第26話 好きだと気づいて、勉強会

 下駄箱の前に立ち、佳乃は思いだした。

 そうだった、いじめを受けていたのだった。すっかり忘れていた佳乃の目の前にあるのは、からっぽの靴箱である。本来ならばここに佳乃のローファーがあるのだが、その姿はどこにもなく見事にからっぽである。


 やられた。ここ最近の嫌がらせを思えばこうなることだって予測できたかもしれないのに。嫌がらせに関して、剣淵や菜乃花といった理解者がいることからそこまで重たく考えていなかった。それが仇となってしまったのだが、できることなら今日以外がよかった。頭痛やめまいといった体調不良のフルコースにやられ、校内を走りまわって靴を探す元気はない。


 ローファーに羽根が生えていて、いますぐ飛んできてくれたらいいのに。なんて馬鹿なことを考えながら、大人しく座りこんで体調が戻るのを待つ。


 そうしてしばらく座りこんでいた時、背後から聞きなれた声がした。


「んなとこで何してんだよ」

「あれ、剣淵。戻ってきたんだ」

「センセーなら職員室によってから戻るらしいから俺だけ先に――って、お前、顔色悪いな」

「体調悪いから先に帰ろうと思ったけど、ご覧のありさまでして……」


 からっぽの靴箱を指で示すと、剣淵の視線が、靴箱と佳乃が履いている上履きを行き交い、それから事情は察したとばかりに頭を抱えた。


「黒板やノートの落書きに、靴を隠す……古典的な嫌がらせだな。そこで待ってろ、探してきてやる」

「探すって、どこにあるかわからないよ」

「んなもん簡単だろ。グチグチ言ってた女子生徒を掴まえて聞きだす。とっちめてやる」


 両手を握りしめたり開いたりとしている様子から、聞きだす方法とやらの想像がつく。しかしこれだけ嫌がらせを受けて困らされてきたのだから、犯人は少しぐらい痛い目を見た方がいいのかもしれない。そう思って佳乃は剣淵を止めなかった。


 意気揚々と剣淵が歩き出したのを見届けた後、他の生徒がいないのだからと生徒玄関のベンチに横になる。体調は変わらず、横になっていても世界がぐるぐると回っているのだが、先ほどよりも気持ちは楽だ。剣淵が靴探しをすると名乗り出たことで安心したのかもしれない。


 剣淵へ感謝しつつ、佳乃は目を閉じた。



***


 剣淵奏斗が自ら靴を探すと名乗り出たのには理由がある。それは罪悪感だ。


 黒板やノート、靴といった嫌がらせがはじまったのは体育祭にある。

 あの時、佳乃と伊達を二人三脚で組ませ、生徒たちの注目を浴びる形にしてしまった。佳乃の怪我は計算外だったが、きっかけは剣淵である。二人三脚をさせていなかったら、この嫌がらせはなかったのかもしれない。佳乃がめげることなく気丈にしていたことから罪悪感は薄れていたのだが、生徒玄関で困っている姿に、それは爆発した。


 教室で佳乃を嘲笑していた女子生徒たちが犯人だろう。できることならば靴を見つけるだけでなく、犯人だろう生徒を見つけてこれ以降の嫌がらせも止めたいところだ。



 一階から三階まで、すべてのごみ箱を覗き終えた時である。前方から歩いてくる女子生徒たちがいた。それは幸運にも、剣淵が探していた生徒である。


「おい、話がある」


 通り過ぎようとしたところで引き止める。怒りを隠すことなく眉間に皺をよせた剣淵の姿に、女子生徒たちは臆しているようだった。


「三笠に嫌がらせしてんの、お前らだろ? いい加減ガキみたいなことすんのやめろ」


 言ってもわからないなら殴る。そのつもりで反応を待っていると、女子生徒たちは慌てて首を横に振った。


「してない! 私たち何もしてない!」

「嘘つけ。落書きも靴を隠したのも、全部お前らだろ!?」

「ほ、ほんとだってば!」


 女子生徒たちの様子を見るに、嘘ではなさそうだ。ひそひそと「三笠さんの靴ってどういうこと?」「隠されたの?」と話しているところから、靴を隠したのは彼女たちではないらしい。


