第7話 行くべきか、出るべきか (4)

 冷蔵庫に入れたまま存在を忘れてしまった二週間前のコロッケ。

もう食べたら間違いなく腹を壊すが、もったいないという罪悪感から、捨てるのはなんとなく気が引ける。

 ついつい捨てるのを引き伸ばしているうちに、気がつくとまた一週間が経っている。コロッケにはカビが生え始め、触るのも嫌になるような見た目になる。ますます捨てるのが億劫になり、気がつくとまた一週間が経っている。


 芝田君と吉川さんにとって、「地球到着後はどうするのか問題」は、まさにこの古いコロッケと同じだった。いくら待ったところで、カビの生えたコロッケが新鮮な状態に戻ることは絶対にありえない。それは分かっている。すでにカビだらけだが、それでも今が一番マシな状態で、ここで捨てなければ、日に日に状態はひどくなる方向しかない。それも重々承知の上だ。


 でも、捨てようと自分から手を出す気にはなれない。

二人のカビコロッケ放置合戦は、どちらが耐え切れずに音を上げて先に口火を切るかという、チキンレースの様相を呈してきた。

 「しきしま」の乗務員が、地球に到着する一年四ヶ月前に下船か乗船かの希望調査を提出する事は、「しきしま」で暮らす人なら乗務員でなくても誰でも知っている。船が目的地の木星にたどり着き、折り返して地球に向けた帰路につきはじめた今、その提出締め切りまでもう残り七ヶ月しかない。


 そして、この無言のチキンレースに耐え切れず、先に口火を切ったのは吉川さんの方だった。

 木星を出発した頃から、はっきりと明言はしないものの、吉川さんは遠回しに芝田君にプレッシャーを掛けてくるようになった。


「当然、船に残るわよね?」


 なんてことは一言も言わない。ただ、私達そろそろ二十六歳ね、とか、こないだ友人の結婚式に出席したけどとっても素敵だったわ、とか、そういう話をちょいちょいと日常会話に織り込んでくる。そして芝田君の目をじっと見つめるのである。


 芝田君は、言いたい事があるならちゃんと言えばいいのに、こういう聞き方は汚ねぇよな、と正直かなりカチンときていた。自分からは一向に何も言い出そうとしない自らの無責任さと卑怯さをすっかり棚に上げてである。かといって


「お前、俺たちの間柄でそういう回りくどいやり方はやめようぜ。腹を割って本音を話し合おうよ」


 なんてことは一言も言わない。吉川さんの婉曲な攻撃に、ただ鈍感で気付いていないふりをして「うん」だの「ああ」だの、一向に煮え切らない返事を繰り返すだけである。


 そんな芝田君に対して吉川さんは、それならもっとストレートに自分の思いを伝えよう、という方向には決してならなかった。より一層遠まわしに、かつ芝田君の心に重荷を被せるよう戦法をエスカレートさせていったのである。

 二人の共通の友人に愚痴を漏らして、その愚痴が間接的に芝田君の耳に入ってくるように仕向けたとか、家族は今日全員外出していて家には誰もいないと言って芝田君を家に呼んでおきながら、彼が行ってみたら予定が変わったと言って母親が家にいたとか、そのような気分のよくない事件が相次ぐようになった。


 芝田君としては、むしろ吉川さんが堂々と自分に詰め寄って、はっきりしなさいと自分を叱りつけてくれる方がよほどありがたかった。しかし、叱ってほしいというのも実は甘えの一種であるという事に、未熟な芝田君はまだ気がつかない。

 そもそも芝田君には、自分が態度を明確にしないのが原因であるという自覚は全くなく、ただ、言いたい事をはっきり言わずに遠まわしに伝えようとする吉川さんの態度が嫌味だと、自分勝手な苛立ちを日々蓄積させていくだけだった。



 そして終わりは、当の本人達も予想しない時に突然やってくる。


 芝田君も吉川さんも、最近は週末に二人で会っても、面倒なだけで全然面白くないなぁなどと漠然と思ってはいた。

 しかし、その日曜日の朝は、まさかその日に別れて明日から相手と一切会わないようになるとは全く想像もせずに、二人とも家を出発している。


 別れ話のきっかけも、よく覚えていない。


 何かの話の中の、芝田君のちょっとした一言に吉川さんが咬みつき、そういうつもりで言ったんじゃないという芝田君の弁明がまた彼女の怒りに油を注いだ。


 それで、吉川さんが高く鋭い声でまくしたてていると、ずっと言われるがままだった芝田君も、長い間澱のように沈んでいた不満がかき混ぜられて、つい不用意な言葉で言い返してしまった。


 言う気は無かったが、つい言ってしまった。

 それが、決定的となった。


 その後はもう、二人とも止まらなかった。売り言葉に買い言葉がかぶさり、買い言葉に売り言葉がかぶさり、どこまでも止まる事のない口論が、今まで積み上げてきた二人の日々を粉々に粉砕していった。


 最初の前提がそもそも噛み合っていなかった芝田君と吉川さんの幸せな交際は、船が木星に到着した頃に最高潮に盛り上がった後、たった二ヶ月で嘘のようにあっけなく終わったのだった。

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