No.11 水島しのぶ


 ハエの羽音が耳のそばで聞こえる。

 最初は一匹、次第に数は増え、頬にぶつかってはどこかへと飛んでいく。どのくらいの数のハエだろうか。いや、ハエではないのかもしれない。耳触りなそれに重たい瞼を開けると朝なのか夕方なのか、それさえも分からないほどに目の前は薄暗い。

 周囲を見渡せばどこか見覚えのある室内。六畳ほどの狭いその室内を黒い塊がうねるように宙を舞っていた。その塊から時おり跳ね出されるハエのような、というより恐らくそのような形をした虫が私の顔に当たるのだ。その黒い塊は方向を変え、うっすらと黄ばんだ小汚い壁にぶつかりながら、まるで水族館の巨大な水槽に入れられた小魚の集団のように右往左往している。当の私はというと大きなベッドに仰向けになりそこから少しも動けずにいる。逃げ場を必死で探すように動き回る虫たちの姿を滑稽だと思いながらも心の奥がざわついて、虫が口の中にまで入ってしまわないように私は自然と口をつぐんでいるのだ。まるでそうしなければならないことをずっと以前から知っていたかのように。

 この虫たちはどこへ向かうのか。死体のように横たわることしかできない私の真上で無我夢中に羽ばたきながら。バチンと音を立てて右の頬にぶつかってきた虫をはらうこともせず、私はぼんやりと天井を見つめていた。おびただしい虫の群れのその隙間を縫って見えるそれはやはりなんとなく見覚えのある黄ばんだ天井だ。次第にその天井を埋め尽くすまでに虫の塊が巨大になってきて、一匹一匹の姿が見えるほどに顔の目前まで迫ってきている。

 きっとこの状況から逃れることなどできない。私はそれを知っている。なぜ知っているは分からない。眼球だけを動かしてかすかに風が吹き込む大きな窓を見やったあと、再び私は虫たちの隙間から天井を見つめるのだ。

 ただうねりをあげ続ける得体のしれない虫へのかすかな殺意を抱いたまま。




「ねぇ、八雲先生って催眠術とかできるの?」

 一人掛けソファへ座り足を組む目の前の男に、私は何気なく聞いた。

 八雲先生。彼との出会いは置いておいて、私の問いに彼はひとつ首をかしげた。

「忍さんは催眠術ってどういうものだと思う?」

 出た、八雲先生のお決まりのパターン。質問したらそのぶん変化球みたいな質問が返ってくるやつ。私はひとつ溜め息をついてとりあえず考えるふりをする。心理学の本やその手の自己啓発本は胡散臭くて読んだことがない。更生施設では学ぶけど、いつも眠たくて半分は妄想の中にいる。

「テキトーだけど…人を思い通りにできる術?」

「へぇ、忍さんには思い通りにしたい人がいるんだ」

 その返答に「はぁ!?」と叫んで思わずソファに仰け反った。それを見て彼は笑う。作り笑いでも嘲る笑いでもない、ただ純粋に面白いといった具合の笑い。私はその笑顔が嫌いじゃなかった。

 医者なんてみんなお堅い頭の奴ばっかりだと思っていたけど、この人は頭の空っぽになった私より馬鹿に見える。そういうところが地味に気に入っていた。だから毎月二回、水曜の同じ時間にきっかり会う。最初はプログラムのひとつだったけど、通い始めて一年が過ぎるころにはここへ来るために自分で靴紐を通すようになった。

 それにしても「思い通りにしたい人がいる」なんてそんな的外れなことを言われるとは思わなかった。もらい笑いとでもいうのだろうか、一呼吸遅れて私も笑った。

「そんなわけないじゃん!あ、でもいいかも。補導員を操作して更生施設から抜け出そう!とかね。あ、その紙に書かないでよ」

「なるほどね、書かないでおく。結論から言うと催眠術らしきものはできるけど、思い通りにいくかどうかはその人次第ってところかな」

「なぁんだ、がっかり」

 私はソファに掛け直して頭を掻く。脱色して黒く染めても櫛すら通らなくなった硬い髪がチクリと指に刺さる。残暑で湿気も多いはずなのにこれだ。窓を見れば外はうっすら暗く、横に掛けられた古いアンティーク調の時計は十八時を回ろうとしていた。同時にちょうどノックの音が響き渡り、笑ったままの口を開けて先生と目を合わせる。

