男の楽園 ――ジートピア


 忘れ得ぬ人がいる。

 誰しもがそうだ。それは儚い初恋の人であったり、共に青春を過ごした友人であったり、何かを与えてくれた恩人であったり、人によって様々だろうが、誰にでもきっと忘れ得ぬ人がいるに違いない。

 しかし、私の場合、それは少し風変わりだった。少なくともそれは恋心を抱いた相手ではない。

 彼女は確かに綺麗な女性であった。

 しかし、私は彼女に対して恋い焦がれたわけでは決してなく、けれども、どこか淡い憧れと僅かな好奇心を抱く人物で、その出会いから数年経った今現在に至っても、ときどき彼女を思い出し、どうしているだろうと気になってしまう。

 私が彼女に会ったのは、たった一度。しかも、一言程度の会話しかしたことはなかった。それでもサウナの食堂でぼうっとしていると、時折、彼女のことを思い出してしまうのだ。

 彼女の名はマルシア。

 私が彼女に出会ったのは、“男の楽園”ジートピア。

 彼女は確かにあの“楽園”に住まう女神であった。




 千葉県船橋市。そこに“男の楽園”なるものが存在すると知ったのは、とある週刊誌の記事からだった。

 その週刊誌であるとき、「泊まりたいサウナベスト5」という記事が載っていて、その一位が船橋市のサウナ・ジートピアだった。札幌のニコ―リフレや埼玉の草加健康センターなどの有名サウナを抑えて、堂々の一位を飾ったジートピアというサウナを、私は寡聞にして知らなかった。

 早速、ネットで検索して調べると、公式ホームページが出てくる。

 ホームページから見たジートピアの姿は、浴場をはじめとした建物全体が古めかしく、いかにもバブル期に建てられたかのような雰囲気であったが、しかし、建物の古さで言えば、サウナセンター大泉(現サウナセンター)やウェルビー栄店とて建物は古い。それを考えると、或いはジートピアもそれらのサウナに並ぶ素晴らしい名店であることを裏付けるような気がして、わくわくと胸を躍らせたものだった。

 さらに言えば、その公式キャッチコピーが私の心をよりくすぐった。

 ――“男の楽園”。

 “男の楽園”と言われて、胸躍らない男がいるだろうか。

 一体、どんな楽園なのだろう。

 何の変哲もないサウナでさえ、私にとって、いや、サウナーにとってはそれ即ち楽園なのだ。それが自ら“男の楽園”を名乗るとは。どんなに素晴らしい場所なのだろうか。しかも、週刊誌の記事で「泊まりたいサウナ」第一位なのである。それはまさにジートピアが“楽園”であるということを私に確信させたのである。

 しかし、それは今考えれば甘い考えであったのだ。

 当時の私はと言えば、サウナにハマり始めて、サウナしきじやサウナセンター大泉などの有名サウナにいくつか行くようになった頃だった。老舗サウナの魅力が気が付き、「古ければ名店なのでは」と無意味な期待を持ってしまっていた。

 先に結論から言えば、ジートピアは私が期待していたような施設ではなかったのだ。サウナの名店、老舗というわけではない。けれど、それはそれとしてジートピアは私の心を魅了する何かを持った場所であったのは確かだ。

 “男の楽園”。サウナというよりも、そう表現すべき場所こそがジートピアであったのだ。

 しかし、それを知らぬ私は、K氏を誘い、心躍らせながらジートピアへと向かったのだった。




 船橋駅の北口改札を降りてすぐ。徒歩一、二分の場所にジートピアはある。“男の楽園”は駅チカだ。

 ジートピアの玄関をくぐると、ホームページで見たとおり、建物こそは古いが、綺麗に掃除が行き届いている。フロントの従業員のあいさつもさわやかで、それこそウェルビー栄店によく似た雰囲気であった。

 私たちがジートピアに違和感を感じ始めたのは、フロントで受付をしていたときだった。

 忙しい合間を縫って、私たちがジートピアへとやってきたのは、土曜の夜十時を過ぎ。その日はジートピアに泊まろうと思って、併設されているカプセルルームが空いているか、尋ねたのだった。

