの。もしも辛くなったりイライラした時は、私が話を聞くから」


 剣淵の目が丸くなり、じっと佳乃を見つめている。


 佳乃の言葉を反芻しているのか、剣淵は歩みを止めて硬直していたが、佳乃はその手を離そうとしなかった。味方になる、支えになると告げるように剣淵の手をぎゅっと握りしめる。


 すると、不機嫌はどこへやら。剣淵は声をあげて笑いだした。


「……っ、はは、すげー顔」

「はあ!? 人が大事なこと話してる時にひどくない?」

「悪い。つい、面白くて」


 そう言って、剣淵は佳乃の手を握り返す。


「目、覚めたわ。お前のおかげだ。兄貴に会う。でも一人じゃ怖いから――お前も来てくれ」


 大事な時に同席していいものかと悩んだが、八雲と会うのに勇気がいるのなら、その勇気を佳乃がわけてあげられるのなら、力になりたいと思った。


「わかった。私も一緒に行く」


 そう告げると、重ねていた手が離れていく。


 掴んでいたはずの場所がぽっかりと寂しくなり、そこに秋風が吹けば寒さを痛烈に感じる。思えば、佳乃よりも少し大きいてのひらだったのだ。とっさに手を握りしめてしまったものの、離れてしまえば物足りない。


「おい、何ぼけっとしてんだよ。行くぞ」


 その感情が剣淵に伝わってしまわぬように飲みこんで、再び歩き出した。



***


 その夜。佳乃は菜乃花に電話をかけた。


 八雲と会った時の様子から菜乃花にその話をするのは気が引けたが、剣淵の決意を伝えなければならない。八雲と会う許可を得たこと、そして佳乃も同席する旨を伝えると、菜乃花はと沈んだ声が返ってきた。


『そう……佳乃ちゃんも、一緒にくるのね』

「私がいたら、まずい話かな?」

『そうじゃないの。大丈夫だと思う。だけど――』


 そこでいったん会話が途切れた。声だけで表情まではわからないが、電話の向こうで菜乃花は慎重に言葉を選んでいるのだろう。


 どうにも最近の菜乃花はおかしい。八雲と会う前か、いやその少し前――もしかしたら剣淵に告白をされたと話したから少しずつ変わっていったのかもしれない。


 佳乃が考えているうちに菜乃花がため息をついた。


『佳乃ちゃんは剣淵くんの告白を断ったのでしょう? 伊達くんが好きなのに、そういう態度をとっていていいのかしら』


 ずくり、と胸が痛む。


「そ、それは……」

『似たようなものよ。佳乃ちゃんの好きな人を知っている。結ばれないってわかっているの』

「……そう、だと思う。返答はいらないって言ってた」


 菜乃花の声音は普段よりも低く、表情がわからないことも合わせて、佳乃を責め立てているようだった。


『剣淵くんと付き合う気がないのなら……遠ざけた方がいい。これ以上関わったら、傷つけてしまうだけよ』

「っ、遠ざける、って……」

『一度好きになってしまえば、友達とか知り合いなんて傷を深めるだけなの。見えなくなるぐらい遠くにいってしまった方が救われる』


 堰を切ったように菜乃花が喋り続ける。だんだんと力強く、勢いを増していって、佳乃が口を挟む隙はなかった。


『佳乃ちゃんが伊達くんを好きなことはわかってる。みんなわかってるの。応援しているわ。佳乃ちゃんの片思いが実ってほしいって思っている。だけど私は――』


 ぴたりと、止んだ。言いかけた言葉を飲みこむと共に、菜乃花の声音も落ち着きを取り戻す。


『ごめんなさい……なんだか八つ当たりみたいなこと、してしまった』

「ううん、気にしないで……菜乃花の考えを聞けてよかったよ」


 告白されても普段通りでいられると思っていたが、それは傷つけているのかもしれない。他の男が好きならば、剣淵を遠ざけることが相手のためになる。菜乃花の言葉はぼやけていた佳乃の頭を打ち抜き、我に返させた。


 だが気になることがあった。菜乃花がここまで感情的になることは珍しく、付き合いの長い佳乃でさえ数度しか見たことのないものだ。それがどうして、いまなのか。


 菜乃花と恋愛話をよくしていたが、そのすべては佳乃の恋愛についてだった。伊達くんであるとか、最近でいえば剣淵や浮島といった男たちに振り回される話も。いままでのことを思い返してみるが、菜乃花の好きな人や恋愛といった話は聞いたことがない。


『ねえ、佳乃ちゃん』

「うん?」

『好きな人と結ばれるのって、奇跡だと思うの。二人の想いが通じ合うなんて、奇跡みたいなものだから――私は、佳乃ちゃんを応援してる』


 その言葉から、ある人物が頭に浮かんだ。


 八雲史鷹。

 思えばレストランで史鷹に会った時、隣に座っていたのは菜乃花で、普段よりも緊張していた気がする。『史鷹さん』と呼ぶ時はいつもより弾んだ声で、それは佳乃や剣淵の名を呼ぶよりも優しさを秘めていた。


 菜乃花は、八雲史鷹のことが好きなのではないか。だとするなら、その恋は通じることがない。八雲は姉の婚約者なのだから。


『ごめんね。長く話しすぎちゃった』


 佳乃が辿り着いた仮説を確かめることはできなかった。菜乃花はいつもと変わらない様子で話し、そして通話を切る。



 通話が切れても佳乃は動けなかった。長く一緒にいた友達なのにその恋心にまったく気づいていなかった恥ずかしさと、菜乃花が抱えているだろう傷の深さに呆然とする。


 佳乃は『片思い』しか知らなかったのだ。いつも伊達のことを考え、目で追い、いつかの結ばれる日だけを夢見てきたのだから。


 『片思い』の先に『失恋』なんてないと思っていたのに、菜乃花を通じてその存在を知って怖くなる。恋愛が人を傷つける。そして佳乃も、傷をつけている。


 放課後に掴んだ手の感触が焼き付いて離れない。あの時は剣淵を支えたいと思ったが、実は傷つけてしまったのかもしれない。本当に剣淵のことを思うのなら関わらない方がいいのだと、菜乃花の言葉が頭に渦巻いてる。


 悩みとはつきないものである。改めて、佳乃はその意味を知った。

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