「じゃあ犯人は誰なんだよ。お前らじゃねーんだろ?」

「うん。三笠さんの悪口を言ったりはしたけど、嫌がらせまではさすがに……」


 犯人を見つけて嫌がらせそのものを止めたいところだが、難航の気配に苛立ってくる。こうなったら犯人よりも靴を探すべきか。そう考える剣淵に一人の女子生徒が言った。


「犯人はわからないけど……でも私たちのクラスじゃないと思う」

「あ? なんでわかるんだよ」

「黒板に落書きのあった日、移動教室で家庭科室にいたでしょ? 私が最初に教室へ戻ってきたんだけど、その時にはもう落書きされてたから」


 剣淵の思考がしんと冷える。嫌な予感がしていたのだ。


 他のクラスのやつが犯人となれば、佳乃には申し訳ないが伊達享を思い浮かべてしまう。性格の悪いあの男のことだ、佳乃を困らせたいからと彼がやってもおかしくはない。


 それに伊達と佳乃のデートの日、伊達は『三笠さんは女子たちに妬まれるだろうね。どんな風にいじめられるのかな、すごく楽しみだよ』と言っていた。この嫌がらせを伊達は予想していたのだ。


 その予想に追い打ちをかけるように、他の女子生徒が口を開く。


「さっきね、三笠さんの下駄箱前に伊達くんがいるのを見かけたんだけど……もしかしてこの話と関係ある?」


 糸が繋がった。そうなれば剣淵の行き先はここではない。女子生徒たちに背を向け、剣淵は走り出した。



 息を切らせながら生徒玄関前に戻ると、佳乃の姿があった。ちょこんとベンチに座っているのだが――その隣にいる人物に、剣淵は思わず息を呑んだ。


 伊達享だ。嫌がらせの犯人かもしれないと疑っている人物が、まさか目の前にいるなんて。佳乃を心配しているといった顔をしていることが気に入らない。どうせ困っている佳乃を見て楽しんでいるのだろう。


「あ、剣淵!」


 剣淵が戻ってきたことに気づいて佳乃が顔をあげたが、剣淵の視線は佳乃の足元に向かっていた。というのも佳乃が履いているのは剣淵が探していたローファーである。


「靴、あったのかよ」

「これね、伊達くんが見つけてくれたの。一階のごみ箱に入ってたんだって!」

「偶然だよ。さっきそこを通りがかったらごみ箱に靴が見えたから……」


 嘘だ、と気づいた。一階のごみ箱は剣淵も確認した。一階から順に見ていったのだ、おそらくは伊達より先だろう。

 女子生徒たちから聞いた話も合わせて、剣淵は確信を抱く。


 犯人は伊達だ。三笠佳乃を困らせ、苦しめたいがために嫌がらせをしている。日曜日に二人がデートをしたという噂を流したのも、きっと伊達だ。


 伊達の襟首を掴まえて数発は殴ってやりたい。それほど苛立っているのだが、出来ない理由はここに佳乃がいるからだ。

 憧れの王子様と話ができたことが嬉しいのか、先ほどよりも表情が柔らかい。自分が嫌がらせを受けても伊達のことを心配するようなやつなのだ。ここで伊達が犯人だと明かしても、佳乃は信じないだろう。


「……剣淵?」


 立ち尽くす剣淵に対し、佳乃が首を傾げる。


「どうしたのかな、剣淵くん。そろそろ僕たちは帰るよ。三笠さんの体調がよくないから僕が送っていくね」


 伊達と佳乃を近づけてしまえば、またしても佳乃が苦しむことになるかもしれない。二人三脚の時に味わった罪悪感、そして剣淵自身が苛立っていた。どういうわけか、佳乃の隣に伊達がいるだけで虫唾が走る。


 伊達が嫌いだ。人を苦しめて楽しむサディスト野郎。伊達と佳乃は幼い頃から知り合いだったという話も苛立つし、剣淵より優位だと示すように佳乃の隣に立っていることも許せない。佳乃とキスだってしたことないくせに、あいつの方が隣に相応しいなんて許せるものか。