 カプセルルーム併設のサウナは大抵、週末ともなれば、サウナーのみならず、終電を失った人々が眠る場所を求めて集まる。あまつさえジートピアは泊まりたいサウナ第一位なのだ。予約無しではカプセルルームは無理だろうと思いつつも、ダメ元で聞いてみたのであった。

 当然、返ってくる答えは、「予約でいっぱいです」というものだろうと考えていたが、フロントの従業員の答えは予想外のものだった。

「どうぞ、空いてるところをお使い下さい」

「空いてるところ……ですか?」

 私たちはきょとんとして、そう返すだけだった。

 空いているところって一体なんだ? 

 大概、サウナに併設されるカプセルは受付の時点で申し出るか、予約をしないと使えない。それはそうだろう。カプセルを利用する人とそうでない人では当然、料金が違う。使える設備が違うのだから当然だ。

 けれど、フロントのさわやかな彼は、さも当然のように空いてるところを使えと言った。料金が同じなのだろうか。そう疑問を思って聞いてみると、「同じです」と答えが返ってくる。

 私たちはとりあえず、その奇妙な返答に頷きながら、受付を済ませ、中へと入るしかなかった。


 受付からロッカールームの中へと進み、早速私たちはサウナへ入ることにした。ロッカールームは薄暗く、時折、明滅する切れかけた蛍光灯が気になった。なんとなく嫌な感じがしていた。

 入り口こそは綺麗で好印象であったが、中に進むとそれが薄れて、どこか退廃的な雰囲気がある。しかし、気のせいだと、その考えを頭からふるい落とし、館内着に着替えてサウナへと向かう。おそらくK氏も私と同様に感じていたに違いないが、私たちの間で、その違和感は決して語られなかった。

 一階のロッカールームから二階に上るとさっそく浴場がある。

 着込んだばかりの館内着をすぐに脱ぎ、浴場へと向かった。

 浴場に入ると、あちこちに飾られた金ピカのライオン像や女神像といった装飾がやたらと目に付いた。それらの謎の装飾は、浴場全体にバブル期の風情を醸しだし、怪しさを演出する。ギラギラとした浴場に不安感を得ないわけではなかったが、決して汚いと感じることはなかった。むしろ、小まめに清掃していることはよく見て取れた。

 フロントでの不思議な会話やロッカールームのえも言われぬ妖しさは勘違いだったと、不安感と体の汚れを軽く洗い流し、早速サウナへと向かった。


 ジートピアにはサウナ室は二つある。

 高温サウナと低温サウナの二つである。

 まずは高温サウナへと向かう。中に入ると、綺麗で広々としたサウナ室だ。

 ひな壇は三段ほどだが、一段一段の奥行きがあって、ゆったりと座れる。白で統一されたサウナマットに座ると、ふかふかで心地良い。

 温度計の針は一〇七℃。

 高温サウナと謳うだけあって、かなり高い温度だが、そこまで熱いとは感じない。黄土壁と思われる土壁のおかげだろうか。柔らかな熱を伝えるサウナ室は、決して肌に刺すような熱を与えず、じんわりと私をボイルする。

 正面の壁のど真ん中に埋め込まれたテレビが少しやかましかったが、けれど、落ち着く良いサウナ室だと思った。

 浴場もサウナ室も人はまばらだった。

 十時過ぎとという時間がよかったのだろうか。常連がやってくるには遅すぎるが、終電を逃した人が来るには早すぎる。そんな時間だったからか、私とK氏の他に客は数人程度であった。

