サウナ上がったら何食べる?


 ――サウナ上がったら何食べる?

 とりあえずはビールを頼んで、つまみに揚げ物? それとも定食を注文して、とりあえずは腹を満たしてから、酒を飲むか? はたまたちょっとした小鉢をいくつも注文してみようか?

 私の場合はまずコーラを注文する。ビールは正直好きじゃない。それと一緒に板わさだ。合わないだろうと思われるかもしれないが、実際合わない。けれど、それが無性に美味く感じてしまうのは、サウナの魔法のなせる技。

 そうして、ひと心地着いたら、今度は本格的に飯を食う。

 メシはソーセージエッグ定食なんてのがいい。ご飯に味噌汁、そしてカリカリに焼いた目玉焼き、ウィンナーと千切りキャベツ。付け合わせに漬け物、それと納豆なんて付いているとさらに嬉しい。

 飯を食いながら、気まぐれに垂れ流されるテレビ番組を、大した興味もないままにだらだらと見る。無秩序に時間は過ぎていく。

 これこそがサウナという贅沢だ。

 普段、家で同じように過ごしていれば、無意味に休日を過ごしたと慚愧の念を抱くものだが、サウナにおいては、整った体がそうさせるのか、不思議と有意義に時が過ぎたように思える。

 サウナで飯を食いながら、ふと、まわりを見渡してみる。

 ビールを片手に新聞を読む人、ぼんやりと定食を食べながらテレビを見る人、友人と楽しそうに談笑する人、食事を終えてうとうととしている人。様々な人々がそれぞれの時間を過ごしているが、一様に顔は満足げに見える。普段は気難しそうなおじさんも、気の弱そうな青年も、みな一様に人生に満足して、自信に満ちた顔をしている。

 それはそうだ。

 食堂にいる人々は、すでにサウナから上がって整った人間ばかり。整った人間だけの静かで、そして幸せに満ちた空間がここにある。

 この空間ほど幸福度の高い場所は地球上にそうはない。




 通いたくなるサウナには、必ず良い食堂が存在する。

 サウナ室が良い、水風呂が良い、外気浴スペースが良い。良いサウナの条件は様々あるが、通いたくなるサウナに必須の条件は、心落ち着く食堂だ。

 サウナ室や水風呂こそが、サウナの本質であり、食堂はおまけに過ぎないという諸兄もいるだろうが、私はそうは思わない。

 サウナ、水風呂、外気浴。サウナの食堂はそれと同じくらいに重要な要素だ。

 サウナ、水風呂、外気浴、そのサイクルを何のために行うかと言えば、当然、“整う”ためである。では、なぜ人は“整おう”とするのかと言えば、幸福を感じるために他ならない。

 それでは人がサウナで最も幸福を感じている時間とは一体いつなのだろうか。

 サウナでぼうっとしている時間、水風呂で心が穏やかになっていく瞬間、ベンチに座ってゆっくりと整えている時間。そのどれもが幸福な時間だが、一番幸せなのは、それらを終えて、食堂でぼんやりとした時間を過ごしている時ではないか。

 火照った体を冷えた飲み物でゆっくりと冷やして、だらだらと飯を食う。これほど幸せなことはない。

 とある医者の研究によれば、サウナ、水風呂、外気浴のサイクル――“整える”ことによって、脳の中の感覚を司る部分が非常に活動的になるという。

 浴場の水の輝きが美しく見えるのも、流れる水の音が普段よりよく聞こえるのも、薬草サウナの香りを森林のように錯覚するのも、科学的にはそうして脳の活性化によるものらしい。

 それは味覚にも当然反映される。

 サウナ上がりの飯が美味く感じるのも、そうした理屈のようなのだ。

 多くの人は“整う”前に何をするかということを一番に考えているように思えるが、しかし、それと同じくらい“整った”後のことも重要である。

 “整えた”状態でいかに過ごすか。“整える”ための準備であるサウナ、水風呂、外気浴、それと同じくらいに“整えた”後を過ごす食堂という場所は、サウナにとって欠かすことのできないファクターなのである。




 良いサウナにおける、良い食堂というのは、綺麗であれば良いというものではない。むしろ、今風なデザインで隅から隅まで綺麗に整った場所であるよりも、古びていて、少し小汚いぐらいの方が良い。

 少なくとも私の好みはそうだ。

 綺麗でおしゃれなサウナの食堂と言えば、水道橋はスパラクーアだ。場所柄と言えば、それまでだが、デートスポットである東京ドームシティのラクーア内にあるだけあって、おしゃれなバーまでついていて、カップルも多い。

