第29話  エピローグ 家

 それから……。


 パムは気比の浜へ銛つきに行くことが習慣となっていた。

 浜へ来たばかりの時とは違い、気比の漁師たちも今では向こうから声をかけてくれるようになり、今日もパムに向かって気軽に挨拶をしてくれた。

 気比の刺青の漁師は、真っ白な歯を見せてニカリと笑う。


「パムやないか。どや、漁の調子は?」

「ハイ、ボチボチでんな」

「あははは。なんや、そのボチボチなんて言葉は! 誰に教わったんや」

「キジさん、デンガナ」

「あははは。キジは浪速なにわ訛りが強すぎや、パム、他の人に言葉を教えてもろうたほうがええ」


 パムは漁師とわかれると、銛を構えて水の中に立つ。秋の水の冷たさに身震いした。

 白く、綺麗な砂をじっと見つめていると、聞き覚えのある声が聞こえた。


「やあ、漁師さんじゃあないですか」


 しかも駕洛語である。誰かと辺りを見まわすが、誰もいない。気のせいかとまた銛を構えると、目の前に、なんと鰐鮫わにざめがすましてこちらを見上げていたのであった。


「わ、ワニザメ!」

「いやあー、覚えていてくれたなんて、本当に光栄だなあ。久しぶりですねえ、お元気でしたか?」「ワニザメも元気だった?」


 久しぶりにソシモリ以外と駕洛語で話している。駕洛語で話すことができるのは、やっぱり嬉しい。


「ワニ、あれから姿を見ないから、もう死んだんじゃないかって思ってたんだよ。あの海の底へ落ちてから、ずっと行方が分からなかっただろ? ソシモリも気にしてたよ」

「それはそれは! 気にしていただいてありがとうございます。あんときゃあ、ひどいもんでしたね。あんな海の谷に落ちるなんて、100年生きてますが、初めてのことでしたよ。でもわたしゃ、あれぐらいじゃ死にゃあしませんよ。そう簡単にくたばるもんですかってね。

 いやね、あの後ずっとこの辺りの海で深手を負ったまま流れていたんですがね、いや、ひどい傷だったんですよ。左ヒレなんてほぼほぼ切れちゃってる状態で、泳げやしないでしょ? 後ろヒレもボロボロで、どうも骨も折れてるっぽいし、もう死にそうに痛く痛くて。それがついこの間……ちょうどこの浜ですよ。綺麗なお姉さまが現れて、何やら呪文をしてくれたらこの通り! 傷あともなーんにもなくなって、すっかり治っちゃいました! いやあ、綺麗な人は、やることなすこと素晴らしい! せめて、お名前を! と聞いたんですがね『お前なんぞに名乗る名はない』なんて言って去ってしまいましてね、いやあ、残念なことをした。これを機にお近づきになればよかったなあーなんて今更後悔していますがね、もしとびっきりの美人を見つけたら、漁師さん、その人にぜひぜひ伝えてもらえますかね?」


 パムは怒涛のように喋る鰐鮫にけおされながら「な、何?」と尋ねた。


「感謝感激雨あられ。駕洛へ行く際は、何をおいても、誰がなんと言おうとも、ぜひぜひ私をお呼びつけくださいませとね。安心安全丁寧、豪華絢爛かつ華麗に駕洛國までお送りいたしますんで」


 パムは苦笑いして「わかったよ」と答えた。とびきりの美人か。パムは一人を思い浮かべていたが、鰐鮫が名前を知らないんじゃあこれ以上確認しようがない。

 鰐鮫は思い出したように、ひょいとパムの顔をのぞきこんだ。


「あ、そういえば、漁師さん、あなたはどうなさいます? もし駕洛國へお帰りになりますんなら、特別価格! アジ10匹でお送りいたしますがね。どうしましょう?」


 急な問いかけに心臓がドクンと波打った。


 駕洛國へ帰る。


 今この鰐鮫にお願いすれば、帰れるのだ。

 ほんの一瞬だが、頭の中を今まで和國で見た光景や、出逢った人たちがぐるぐると現れては消えた。

 そして、駕洛國金海キメの家が目の前に現れた。


 辛い思い出に、胸がキュッと締めつけられる。それでも懐かしいものなんだと複雑な気持ちでいた。


 家に帰る?