 例によって、十二分時計を一回り。それだけの時間を過ごすと、やはり一〇〇℃越えのサウナだけあって、くたくたに茹だってしまう。

 溶けるような熱さを耐え抜いて、サウナ室へ出ると水風呂へ向かう。

 水風呂へ謎のマーライオンが水を吐いているのは、気にしないようにしながら浸かると少しがっかりとした。

 「うーん、温い気がする」

 水温は体感一七℃。サウナの水風呂としては一般的な温度で、決して温いと言える温度ではないが、一〇〇℃を越えるサウナの後では些か温い。

 水風呂は冷たければ良いというものではない、というのが私の持論だ。けれども、また一方で温度が重要であることも確かである。温度だけでなく、水質や水深、流れがあるかどうか、良い水風呂の条件は多いが、最も重要なのはサウナとのバランスなのだ。

 サウナとのアンバランスさもさることながら、水質もいかにも水道水といった肌触りで、決して悪い水風呂とは言わないが、泊まりたいサウナ第一位のサウナ施設の水風呂としては物足りない気がした。

 ともあれ、水風呂の中で体を忙しなく動かして、体から熱の衣を引きはがし、なんとか体の内に冷気を取り込む。しばらくして、気道から冷気を含んだ吐息が出るのを感じると、私はよしとうなずいて、いそいそとベンチへと向かうのであった。


 ベンチにしばらく座り込む。

 どんなサウナでもしっかりと体を冷やせば、だんだんと視界に水の反射がキラキラと入り込み、ぐるぐると地球は回り、サウナトランスへと入り込む。

 そうして、ぐにゃぐにゃの視界の外にある、気持ち良さを引き寄せると、自然と体は整った。

 整った体で浴場を見渡すと、嫌味くさかったライオンや女神像といった謎の装飾が水に滴り、美しく思えてくるから不思議だ。

 気を良くした私は、次は低温サウナに入ってみることにした。

 装飾過多な浴場の一番奥に、ひっそりと低温サウナはあった。

 四人座れば、ぎゅうぎゅうであろう狭いサウナ室はテレビもなく、音楽が流れるわけでもなく、静謐なサウナ室だった。

 二段しかないひな壇の上段にどっと座る。

 温度計は八〇℃。低すぎず、高すぎず。このジートピアの水風呂は、むしろこちらのサウナの方がバランスが取れている気がした。(この後、水風呂に入ってみると実際そうだった)

 低温サウナは一面ガラス張りで、しかも端にあるため、浴場全体がよく見えた。特に目に入るのは、アカスリ用のベッド三台が置かれたスペースだ。

 低温サウナの目の前に、浴場と何の仕切りもなく、アカスリ用のスペースがあった。それなりに混み合っているらしく、三台あるベッドの内、二つが埋まっていた。

 珍しかったのは、浴場から何の仕切りもないアカスリルームだけでなく、そこでアカスリをするスタッフもだった。

 サウナでよくあることだが、アカスリをしているのは外国人のおばちゃんが多い。けれど、珍しかったのはそのアカスリのおばちゃんが、中国系や韓国系ではなく、東欧系のおばちゃんと東南アジア系だったことだ。

 東南アジア系のおばちゃんは見なくはないが、東欧系は珍しい。年の頃は五十過ぎくらいに見える。年齢の割によく体型を保っており、タンクトップとホットパンツをよく着こなしていた。

 珍しいなとは思う程度で、気に留めたつもりもなかったが、ガラス張りのサウナの目の前で、忙しなく動いてアカスリをしているせいで、気が付けば、私の視線はぼんやりと追っていた。

 いや、忙しなく動いているというのも言い訳だったのかもしれない。

 東欧人らしく、日本人にはない、出るところは出て、締まるところは締まった体型をタンクトップとホットパンツが余すところなく、見せつけられる。男であれば、これに気を引かれないことはないだろう。その豊満な体に少なからず私は魅了されていたのは確かだった。