 これはこれで良いのだが、しかし、腰を据えて落ち着くには、些か華やかに過ぎる。

 サウナにおける食堂の完成形、その一つとしてどうしても挙げたいのは、鶯谷のサウナセンター(旧サウナセンター大泉)である。

 昔ながらの食堂と言った様相で、昔の純喫茶にあるような椅子やテーブルが並び、小上がりに座敷席が三つ。決して汚いわけではないが、古びた家具が廃れた雰囲気を醸し出す。あちこちに手書きのメニュー表が貼られ、テレビがぼんやりと無意味に流れる。

 食事はたぶん美味いわけではない。

 「たぶん」と言うのは、私はこの食事をとてつもなく美味く感じているからだ。私にとってサウナセンターの食事というのは、この世で最も美味なる料理であるが、けれども時折、買い出しに行った店員が肉のハナマサの袋を抱えて帰ってくる姿やキッチンから聞こえてくる「チン!」という明かなレンジの音を見聞きしていると、とても美味い食事だとは思えない。

 けれども、それはサウナで整った体がそうさせるのか、サウナセンターのノスタルジックな空気感がそうさせるか、理由は未だ知れないが、兎角、私にとってサウナセンターの食事は無上であり、末期まつごの食事は是非、サウナセンターで取りたいと思っている程度には好きなのである。

 錦糸町はニューウィング。このサウナの食堂も良い。

 錦糸町の裏通り、場外馬券場ウィンズ前の通りは、以前より小綺麗になったものの、未だ退廃的で危険な空気さえ感じる。その中に佇むニューウィングの食堂もまた退廃的な雰囲気だ。

 あちこちに座る客達は、錦糸町の裏通りと同じく、少し危うい雰囲気の六十過ぎた男たちが多い。テレビは競馬中継か相撲中継を映し、競馬の結果に一喜一憂する。

 食堂に入ってすぐには、異様な雰囲気に面食らって、身を堅くするが、その片隅に座ってぼんやりとしていると、不可思議にも落ち着いてしまう。

 食堂に座る客達の雰囲気というのも重要なのだろう。

 サウナセンターもそうなのだが、率直に言って、変な客ばかりだ。自分もその変な客の一人なのかもしれないが、その奇妙な客達が落ち着く雰囲気を作り出しているのは確かだ。

 到底一人では食べきれない量を注文するおっさん、やたらと店員に話しかけるじいさん、鍋焼きうどんを注文してにやつく若者。少し変だが、それぞれ好きなように過ごしている。この“自由”な客達の過ごし方こそが、サウナで“整えて”、心を解放した結果なのかもしれない。客達の“自由”な振る舞いの中には、どこか心穏やかな優しさを感じる。

 “整えた”者達の楽園。それこそがサウナの食堂なのである。

 それは或いは“天国”と言えるものなのかもしれない。




 サウナの飯は美味い。

 それがもし大して美味くもないものだとしても、美味く感じてしまう。それはサウナの作り出す魔法だ。

 ふと、あるとき思い立ったことがあった。

 サウナ上がりの飯がうまいのだから、腹が空いていたらもっとうまいのではないか、と。我ながらバカな発想だと思うが、空腹は何よりのスパイスと言うのも事実。私は思い立ってすぐにそれを実行した。

 ――整わなかった。

 結論から言えば、整わなかったのだ。腹が減って仕方がなく、サウナに集中できない。腹が減ってサウナどころではなくなるのだ。しかし、折角サウナに来たのだから整えないというわけにもいかない。早く食事にありつこうとして、急いで整えようとした。その結果、整わなかったのだ。

 それもそうだ。“急ぐ”ということは“整える”ことと相反する。社会に飲まれ、慌ただしく、常に急いでいる自分から己を解放するためにサウナにいるのだ。“急いで整える”という言葉自体がナンセンスなのだ。

 何より空腹がひどく気になって、サウナどころではない。人によってはそのせいで倒れる可能性もある。オススメしない。

 その空腹サウナ実験からしばらくしたある日、サウナに行こうとしていたら、腹が空いていることに気が付いたことがあった。空腹でサウナに入り、こっぴどく失敗したばかりだったから、これはいかんと思い、食事をしてからサウナに入ってみた。

 しかし、これも同様に整わなかった。

 ふくれた腹でサウナに入るとき、どうにもいやな予感はしていたのだが、案の定、整わなかった。それどころか、若干気分が悪くなった。ラーメン二郎に行った直後にサウナに行った私も私なのだが、腹一杯で少し食べ過ぎた私は、重たい体でサウナに入ると、満腹感は気持ち悪さへと変わった。胃の中のラーメン二郎が、サウナでさらに茹でられて、腹の中で大暴れして、気分が悪い。