「三笠、」


 剣淵は二人の間に割って入り、佳乃の腕を掴んで引き寄せて、あとは――先のことを考えながら一歩踏み出した瞬間、はたと気づく。



 なぜそこまで三笠佳乃を気にしてしまうのだろう。浮かんだ疑問に答えるように、いつかの浮島の言葉が蘇る。


『無意識のうちに三回もキスをしてしまうなんて、剣淵くんは佳乃ちゃんのことが好きなんだよ』


 その記憶は、剣淵がいま抱いている苛立ちに名前を与えた。


 佳乃が傷ついている姿を見たくないのも、助けてやりたいと思ってしまうのも、すべての行動に理由がつく。


 三笠佳乃が好きだ。


 頭の奥がぼうっとして操られているかのように唇を奪ってしまったのは、剣淵自身が気づかないだけで、佳乃に惚れていたからなのだろう。思えば家に人をあげたのは佳乃が初めてだったし、UFOの話をしようが真剣に耳を傾けてくれるのが嬉しかった。浮島や菜乃花といったUFO探しのメンバーが増えたのも佳乃のおかげで、そして佳乃と共に行動できることに安心していた。


「どうしたの、様子が変だけど……」


 ぼうっと立ち尽くす剣淵を不審に思ったのか、佳乃が不安そうに顔を覗きこむ。好意を自覚してしまったばかりでその目を合わすことができず、剣淵は顔をそむけた。


「いや、俺は――」

「行こう、三笠さん」


 言葉に詰まる剣淵を置いて、伊達が佳乃に声をかける。佳乃は何度も剣淵を気にして振り返っていたが、伊達と共に帰ってしまった。



 二人の姿が生徒玄関から消えたところで、壁にもたれかかる。それから壁を小さく叩いた。


 佳乃が好きだと気づいてしまったのだ。一度名前をつけてしまえば、その感情は膨れ上がって剣淵の心を占める。心臓は早鐘を打ち、佳乃を引き止めろと急かす。


「最悪なタイミングだろ……どんな顔してあいつに会えばいいんだよ……」


 しかし誰が引き止められるだろう。三笠佳乃には好きな男がいる。何が起きても疑わずに信じ続け、自らのことよりも彼のことを考えるほど。そこまで夢中になるほど、好きな男がいるのだ。


 好意を自覚したその日、剣淵は失恋した。



***


 体調が悪かったということなど、とうに忘れていた。それは生徒玄関に伊達がやってきたことが嬉しかったからでも、靴が見つかったからでもない。その時の剣淵の様子がおかしかったからだ。


 靴を探しに行く前と戻ってきてからでは随分と元気がなかったように見える。伊達と帰ろうとする佳乃に対して一歩を踏みこんだ時、引き止められるのかと思ったのだ。しかし佳乃の予想と反し、剣淵は何かを諦めたように切ない顔をして立ち尽くしていた。


 何か、あったのだろうか。せっかく伊達と共に帰っているというのに頭の中はごちゃごちゃで王子様との下校を楽しむ余裕がない。剣淵の様子が気になってしまうから、めまいも頭痛も二の次だ。


 伊達と別れて家に着いても、夕飯を食べても、お風呂に入っても。何をしていても剣淵のことを考えてしまう。


 本人に声をかけるしかない、と決意してスマートフォンを握りしめたのは布団に入った頃だった。

 もう寝ている頃かもしれない、明日の方がいいだろうか。しかしこのままでは眠れそうにないし、何かあったのなら今日中に聞いておきたい。


 たった五文字のメッセージだったが、液晶を滑る指は震え、打ち込みが終わってもなかなか送信ができなかった。


『起きてる?』


 チャット画面に表示されているのは剣淵の名前のみ。送信を終えてもスマートフォンが手放せず、穴が空きそうなほどじいと画面を見つめていた。


 既読がついたのはすぐである。佳乃にとってはひどく長い時間のように感じたが、時計を見れば一分も経過していない。既読がついたということは起きていたのだろう。安堵しつつ、返事が届くのを待つ。これもまた佳乃にとっては長い時間だった。