 けれど、よくよく見れば、五十過ぎと分かる顔の皺やちょっとした二の腕のたるみ、それらを見れば、自分にとって女性として見れる相手ではないなと思い、視線を外した。

 けれど、それでも時折、無意識に彼女の姿を追っている自分に気が付いて、私は一人気恥ずかしくなって、低温サウナを去って行ったのであった。




 私とK氏は浴場を出て、二人首をかしげていた。

 確かにジートピアは良いサウナであった。けれど、泊まりたいサウナ第一位と言って良いほどに良いかと言われれば、それは明らかに否だった。

 もし近所にあるならば、通いたいサウナの一つになったであろうが、けれども、わざわざ遠出をしてまで、どうしても行きたいサウナではない。

 肩すかしを食らいながらも、私たちは浴場を離れ、とりあえず、カプセルルームに行くことにした。カプセルルームが空いているかどうか、確認するため。

 空いているカプセルルームを使えというフロントでの言葉に面食らったものの、そういうルールならば従うだけだ。とりあえずどの程度の混み具合なのか、それを確認し、場合によっては場所取りをしようという算段だった。

 ジートピアは、一階に受付とロッカールーム、二階に浴場とマッサージルーム、三階に食堂とリクライニングルーム、四階、五階にカプセルルームとリクライニングルームという構造になっている。

 とりあえずは四階と五階へと階段を登る。

 違和感は確信と変わりつつあった。

 浴場のある二階から食堂のある三階へ階段を登ると、食堂からはサウナとは思えないほどに大きな笑い声が聞こえてくる。踊り場を通りかかるたびに、酔っ払ったおっさんがぼうっとうずくまる。四階のリクライニングルームの前では、リクライニングチェアまで辿り着けなかったのか、廊下で爆睡するおっさん。

 あちこちに酒に飲まれて、意味不明な言葉を発しながらウロウロとするおっさんがいる。

 ――治安が悪い。

 まるで繁華街の路地裏のようなサウナだ。

 リクライニングチェアで寝るには、かなり身の危険を感じる場所である。しかし、頼みの綱のカプセルルームへ行くと、カプセルは全て先客がおり、一つたりとて空いている場所はなかった。今さら他のサウナに行こうにも、時間は十一時を過ぎている。電車がないわけではないが、けれど今から移動するもためらわれる時間帯だった。

 結局、私たちは意を決して、このサウナに泊まることにした。

 行く宛もないというのもあるが、「泊まりたいサウナ第一位」なのだ。泊まらずして、その真価を見ることはないのかもしれないと思ったこともあった。

 三階の食堂へ行くと、決して広くはない食堂は、多くの客で埋まっていた。サウナの食堂は大概、一人の客が多いものだが、ジートピアでは飲み会終わり――というよりも四次会か五次会くらいの雰囲気でサラリーマンのグループが大笑いしながら酒を飲んでいる。サウナの食堂というよりも、居酒屋のように見える。

 なんとか空いているテーブルに着くと、店員が注文を取りに来る。

 食堂の店員も全員、外国人の女性で、こちらはアカスリと違って、みな中国系か韓国系のようだった。彼女たちは酔っ払いたちに絡まれるのを、うまくあしらいながら仕事に勤しんでいる。まるでスナックの店員みたいだと思ったが、それは半ば正解で、後から知ったことだが、ジートピアの食堂は以前はスナックのように女性らがお酌をしてくれる場所であったようだった。つまり、彼女らは本当にスナックの店員みたいなものだったのだ。

 現在はそのようなサービスはないが、そういう経緯もあって、サウナというより酒場といった風情の場所になっていたようだった。

 私たちは未だ夕食すら食べていなかった。いくつかの軽食とビールを注文すると、それらはすぐに届いた。

 下戸な私は普段、サウナの食堂でビールなど注文しないが、どうしてかその日は飲んだ。なぜビールを飲もうと思ったか、今となっては定かではないが、けれど、まるで居酒屋のような雰囲気に飲まれていたのは確かだった。

 ビールをあおりながら、届いた食事を食べるとうまかった。

 サウナで食べる飯というのは、どんなに不味い料理でも大抵うまく感じるものだが、ジートピアの飯は本当にうまい。よくビールが進む。そうして整った体にほどよく酔いが回ると、不思議と居心地が良くなってくる。

