第二章 第13話

 上野動物園で佳恋と出会ってから、二週間が過ぎた。

 桜の花びらが芽吹き始めるとともに、君太は、新生活を始めていた。まもなく、大学生になるのだ。これまでの人生はリセットして何もかも一からのスタート。

 まず、高校まで暮らしていた親戚の家を出て、一人暮らしを始めた。

 鐘ヶ淵の駅から徒歩十分ほどの賃貸アパートの二階に新居を構えた。

 この界隈は、東京都内であることが信じがたいほどに古めかしい雰囲気で、駅舎も周辺の家屋も昭和の下町の風情を色濃く残している。君太が住む賃貸アパートも、昭和の年代に建てられた木造二階建てで、昔ながらのモルタルの外壁はくすんでいたし、外階段は錆ついていて、抜け落ちる一歩手前といった感じである。

 それでも、君太は、自分の居場所を見つけることができたような気がして、とても幸せな気分だった。

 何しろ、今まで住んでいた親戚の家では、肩身の狭い思いをしていなければならなかったのだ。


 君太には両親がいない。

 君太が赤ん坊のころ、海外で災害に巻き込まれて、死亡したらしい。

 遺骨も戻ってこなかったらしく、お墓はない。お墓どころか、両親の写真さえ、一枚もなかった。

 君太を引き取ってくれたのは、父親の母方の従兄に当たる人――従兄弟伯父の田沼信三。その人しか、親戚と言える人はいない。両親には兄弟さえいなかったらしいし、君太から見て、祖父母に当たる人も存命していなかった。


 親戚からは、疎まれていた。

 君太がいないところでは、田沼伯父さんの奥さん――田沼優子伯母さんが「なんで、あんな妖怪みたいな子を引き取らなければいけないのですか」と田沼伯父さんをせっついて、しょっちゅう喧嘩していた。

 そんな田沼伯父さん夫婦が、両親について語ってくれた唯一の言葉と言えば、「お前のお母さんはこっちの世界の人じゃない」である。

「外国の人?」

「私たちが言えるのはそれだけだ。他のことは聞くな!」

 腫物を触るような対応に、君太の心は冷えた。

 僕が田沼伯父さんの家にいると迷惑なんだ。

 殻の中に閉じこもった君太は、高校を出たら、すぐに一人暮らしをしようと決めていた。

 郵便局のバイトをしてお金を貯め、物件も自分で探した。

 大学の費用も自分で稼いだ。働きながら、勉強するしかないと覚悟していたから、奨学金をもらえるように頑張った。


 強風が吹きつけたのか、くすんだ窓ガラスがガタガタと揺れた。

 サッシの隙間から、針のような冷風が忍び込み、君太の頬を撫でた。

 だが、大きな窓には明るい日差しが差し込んでいる。冷風はすぐに、部屋の温もりにかき消された。

 ささくれ立った畳の上に、君太は大の字になって寝転ぶと、あくびを一つ付く。

部屋には、何一つない。箪笥もなければ、テーブルもない。洋服といくつかの本が入った段ボール箱が部屋の隅に三つ転がっているだけだ。

 台所には、まだ冷蔵庫すらない。シンクはからからに乾いている。

「これから、少しずつ、揃えていくかな……」

 何もない、がらんとした空間。ここをこれから、自分色に染めていく。新居の楽しみって、それだろうなと君太は思った。


 ブルブル……。ブルブル……。

 静寂の中を聞きなれない機械音が響いた。

 ハッとして身を起こした君太は、一体何の音だろうと、しばし、部屋の中を見渡す。

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