 後ろを振り返り、青空に浮かびあがる木ノ芽峠を眺めた。

 あの木ノ芽峠で、すでに新しい人生が始まっていた。うつし(言葉を訳す者)として、とりあえずソシモリの言葉を伝えて、土蜘蛛たちと暮らしている。

 パムは、大きく息を一度吸い込み、「いや」と言葉を吐きだした。そしてあらためて鰐鮫の方へ向くと、


「もう少し、和國にいるよ。どうなるかはわからないけど必要としてくれる人が、ここには、少なくとも一人、いるんだ」と言った。


 鰐鮫は、うなずくと、


「わかりました。それでは、また、必要なときにお申し出くださいね。呼ぶときは、ソシモリさまが知ってますが、指笛を吹いてくれればすぐに飛んできますんで。では」


 怒涛のように息つぎもせずに一息で喋ると、右のヒレを振り、水に潜った。背ビレがしばらく右へ左へと波間をうろつき、そして、ちゃぽんと水の中に消えた。


 それからしばらく銛をついていた。カレイを1匹と鯛を1匹、小魚を5匹つくと、紐に通して背中に担ぎ、木ノ芽峠へつづく道へ向かう。アジはとれなかったな、と一人で笑う。その時、


「漁師」


と、ソシモリが鵺に乗って浜辺に現れた。

 手には、一本の剣。

 スサノオがくれた、『蛇之麁正オロチのあらまさ』である。

 それはこの辺りで使われている赤銅あかがねとは全く輝きが違う。まるで剣からただよう空気まで違うようだ。ソシモリの後ろを見ると、生き絶えた一匹のクマが乗せられていた。


「その剣、もしかして狩に使ったの?」

「当然だ。これが一番斬れるのだ」

「いや、そうだろうけど、狩に使うんじゃあもったいないんじゃないの? 刃こぼれしちゃうじゃん」

「うるさい、黙れ。オレ様が好きに使うのだ」

「それはいいけどさあ。もうちょっと大事にしようよ」

「大事にしてるから、使うんじゃねえか」

「いやだからさあ……」


 ソシモリは最近森で狩りをする。クマだの鹿だのを剣で斬っては仕留めるのだ。ハハカラに弓も習い始めているが、こちらはあまりうまく言っていないようで、よく怒って投げ出している。


 パムも鵺に乗り、動かぬクマの前に座りこんだ。鵺はゆっくりと木ノ芽峠へと帰る。

 パムは目の前にある、ソシモリのツノをじっと見ていた。

 ソシモリの頭は牛のようなツノが生えている。

 はじめは奇妙に見えたが、今となると、ないとおかしい気がする。これがソシモリなんだなと思う。

 ソシモリも今では、すっかり頭巾を被らなくなり、ツノをあらわにして過ごすことが多くなった。しばらくすると、みんな見慣れたのか何も言わなくなったから、隠す必要もなくなったのかもしれない。


「ねえ、ソシモリはこれからどうするの」


 ソシモリは後ろを振りむき、ニヤリと笑った。


「あん? 木の芽へ帰るに決まってるだろうが」

「いや、そうじゃなくてさ、これから、ずっと木の芽にいるの?」


 ソシモリは、即座に答えた。


「オレ様はまずは気比の王になる。それから西へ向かってククチヒコをぶっ倒して、和國を治める王になるわ」

「ふーん」

「ふーんって、おめえも来るんだよ」

「えー。僕はいいよ。そういうのに興味ないし」

「おめえが来なきゃ、だれもオレ様の話がわからんだろう」

「言葉を教えるからさ、いいかげん、和語覚えようよ」

「うるさい、来いったらこい」

「いいってば。遠慮するから。いくさでも、ケンカでも、痛いの嫌いだもん」

「来いったら、来いったら、来い!」

「しつこいな」

「来いったら、来いったら、来いったら、来いったら、来いったら、来いったら、来い!」

「しつこーい!」

 

 秋は深まっていた。

 太陽に照らされて金色に輝く葦の原の上をアキアカネが飛びかい、ススキの下で秋の虫が鳴きだしている。鵺はその虫の大合唱の中をゆっくりと木ノ芽峠に向かって歩く。


 時折、ふとあの時のククチヒコの顔を思い出す。

 ククチヒコは、今筑紫で勢力を再び伸ばしていると、キジが情報を持ってきた。おそらく、この先ソシモリは、ククチヒコを倒しに行くのだろう。


 その時、僕はどうするんだろう。


 大きな満月が、東の空にゆっくりと顔をだしている。木の芽峠の奥にある小さな集落に住んでいる、にぎやかな土蜘蛛の声が聞こえてきた。

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和國大乱 てらっち @teracchi

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