 あんなにも治安が悪く、退廃的な雰囲気で、疑心暗鬼になっていたというのに、飲めば飲むほどに居心地が良い。

 ――本当にスナックみたいだ。

 私は数年前まで異常なほどにスナックに通いつめていた。キャバクラでもガールズバーでもなく、なぜスナックかと言われれば、居心地が良いからだ。

 スナックというものは、不思議なものだが、その気安さからか、通い慣れると居心地が良くなってくる。終いには自分の家と同じくらいになって、何時間もをなにするでもなく、居着いてしまう。

 心地良さにただ身を委ね、空いたグラスに次々に酒を注いでいくと、ますますジートピアの居心地は良くなった。そうして、酔いも回り、宴もたけなわとなった深夜一時。実は翌日も別のサウナへと遠征する予定のあった私たちはそろそろ寝ようということになったが、その前にマッサージを受けることにした。

 未だ騒がしい食堂を後にして、二階のマッサージルームへと向かうと、案の定、週末の夜のマッサージは混み合っていた。

 いや、よく見れば、週末で人が多いだけが理由ではない。

 スタッフの数が足りていない。

 またしても中国系と思われるおばちゃんが、たった二人でマッサージを切り盛りしている。マッサージ用のベッドは十以上もあるというのに、スタッフは二人きり。しかも、二人で切り盛りしているのに、ベッドは八割以上も埋まっている。

 一体どうやって回しているのか思案していると、私たちを見つけた中国系のおばちゃんが声を掛けてきた。

「二人? ダイジョウブ、入れるヨ。ベッドで寝て待ってテ」

 けれども、混み合っている様子を見た私たちは、流石に早く寝たかったため、「いやぁ」とあいまいに返事をしながら、去ろうとした。けれど、「ダイジョウブ、ダイジョウブ」というおばちゃんの押しに負け、結局、ベッドに寝かされてしまった。

「寝てテ良いカラね。順番きたら起こすカラ」

 そうベッドに転がされると、おばちゃんはまたいそいそとマッサージへと戻っていった。

 おそらくおばちゃんは歩合制なのだろう。自分のシフトのあいだ、客を絶やさないため、マッサージに来た人間を有無を言わさず、ベッドに転がして客を確保する算段なのだろう。

 しかし、その日は週末の夜。おばちゃんの想定以上に客は多く、私が来てすぐに同じようにベッドに転がされた人間で埋まってしまった。そうすると今度こそは断るしかないはずなのだが、おばちゃんはと言えば、「三階でビール飲んで待ってテ!呼びに行クから!」と言って、強欲に客を確保していく。

 「大変だなぁ」とも思ったが、結局はおばちゃんの自業自得であることに気が付いて、私は気にせず眠ることにした。

 自分の順番が来れば起こしてくれるというのだから、安心して寝ていられると思ったが、なかなかに寝付くことはできない。

 酔いは十分に回って眠かったのだが、このマッサージ室はともかくうるさい。普通、サウナに限らずマッサージというものは、大抵静かなものであるが、ジートピアはそうではない。

 酔っ払いが絶えず来るのだ。

 そうして酔っ払いが来るたびにおばちゃんは、「ビール飲んで待ってテ!」とあしらっていく。

 特にやかましいのが、おそらく常連客であろう一人だ。

 ベッドが全て埋まったころに「けいこぉ! けいこぉ!(おそらくおばちゃんの名前)」と叫びながら、やってきて「けいこぉ! 空いてないの? 待つの?」と喚く。それが一階ならまだ良いが、三回も四回もやってくるのだ。そのたびにケイコの「いいからビール飲んで待ってナ!」という声が響き渡る。

 ケイコには他にも来客がある。

「ケイコさん、ケイコさん。ナンカお客サンにアカスリ断られたんだケド!?」

 そう言ってやってきた声に私はぴくりと反応した。ちらりと顔を上げて、声の主を見ると、案の定、私がサウナに入りながら、ぼんやりと見つめていた、妙に気になる女性。東欧系のアカスリ担当だ。

