第7話 行くべきか、出るべきか (5)

 吉川さんと連絡を取らなくなって、約四ヶ月が経つ。


 彼女が居なくなる事で、生活が劇的に変わるのではないかと芝田君は思っていたが、驚くほど何も変わらなかった。ただ、土日のどちらかが必ず彼女との時間で費やされていたのが無くなって、少し暇になっただけだった。


 芝田君が別れたという事を聞きつけた同期が、そいつなりの親切心でコンパをセッティングしようか?と誘ってくれたりもした。

 でも、木星から帰る途中の「しきしま」における「転勤組」主催のコンパは、地球に着いたら即サヨナラが前提で、一時的なお遊びである事をお互い理解した上での軽いものばかりになるのが常である。芝田君は到底参加する気にはなれなかった。


 「復路は男女の新しい出会いが低調になる」というのはステラ・バルカー級宇宙船で暮らす若い男女にとっては常識であり、船内で営業するホテル、デートスポット、結婚式場などでは、復路の売り上げが往路よりも大幅に低迷する事を、経験則としてあらかじめ中期の収益計画に織り込んでいたりもする。


 別れた当初は、あんな女にもうネチネチと嫌味を言われる事もないし気が晴れた、などと単純に思っていた芝田君だったが、四ヶ月経って冷静になってくると、次第に複雑な心境になってきた。


 他のいい男見つけて幸せになってて欲しいなぁ、とも思うが、他のいい男と幸せになってたら腹立つなぁ、とも思う。


 そんな時に、彼の個人端末に進路希望調査が届いたのである。

 届いてすぐ、勢いで調査票を書き上げてそのまま送信しようとしたのをなぜか躊躇して踏みとどまった後、仕事の合間にパッと調査票を開いてざっと目を通しては、やっぱりこれよりも優先度の高い仕事から先にやろう、と回答せずに閉じる事を何度も繰り返すうちに、三週間先だった締め切りは残り一週間と三日になった。


「どうした芝田。大変そうだな」

 妙にカリカリして落ち着かない芝田君を見て、隣の席の池上係長が声をかけた。

「例の君津課長の件か? だったらお前……」

「すみません。それじゃないです。ちょっと席外しますね」


 つっけんどんに答えて、思いつめた表情で勢いよく席を立った芝田君は、いぶかしげな顔をした池上係長に目もくれず、そのままオフィスを出ると電話端末を手に取った。


 芝田君は、その電話番号をまだ消さずに残していた。


 勤務時間中だ。出るわけがない。そうだ、あんな酷い別れ方をしたのに、電話に出るわけがないんだ。出ないでくれ。出たら何を話せばいいんだよ。出なかったらあきらめもつく。出なかったら吹っ切れて俺は次にいける。出ないでくれ、出ないでくれ、出……


 ガチャリ。

 出た。

 「もしもし?」


 聞きなれた、あの声だった。

 心の準備はできていたつもりで電話をかけたのに、全然心の準備ができていなかった。「あぁ、お久しぶり。元気だった?」と不自然に高くバカっぽい声で話している自分に「お久しぶりじゃねぇだろバカ」とツッコミを入れている自分がいる。


 でも、そんなぎこちなさは最初だけだった。

 吉川さんは「今さら何なの?バカじゃないの?」などと嘲笑する事もなく、別れた時の罵詈雑言飛び交う凄惨なやり取りを蒸し返す事もなかった。まるで、別れた事実など全く存在していなかったかのように、ごく普通の口調で芝田君の食い気味の会話を受け止めてくれた。


 そのうち芝田君も落ち着きを取り戻し、他愛のない会話をする余裕が出てきた。連絡を取らない間に、こんな面白い事があったとか、二人でよく行っていた店が改装していたとか、共通の知人が転職したとか、何の努力も工夫も必要なく、嘘のように話がつながって流れていく。


 なんだろうこれは。

 おかしいだろこれは。


 なんでこんなに自然と話せるんだ。だってあの時あれだけお互いを罵り合って、精神がズタボロになって、二度と会わないと心に誓ったじゃないか。なんでこんなに自然と話せるんだ。


 そして芝田君は、この一言を一体どうすれば自然に言えるのだろうかと前夜に七転八倒しながら必死に準備していたセリフを、うっかり口を滑らせたような調子で、いとも簡単に口にしてしまったのだった。


「なぁ、今度ちょっと飲み行かない?」


 返事もあっさりしたものだった。

「いいよ?いつ?今週なら木曜は大丈夫よ」


 結局、吉川さんとの飲み会は三日後の木曜の夜と決まった。


 その日の夜は、事情を聞いた池上係長によって「芝田君の将来を考える会」が急遽セッティングされた。そして近所のモツ鍋屋に勝手に集まった有志たちによって、別に頼んだわけでもないのに議論百出、喧々囂々たる下世話な激論が、芝田君を囲んで夜遅くまで飽くことなく続いたのだった。


 木曜の夜、四ヶ月ぶりに会った吉川さんは、嘘のようにリラックスしていて自然だった。

 それは彼女が意識してそう見えるように演技しているだけの、実際には嘘の自然さだったのかもしれなかったが、芝田君にとってそれが演技かどうかなんて事は全くどうでもよかった。

 本当にリラックスしているのだとしたら、それは今でも自分に心を許してくれている証拠だし、仮に嘘だったとしても、吉川さんは自然に振る舞っている姿を自分に見せようと努力してくれているわけで、その配慮の背後には彼女の意志が感じられる。吉川さんの自然な態度に助けられ、芝田君も思いきって踏み込んでいけた。


 二時間制の飲み屋を追い出され、二人は二件目の店でも二時間飽くことなく話し続けた。酔いも限界だったはずだが、二人の頭は不思議な高揚感の中で正気を保ち続けていた。

 とうとう二件目の店の閉店時間も迫る中で、芝田君はボソッと、今日この日で最も重要な一言を発した。


「来週、進路希望調査の〆切なんだ」


 それは船内暮らしの長い吉川さんは当然知っている。なぜこのタイミングで芝田君が自分に電話をかけてきたのかも、着信画面を見た瞬間にピンと来た。

 体中にアルコールがあふれかえるほど駆け巡っているのに、吉川さんは全身の毛穴がキュッと締まり、脳の集中スイッチがパチッと入るのを確実に感じていた。


「もう一周、しようかなぁ……」


 その一言を聞いた瞬間の吉川さんの表情を、芝田君はきっと一生忘れないだろう。


 最初は、え?何それ?という驚き。

 今日たった一回飲みに行っただけで、私の意志の確認すらしていないのにそんな事言っちゃうの?という困惑。

 いくら何でも私の事軽く考えすぎなんじゃないの?という怒り。

 だとすると私今後どうなるの?という計算。


 さまざまな感情や思考が一瞬で脳内を轟々と回転し始めた一方で、なぜか心の奥底から沸々と自動的にあふれ出てきてしまう嬉しさで、つい顔がゆるんでしまうのを、芝田君に気付かれまいと必死で抑えようとしている。

 そんな心の動きがはっきりと感じ取れる表情だった。


 芝田君は、その表情が面白くてうふふと笑った。

その笑い方を見て、吉川さんも自分の顔のゆるみを抑えるのをやめてうふふと笑った。

 これでもう、言葉はいらなかった。

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