No.12 今から殺しに行こう




 実家の部屋の片隅にある木材でできた古い勉強机。湿気を含んですっかりボコボコになった木目と、その木材のどこか懐かしい香りが鼻をくすぐった。たしか棚の一番上に、幼い頃に夜な夜なひっそり描いていたマンガが入っているはずだ。これでもかというほど伸ばした髪の毛をツインテールにして、少女漫画独特のぱっちりとした目を際立たせ、セーラー服を少しルーズに身にまとわせたとびきりスタイルのいい女の子が主人公だった。あの頃は少女漫画に触発されて、そんな現実離れした容姿の女の子ばかり描いていた。

 当時の私を思い出すかのようにゆっくり引きだしを開けると、そこには三十センチくらいのサナギが横たえていた。私はまたか、とぼんやり思う。漫画のことなどそっちのけで、私は目の前に横たえるサナギをどう殺そうか考える。

 半透明なそのサナギの中には、やはり半透明の幼虫がこれでもかというほど身を寄せ合ってひしめき合っている。この薄い膜をやぶったなら幼虫はたちまち成長してそこらじゅうを飛び回り、挙句に私を襲うだろう。いや、幼虫のまま体を這いまわるだろうか。

 わからない。わからないけれど、早めに殺さなければいけないことは確かなのだ。

 目一杯引き出しを引っ張りだし、これ以上サナギがいないことを確認する。大きなサナギは膜だけの存在のはずなのに、中にひしめく幼虫たちの鼓動によってまるで息をしているかのように不規則に動くのだ。そんな姿を見ても、不思議と気持ち悪さはなかった。唯一あるのは殺意だけで、目の前のこれをどう殺そうか、机上のハサミに手をのばし、そのサナギを睨みつける。

「娘がね」

 頭の中に響き渡る懐かしい声にハッとしてその手を止めた。嫌でも聞き覚えのある、やけに艶めいて掠れた声。

「空を飛びたいって言って、学校の屋上から飛び降りたのよ」

 ふふ、と、その声は話の内容にまるであわないほど無垢に笑う。そして、「ね、その子いったいどこに落ちたと思う?」と問いかける。愛しい人に話すような、そんな様子で。

「学校で一番綺麗だった花壇に落ちたのよ。ちょうど春だったから、チューリップかなんかの横に」

 私は一瞬にしてその光景を頭の中に思い浮かべてしまった。赤いレンガが囲む大きな花壇の中に春の陽気が目一杯差し込んでいる。同時にそこへ、真新しいセーラー服に身を包んだ少女が色とりどりのチューリップに囲まれて息絶えるのだ。

「どう思う?」、と、頭の中の声は卑下するわけでもなく、純粋に自分の話を楽しむかのようにまだ笑う。

「蝶にでもなりたかったのかしら」

 蝶に。

 目線だけ動かして、サナギを見つめる。このサナギもいつかは蝶になって大空へと舞い上がるのだ。きっと大きな蝶だ。どんな色をしてどんな模様なのか、ひとつもわからない。

 ただひとつわかるのは、これでもかというほどに大きな羽を広げて青い空を自由に飛ぶ姿は、その少女を魅了したように誰かの目や心を癒すだろうということだけ。もしかしたら私が思うより遥かにその姿はすごく綺麗で、神秘的で、恐ろしく魅力的なのかもしれない。

 殺していいのか、心の中で反すうする。

 じっとサナギを見つめていると、後ろで扉が開く音がして慌てて振り返る。扉のそばには私の知っている懐かしい姿があった。懐かしい?いや、違う。視覚と脳でその人物を認識してから私はひどく恐れおののいた。そればかりか、先ほどまでこのサナギを殺そうか迷っていた自分を悔やみ、必死でサナギを隠そうとしている自分がいるのだ。その滑稽な私の姿を、表情ひとつ変えずその人は凝視するのだ。

「いい女だ」

 嫌というほど聞き覚えのある掠れたその声が、私の腹の奥へ響いて沈んだ。



 目が覚めると黄ばんだ天井が見え、頭を横に動かせば美咲がだらしなく口を広げて眠っている姿が見えた。心臓はどくどくと音がしそうなほどに脈を打ち、口はカラカラに乾ききって瞳孔が開いているのが嫌でも分かった。