「何で断られたの、マルシア?」

 どうやら彼女はマルシアと言うらしい。さっきと変わらずにタンクトップとホットパンツを年不相応によく着こなす。

「理由、ニホンゴ分からナイ。教エテ」

 どうやらマルシアは日本語がまだあまり得意ではないらしい。マルシアより明らかに年かさであろうケイコに聞きに来たようだった。

「何か“色っぽい”スギだから、アカスリ、ダメ言われた。“色っぽい”テ、どうイウ意味!?」

「“色っぽい”はセクシーって意味」

「SEXY?」

「ソウ! あなた見てるとチンチン立っちゃう。それ“色っぽい”」

「“色っぽい”、チンチン立つ!」

「マルシアじゃしょうがナイネ」

「(スタッフ一同爆笑)」

 どんな会話してんだよ、と思いつつ正直、私も笑ってしまった。そして、私以外にもマルシアに魅了された人間がいたらしい。

「マルシアは俺も立っちゃう」

「アナタ、アカスリは?」

「“色っぽ”過ぎるからいいや。それよりけいこぉ、まだか――」

「早く上(食堂)言って、ビール飲ム!」

 さっきから「けいこぉ!けいこぉ!」とやかましいおっさんはまだいたらしく、マルシアとケイコの会話に加わった途端に怒られている。スナックにありがちなバカみたいな会話を聞きながら、私は不思議に安心して、ウトウトとして、そのまま眠りについた。


 バシン!

 突然、誰かに体を叩かれて目が覚めた。ちょうど寝入ったところだったというのに何だろうと思って体を起こすと、叩いたのはケイコのようだった。

「お兄ちゃん! いつまで寝てんノ!?」

 私はケイコに文字通りたたき起こされ、起き抜けに怒られた。いや、そもそも順番来たら起こすと、他でもないケイコに言われていたはずだ。なぜ怒られなくてはならないのだ。

「いいカラ早くマッサージやるヨ! 混んでるんだカラ!」

 その理不尽な怒りを受けながら、私はマッサージを受けた。

 うまかった。ケイコのマッサージは、今まで受けたどんなマッサージよりも抜群にうまかった。

 マッサージを終えた私は、最初はあんなにも治安が悪いと不安だったリクライニングチェアで誰よりも深く眠った。




 ジートピアというサウナは、サウナ施設として優れているかと言えば、決してそうではない。

 サウナや水風呂、或いは他の風呂、決して悪いわけではないけれど、最高とまでは言えないのは確かだ。

 高温サウナは一〇〇℃を越えるにもかかわらず、不快感はない熱だし、水風呂も高温サウナとは相性の悪いものの、温すぎるわけでもない秀才な水風呂だ。低温サウナもまた同様に居心地はいいものの、全体的に老朽化が激しい。

 正直に言って、ジートピアを訪れた直後は、「もう行かなくていいかな」と思っていた。

 けれども、少し時間が経つと、不思議とジートピアのことが頭に浮かんで、ときどき行きたくなってくる。


 話は変わるが、サウナに行くと、風呂上がりに食堂でゆっくりすることが多い。時間があれば、大抵の人はそうではないだろうか。

 設備が綺麗で新しい、なんというかモダンな感じのサウナに行くと、サウナや水風呂では大満足するのだが、食堂でのんびりしているときに「何か違うなぁ」と思うときがある。スカイスパやスパラクーア、あるいは最近オープンした池袋のかるまるなどがそうだ。

 別にそれらのサウナの食堂が悪いわけではない。むしろ、素晴らしいと言って良い。私が何か違うと思うのは、単に好みの問題なのだろう。

 例えば、食堂の雰囲気で好きなのは、サウナしきじや鶯谷のサウナセンター。なんというか、あの少し古びた定食屋のような風情が好きなのだ。これらのサウナの食堂は、先に挙げたサウナの食堂のように綺麗でおしゃれではない。けれども、そこそこに古びた空間が、それなりにざっくりな店員が、その気取らない雰囲気が、その場に甘えて、何も気にしなくてもいいのだと思わせてくれる。