『なんだよ』


 簡潔な四文字だというのに、返事が届くのは既読が付くよりも遅かった。焦らされているような気持ちである。

 佳乃から話しかけたというのに、何を送ればいいか迷ってしまう。メッセージを打ち込んでは消しを何度も繰り返し、ようやく書いたの感謝の言葉だった。


『今日の帰り、靴を探してくれてありがとう。嬉しかったよ』

『気にするな』


 会話が途切れたかと思えば、続けてメッセージが届く。


『伊達と一緒に帰れてよかったな』


 本当は伊達との下校を楽しむどころではなかったのだが、それは伝えなかった。


『ねえ、何かあった? 帰りに何か言いかけてたから気になったんだけど』

『何でもない。気にするな』

『私にできることがあったら言ってね。剣淵に感謝してるんだ。だから私も剣淵の力になれるよう頑張るから』


 既読がついてもなかなか返事は戻ってこない。待ちくたびれて、追いかけるように再びメッセージを打ち込む。


『もしかして、寝るところだった?』

『いや。勉強してた』


 なるほどと佳乃は頷く。剣淵の一人暮らしは成績上位が条件だと聞いた。そのために佳乃が家に来ても勉強をし続けるような男だ。期末試験が近いからと今日も遅くまで勉強をしているのだろう。


『本当は勉強なんてしたくもねーけど』

『今回の英語の範囲、広いよね』

『俺も英語はよくわからん。いまも解けなくて困ってる』


 剣淵の力になりたいとは言ったが、これに関しては助けられそうにない。常に赤点スレスレ低空飛行の佳乃に対し、剣淵は成績上位者である。むしろこちらが教えてもらいたいほどだ。


 そこでふと、頭に浮かんだ。いつもはテストが近くなると学年十番以内をキープする菜乃花に教えてもらっているのだが、その勉強会に剣淵も招いてはどうだろうか。浮島も呼べば、テスト勉強ついでに夏の打ち合わせができるかもしれない。


『ねえ。みんなで勉強会しようよ。菜乃花も浮島先輩も誘おう』

『場所は? 言っておくが俺の家はやめろよ』

『じゃあ――』


 スマートフォンから目を離し、部屋をぐるりと見渡す。狭い部屋だが四人ならなんとかなるだろう。それに今度の休日なら両親も弟も出かけているはずだ。


『今度の休日、うちに来る?』


 思いついたら勝手に指が動く。気づかぬうちに口元も緩んでいて、遠足前の子供のような高揚感だ。しばらく待っていると剣淵から返事が届いた。


『わかった』


 簡潔な四文字だというのに、なんて楽しい気持ちになるだろう。そうと決まれば早速、佳乃は菜乃花と浮島にも声をかける。


 そしてもう一つ。佳乃はある計画を立てていた。



***


「……つまんなーい」


 休日がやってきて勉強会が始まった。と思いきや開始後30分で浮島がため息をつく。ペンをくるくると回しながら、もう片方の手で頬杖をついている。


「オレさー、勉強とかはどうでもいいんだよー。重要なのは『オンナノコの家に遊びにいく』ってこと。しかも家族が出かけているラッキーチャンスじゃん? ワンチャンあるかと思ったら剣淵くんがいるしさぁ……」