 そう、「分かった」のだ。

 いつもは重たい起き抜けの身体は跳ねあがり、それでも物音を立てないように窓の方へ足を向かわせた。薄いカーテンを少し開けるとまだ外は仄暗い。目を細めてサイドテーブルの時計を見ればまだ明け方の一歩手前。寒くもないのに身体は震え、息は上がっている。

 誰かに伝えなくてはならない。伝えなければ身体中がバラバラになって崩れ落ちてしまいそうだった。伝えなくては、けれど誰に?そう自問した瞬間浮かび上がるのはただ一人だった。

 私はもがくように部屋を飛び出していた。




 朝露に濡れたアスファルトを蹴り続ける。耳鳴りがしてかち割れそうなほどに頭は痛んだ。サンダルが足に食い込む痺れも忘れ、両足が千切れそうになるほどがむしゃらに走り続けた。何度も何度も電柱を追い越し、通り過ぎる車の運転手が怪訝そうにこちらを見ても何も感じることができなかった。ただこの衝動を、この胸の痛みを早くどうにかしたかった。

 ようやく見えた道の先を目指し最後の力を振り絞るように走る。数時間前に踏んだ砂利道の感覚でようやく足を緩めていく。弱々しいライトに照らされた八雲診療所のドアに寄りかかるように拳を叩きつける。

 しばらくするとようやく内側から施錠が外される音がし、少し開いた扉を乱暴にこじ開けた。その先には八雲先生が驚いたような顔をして立っていた。いつもずっと先の未来のことまで見据えていそうなこの人がこんな顔をしている。先生でも想像できないことがあるんだ、そう思うと途端に口元が緩んで、自分でもちぐはぐだろうと思うほど不自然な笑いをぺったりと張り付けた。

「…どうしたの」

 扉を支えながら先生は私を中へ入れようとした。けれどそうじゃない。私は首を何度も横に振り、それからまっすぐに彼を見つめた。

「八雲先生、私、思い通りにしたい人が分かっちゃった」

 か細い声が玄関先に響く。笑いながら言ったはずなのに、今にも消え入りそうな情けない声だった。小さな沈黙が暗闇に浮かび、彼の瞳は少し揺れていた。どの感情とも違う、まるでなにかを思い出したかのようなそんな表情だった。それでも「教えてくれるかな」、その瞳がそう問うている気がして、私は汗が滲んで滑る口元を噛み締めた。

「私は私を思い通りにしたい」

 ようやく喉元の引っかかりが取れた気がした。

「きみはきみを思い通りにできるとして、どうさせるの?」

「父さんを殺させる」

 先生の言葉を待たずして震える声を無理やり被せる。先生は何も言わなかった。ただ何もない余白が、長く伸びた影になってぼんやりと廊下をエンジに塗っていた。

「本当は言ってなかったよ先生、私ずっと虫を殺す夢をみてる。何度も何度も。初めてあいつに犯されたとき、クモが壁を這ってくのをずっと見てた。殺したくて殺したくてたまらなかった。でも夢の中じゃずっと殺せなくて」

 夢の中で蠢き這いまわる虫たちが瞬きをするたびに生々しく脳裏へ浮かぶ。ある時は天井から、ある時は壁の内側から、ある時は腕のホクロから、虫たちは私を何度も何度も襲う。それから逃れられないことを知りながら、私は。打ち消すように強く目を瞑れば、いつの間にか溢れ出す涙が止まらなかった。

「でもほんとに殺したいのは父さんなんだ」

 私の声だけが微かに響いて消える。先生が何を思っているのかまるで分からなかった。

 突然やってきたかと思えばこんな話をされて、さすがの先生だって戸惑っているのかもしれない。また変化球みたいな質問がとんでくるだろうか。それでも良かった。ただ伝えられれば、それでも良かった。ただこの沈黙が数秒だろうが何分だろうが、私には永遠に思えた。

「今から殺しに行こう、お父さんを」

 朝靄にくっきりと浮かび上がったのは、八雲先生の言葉だった。





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