 きっと私はそれが好きなのだろう。

 思うにジートピアというサウナは、その不可思議な風情ある食堂の雰囲気を徹底したサウナなのではないだろうか。

 ジートピアには不思議な魅力が存在している。

 不思議と居着いてしまう食堂、雰囲気とは裏腹にやけに落ち着く騒がしいマッサージ、そしてマルシアの“色っぽさ”。

 その魅力に似たものを探してみると、近いのはスナックであるような気がする。先ほど述べたように、私は一時期スナックによく通っていた。

 いや、よく通っていたというより、毎週二回は必ず行っていた。週末になると、スナックのママが出勤がてら私の家まで迎えに来て、二人で飯を食い、そして店に連れて行かれる。そんな生活をしていた時期があったのだ。

 スナックの魅力というのは、甘やかしてくれるという点にある。

 大人として、男として、しっかりしなくてはならない日常に、そうでなくても良いという時間を与えてくれるのがスナックである。

 社会人としての立場を脱ぎ捨てて、子どものようにママに構ってもらう。ママはと言えば、憎まれ口を叩きつつ、その甘えに応えてくれる。それ故にスナックのママはママなのだ。

 「けいこぉ! けいこぉ!」と何度もケイコを訪ねてきたあのおっさんは、まさにケイコに甘ったれていたのだ。そして、ケイコもまたそれを母親のように叱りつける。一見すると接客業として失格のような気もするが、しかし実のところ、それが正解なのである。

 ジートピアとは、まさにそのおっさんに象徴される、男を甘やかしきってくれる場所なのだ。それ故にジートピアは“男の楽園”として、看板に偽りなしなのである。

 ジートピアでサウナに入って、ビールを飲んで、ケイコかあるいは他の誰かに構ってもらって、ゆっくり眠る。

 これが“男の楽園”でなくて、なんであろうか。





 翌朝、目覚めると体はいつになく爽快だった。

 ケイコのマッサージが効いたらしい。

 起き抜けに自販機で買ったコーヒーを飲んで、朝風呂ならぬ朝サウナへと向かう。浴場へ向かう途中、マッサージルームを覗くと、もう朝の七時だというのに、未だケイコは忙しなく働いていた。二十四時間営業なのだろうか。

 一通り、サウナに入って、水風呂に浸かり、ベンチに腰を下ろして、目を瞑っていると、ふいに影がかかった。

 目を開けて、影の主を見ると、それはマルシアだった。

 マルシアはにっこりと笑顔を浮かべながら、私の肩をぐにぐにと揉み、「お兄ちゃん、アカスリは?」と言った。

 ケイコだけでなく、マルシアもまだ働いていたらしい。

 私は思わず、「いや、いいです」と断ってしまった。するとマルシアは素直に残念そうな表情を浮かべて去って行く。

 ――気恥ずかしくて断ってしまった。

「色っぽすぎてダメ」と昨晩断った男を私は笑えない。マルシアに誘われると、不思議と思春期の少年のようになってしまうのだ。スナックのママのように甘やかしてくれるジートピアという場所が、私を少年にしたに違いなかった。

 私は今でもときどき思い出して後悔している。

 ――アカスリ、やってもらえばよかったな。

 マルシアはまだジートピアで働いているのだろうか。もういないのだろうか。いや、もしかしたら国に帰ってしまったのだろうか。

 ――今、彼女は何をしているのだろう。

 そうだ、久しぶりにジートピアへ行こう。

 またケイコに怒られながらマッサージを受けて、ビールを飲んで、そしてマルシアに今度こそアカスリをやってもらおう。

 いや、でもやめとこうかな、チンチン立っちゃうから。




【SAUNA DATA】

ジートピア

サウナ:高温サウナ 110℃前後

    低温サウナ  80℃前後

水風呂:17℃前後

ロウリュ:なし

宿泊:カプセルルーム有り

営業時間:24時間営業

料金:入浴1,000円、宿泊2,000円

HP:https://www.funabashi-sauna.com/ 

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