「俺がいて悪かったな」

「そもそもワンチャンもないですから」


 浮島の不満に対し、剣淵も佳乃も冷静である。ノートから視線を移すことさえせず、淡々と否定をして返す。


「つーまんなーい。菜乃花ちゃんも二人に何か言ってよぉ。例えば剣淵帰れとか」

「剣淵くん。ここのスペルはeじゃなくてaですよ。発音だけで覚えると間違えるので気を付けてくださいね。テストにも出ると思います」

「助かる」

「おーい……オレを無視しないでー……」


 菜乃花も浮島の扱いに慣れてきたのだろう。こちらも同じく黙々と教科書に目を通していた。その反応に浮島は唇を尖らせて、そっぽを向く。


「浮島先輩も遊んでないで勉強しましょうよ」

「オレ、勉強しなくたってなんとかなる人間だから。テスト勉強とか人生で一度もしたことないし、授業聞けばだいたいなんとかなるでしょ?」


 ピースサインを作って自慢げな浮島に、佳乃は目を見開く。というのもテスト勉強をやっているのに赤点チキンレースをしているからだ。なんて羨ましい話だろう。


 羨望のまなざしを送り何も言えないでいる佳乃の代わりに、剣淵が口を開く。


「……浮島さんを一発殴りてー」

「アハハ、天才でごめんねぇ? でも今日の恰好だったら、剣淵くんの方が頭良さそうに見えるけど。モテそうな眼鏡男子じゃん?」


 浮島の発言につられて、佳乃もちらりと剣淵を見る。


 勉強会と話していたからか、普段よりもラフな格好をしていた。雨の日に見た時のように前髪もおろしているし、黒縁の眼鏡をかけている。そして着ているシャツは以前佳乃が借りたものだ。

 佳乃が着た時はあれほど幅や長さが余っていたのに、剣淵が着ると体に馴染んでいる。同じ服を着たのだと思うと、妙な恥ずかしさがこみあげてくる。くすぐったい気持ちを押し殺すべく、教科書に意識を向ける。


 そうして勉強を再開したかと思えば、早々に浮島の唇が動く。どうやらよほど勉強に飽きているようだ。


「剣淵くんの眼鏡男子も意外だったけど、佳乃ちゃんにもびっくりしたよ」

「わ、私?」

「まさか、弟がいるなんてねぇ……てっきり妹とか一人っ子かなぁって」


 浮島がそう言うと、菜乃花が顔をあげた。


「確かにそうですね。佳乃ちゃんって、お姉ちゃんっぽくないというか……」

「失礼な!」

「その分、弟がしっかりしてるんだろ。」


 しまいには剣淵まで参戦ときたものだ。この室内に味方はいないのかと落胆しつつ、佳乃は答える。


「しっかりしてるのかはわからないけど生意気だよ。私の後をついてきて、一緒に本読んだり、お風呂に入ったりしていた頃が懐かしい」

「おやおや、ちゃんとお姉ちゃんしてるんだねぇ。菜乃花ちゃんは蘭香さんと二人姉妹でしょ、剣淵くんは?」

「姉貴と……兄貴」


 兄貴、と答えたところで一瞬の間が空いた。剣淵の表情も硬く、あまり語りたくないものだったのかもしれない。


 剣淵の姉には会ったことがある。クローゼットの扉越しなので会ったとは言い難いが、互いに認識しあっていたことは確かだ。そこで剣淵の姉は『兄貴』の話をしていた。その時の会話を思い起こすと、剣淵と剣淵の兄はあまり仲がよくないのかもれない。