「こういうのってさ、話をしめるのも先生の役割なんじゃないの?」

「ノックを催促されてた頃に比べたら嬉しい苦情だね」

 はいはい、なんて小言を言いながら椅子の下で足をパタパタさせる。たった一時間、些細なことを話し合う。ああ、違う。「ささやか」なこと。二度目のノックが鳴らされたので、仕方なく「はぁい生きてます」と間延びした声で返事をする。私が立ち上がると八雲先生も手元の紙束を閉じてゆっくり立ち上がった。銀色が剥がれたドアノブに手をかけ、振り返る。

「その人次第って、催眠かからない人もいるってこと?」

 先生のまぁるい眼鏡には首を傾げた私が映りこんでいる。わずかに開かれた口元からのぞく独特な歯並びと、少し膨らんだ下顎。眼鏡の奥の瞳は一瞬開いて、それから細く緩む。

「いるよ、相当芯の強い人だと思うけど。補導員さんはかかりそう?」

「すぐかかるね」

 ドアノブを捻った先には心配そうに眉を八の字にした補導員の平沢さんが立っていた。「ね」と私は思わず笑ってしまう。八雲先生は肩をすくめた。




「ただいまぁ」

「おかえりシノ、八雲先生どうだった?」

 相部屋の美咲はすでにベッドへ入り、厚ぼったい本を読みふけっているところだった。まだ消灯前だというのにもったいない。私はおもむろに服を脱ぐとその顔に投げてやった。ようやく本から顔を剥がした美咲は服を投げ返して笑う。

 女子更生保護施設。ここには刑務所から出てきたばかりの罪を犯した女性や少年院からきた少女たちが二十人ほど共同生活している。私が来たのは二年前だ。先にこの部屋へ入っていたのは美咲だったけど、二人ともまだ自炊すらままならない。

「ねぇ、八雲先生どうだったってば」

「あー、催眠術の話した」

「催眠術?記憶消すやつ?」

 その言葉に思わず息を止めて美咲を見つめてしまう。ビビットピンクの半袖から覗く傷と針の痕。八雲先生みたいに変化球の質問をしたわけではないのに、彼女の心のフタを開けて無理やり覗き込んでしまった気分になった。

 美咲は記憶を消してほしいのか、なんて、そんな話はしたくない。

「平沢さんに催眠術かけてここ抜け出す話」

「それはだめでしょ。あーあ、私は来週まで先生に会えないのかぁ」

「美咲はいつもどんな話してるの?」

 んー、とまた本を広げる。色褪せたカバーがボロボロになった古本。美咲は八雲先生のことがひどくお気に入りらしく、先生の部屋の本棚に置いてあった本を記憶しては古本屋に通い詰めこうして読み漁っている。そんなことをしても八雲先生になれないのにと言ったら、あの人の頭の中を知りたいのだと言っていた。

「こういう本のこととか、昔のこと」

「そんなしみったれた話?」

「そう、しみったれた話。たらればの話だけど、もし戻ったら自分に言ってやりたいから。そんなことするなって、全力で止めてやりたいよ」

 でも先生はそのことに気付くことが大事なんだって、そう付け加えて美咲は本に薄っぺらい水色の栞を挟んだ。弱々しい語尾に美咲の本音が見え隠れする。もし戻ったらなんてそんなこと考えたことなかった。ベッドの上で寝転がり頬杖をつく美咲の瞳はどこか儚げで、見ているこっちまでその世界へ引きずり込まれてしまいそうだった。私は何も言わず、寝巻きのトレーナーを手に取る。

「そんな思い通りにできるわけないけどね、あのときの自分なんて」

 頭を通す途中で薄ぼんやりと聞こえたそれに動きを止めた。

 思い通りに。

 『忍さんには思い通りにしたい人がいるんだ』、八雲先生の甘ったるい声が頭の中に響いて、それがやけに喉元へ引っかかる。トレーナーに腕を通して散らかったベッドへ腰をかける。引っ掻いても出てくるはずのない喉元のそれに、そっと手を当てた。

「あ、クモ」

 ペチンと音がしたほうを見ると、壁に這っていた小さなクモを美咲が退治したところだった。今朝のあの夢を思い出す。繰り返し形を変えては蠢いていたあのハエたちを。

 ぺしゃりと潰れたクモの足が、わずかに蠢いて止まった。



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