 サウナから水風呂に入ると、気分は余計に悪化した。最悪だった。

 結局、その日はサウナ、水風呂を1セットすらもそこそこに帰るハメになった。 

 結論を言えば、自然体が良い。

 空腹過ぎず、満腹すぎない。そういったあるがままでサウナに行けばよい。サウナを上がれば、自然と腹は空く。その状態こそがサウナ飯を一番うまくする、ベストな状態なのだ。

 ちなみに酒を入れてのサウナは絶対に止めた方がいい。これこそ最悪、倒れる可能性がある。日本サウナスパ協会をはじめとして、すべてのサウナ施設で酒の入った状態でのサウナは危険だと注意喚起されている。

 私は一度、かなり酒が入った状態でロウリュを受けたことがあるが、異常なほどに心臓の鼓動が早くなり、動悸が止まらなかった。私が五十代なら間違いなく、心筋梗塞で倒れていたに違いない。オススメしない。




 さて、サウナで何を食べるか。

 そんなのは人の勝手だ。好きなものを食べる。サウナ上がりの飯はやけにうまい。なんてことのないような飯でもサウナを上がって食べると、極上のフルコースとなる。メニュー表に書かれたすべてが最高の食事だ。

 面白いことにサウナ上がりの食事には、その人間の趣向が如実に表れる。

 私は先に述べたとおり、まずコーラと板わさ。そうして、ひと息いれたところで、本格的に飯に取りかかる。そうして頼むのは決まっていつも朝食のようなメニューだ。ご飯、味噌汁、目玉焼き、あと納豆。こうした定食を置いているサウナは多い。夜でも昼でも朝でも、どの時間でもそうしたメニューか、無ければそれに近いものを頼む。

 鶯谷のサウナセンターの看板メニュー・ソーセージエッグ定食は、私にとって最高のサウナ飯だ。大盛のご飯に味噌汁、納豆、漬け物、ソーセージ、目玉焼き、コールスロー。目玉焼きとソーセージとコールスローに醤油を一回しかけて頬張る。最高にうまい。

 サウナセンターに泊まると夕飯でも、翌朝の朝食でもソーセージエッグ定食を頼んでしまう。K氏にどんだけ卵食うんだ、とよく突っ込まれている。

 私の友人T氏は、サウナ上がりには、どうしてもツナサンドが食べたくなるらしい。彼とサウナに行くと、決まってツナサンドを食べている。ツナサンドがメニューにないときは、不承不承にトーストを注文している。どうしてもパンが食べたいらしい。何ならもう一皿、別なサンドイッチを注文するときもある。もっとも私もソーセージエッグ定食を食べた後にゆでたまごを注文するときがあるから、人のことは笑えない。

 K氏は必ずサウナ上がりに麺類を食べる。特に塩焼きそばだとか、多少こざっぱりしたものが良いらしい。本人にこれを言うと、もっと色々食べていると否定するが、端から見る限り、毎回麺類に間違いない。

 鍋焼きうどん、という人を見かけたこともある。見ず知らずの青年がサウナ上がりに鍋焼きうどんを注文していた。もちろん、見ず知らずの青年だから、毎回鍋焼きうどんを食べるのかは知る由もない。しかし、鍋焼きうどんが届いたときの青年の顔、少年のようにきらきらと目を輝かせて、口元をにやつかせた彼の嬉しそうな顔、その顔を私は見てしまった。あんなに嬉しそうに鍋焼きうどんを食べる人は初めて見た。きっと彼はサウナ上がりの鍋焼きうどんをいつも楽しみにしているに違いない。

 どうにもサウナ上がりに食べたい飯は、人によってある程度、傾向が決まっているらしい。或いはそれこそがその人が本当に好きな食べ物なのかもしれない。サウナで“整えた”体が、精神を自由に解放し、解放された精神は本人の心の奥底に隠された本当の趣向を洗い出すのだろう。

 鍋焼きうどんを嬉しそうに食べる青年。その顔を見れば、彼は本当に鍋焼きうどんが好きであると分かる。サウナが私たちに自由を与え、それが本当の趣向を暴き出す。

 K氏のように本人が否定したとしても、無意識に本人が本当に好きな物を注文してしまう。それがサウナの食堂なのだ。


 さて、冒頭にもどろう。読者諸兄に一つ質問だ。

 ――サウナ上がったら何食べる?

 この質問、それ即ち「あなたが本当に好きな食べ物は何ですか?」という問いと全く同義に他ならない。

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