「オレも兄二人で末っ子だったから、剣淵くんと同じだ」

「佳乃ちゃん以外はお姉ちゃんやお兄ちゃんがいるんですね。やっぱり下に兄弟がいると大変?」

「我慢することは多かったかなぁ。弟が生まれた時の夏休みは知り合いのおばあちゃん家に預けられていて、お姉ちゃんになるのって大変だなって思ったよ」


 その話を聞き、菜乃花が眉をぴくりと動かした。そしておそるおそる口を挟む。


「ねえ。佳乃ちゃんがあけぼの山に行ったのって、その時だよね?」

「うん。私が小学1年生の時だったから、11年前かな」


 佳乃の返答を聞くと、今度は剣淵に視線を移す。


「剣淵くん。UFOを見た時って、何年前?」


 一瞬。剣淵の体がぴくりと跳ねた。しかし菜乃花の強い視線から逃れられず、ゆるゆると吐き出すように答える。


「俺も11年前だ」

「うわ。佳乃ちゃんも剣淵くんも同じ時期じゃん! 本当に二人が会っていたりして」


 浮島がわざとらしく拍手を送って二人を煽るが、佳乃は首を横に振ってあっさり一蹴した。


「私が会ったのは伊達くんだよ」


 もしもこれが『嘘』なのだとしたら、呪いが発動しているだろう。

 だが剣淵や浮島の様子におかしなところはなく、呪いが発動したとは思えない。


 つまりこれは『真実』なのだ。自らの記憶が間違っていないと知って安心する。


「……本当、なのよね?」

「そうだよ。私は伊達くんに会ってる」


 菜乃花が口にした問いかけは、佳乃の呪いについて知った上でだろう。信じられないとばかりに目を丸くしているが、やはり呪いは発動しない。


「ところで、」


 佳乃と菜乃花の間に奇妙な空気が流れていると察したのだろう剣淵が立ち上がる。そして三人の顔を見渡した後、頭を下げる。


「UFO探しを手伝ってくれてありがとう」


 剣淵にしては珍しく殊勝な姿だった。


「最初は嫌なやつらだと思ってたけど、いまは感謝してる」

「おーい。一言余計だぞ」


 頭を下げたままの剣淵に近寄り、肩を叩いたのは浮島だった。呆れたように笑っているが、しかし表情は柔らかい。


「オレはただ暇つぶしと面白そうだから混ざってるだけ。いちいちお礼なんて恥ずかしいことやめてよ」

「ああ。ありがとう、浮島さん」

「面と向かってお礼言われると気持ち悪ぅい。かゆーい」


 そして剣淵は菜乃花を見る。


「北郷も。蘭香センセーを紹介してくれてありがとう」

「いえいえ。佳乃ちゃんがお世話になっているし、それに私も剣淵くんのことを信じているから」


 初めて剣淵に会った時、まさかこんな風に集まって喋ることになるとは思ってもいなかった。強面で無表情で粗暴で、嫌いなところばかりだと思っていたのに、いまは佳乃も剣淵を信頼している。


 剣淵奏斗は最高の友人だ。佳乃こそ、剣淵に感謝している。



***


 こうして勉強会は終わった。後半は雑談になったりUFO探検の話と脱線したが、なかなか楽しい休日である。


 日が落ちて皆が帰り支度をする頃、佳乃は立ち上がった。


「剣淵、ちょっと来て」


 手招きをして廊下へ呼び出す。剣淵は文句を言わず佳乃の跡をついて歩き、二人が足を止めたのは一階にあるキッチンだった。ダイニングテーブルの上に置いてあるものを背に隠し、佳乃は剣淵に向き直る。


「あのね、剣淵に渡したいものがあるの」

「な、なんだよ……」


 そして佳乃は背に隠していたものを剣淵に差しだした。それはピンク色のハンカチで包んだお弁当箱である。


「これ、夕飯代わりに食べて」


 何度か剣淵の家を訪ねて食生活の悪さを知ってしまったのだ。きっと今日だって、家に帰ってお湯を飲んだり肉や卵を食べて不健康に過ごすのだろう。靴を探してくれたことやいままでのお礼を兼ねて、調理器具を使わなくても食べられるようなものを差し入れようと準備していた。


「剣淵の好きなものが入ってるかはわからないけど、もしよかったら食べて」

「……お前が作ったのか? お前、料理はできないって言ってただろ」

「ちゃんと料理本見て作ったから大丈夫。練習もしたし、味見もしてるから安心して!」


 ハンバーグもポテトサラダもほうれん草のおひたしも。どれも多めに作って味を確認した。料理が得意と言い難い佳乃だが、今回はうまくできたと思っている。


 しかし剣淵はというと弁当箱を受け取ったまま固まっていた。じっと佳乃を見つめて、唇ひとつ動かない。まるで意識がどこかに飛んでいってしまったかのように。


「これお礼だから。いつもありがとう」


 佳乃の言葉に、硬直していた剣淵がゆるゆると動きだす。片手で口元をおさえて俯き、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で答えた。


「っ……あ、ありがとう」


 この反応は嫌がっているのではない。喜んでいるのだ。剣淵が転校してきてから今日まで、毎日隣の席に座っていたのだ。これぐらいの些細な表情の変化も、意味が伝わってくる。


「夏のあけぼの山探検、頑張ろうね」


 その言葉に剣淵が頷く。



 勉強会が終わり、何度も朝と夜を迎えて。なんとか赤点を回避して期末試験を終えると、夏休みはすぐにやってくる。


 そして八月某日。それぞれの思いを抱えたあけぼの山探検がはじまった。

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