No.10 普通の人



薄暗く紺だった空はいつの間にか星が白みはじめていた。夕日くんの言葉には何も返せなかったが、彼の後ろ姿を追うように私たちは診療所の中へ戻って行った。

玄関口で土のついた手をはらっていると真っ黒の目をくりくりとさせた犬、マルが玩具を咥えて犬小屋へ入るところだった。マルには誰かが作った少々ちぐはぐなお手製の小屋があるようで、覗いて見ると玩具やら毛布やらでその中は暖かそうだった。

診療所の中へ入ると奥の方から何やら良い香りが漂ってくる。

それから聞こえてくるのはあの男、八雲の微かな笑い声ともうひとつ聞きなれない低い声。それを聞くと夕日くんは急いで靴を脱いで私を見ると手招きをする。その瞳はようやく年齢相応の光の灯ったそれで、先程の言葉に後ろ髪は引かれるものの私はどこか安堵してしまう。


「おかえりなさい。どうだった?花壇は」

廊下を進んで突き当たったそこは広々としたキッチンだった。リビングと言うべきか。レンガが敷き詰められた壁と所々がタイル張りのそこは二階と同様アンティーク調に統一されている。問われた言葉に返す前に、八雲の隣で手際よく作業をする青年に目が行く。先程夕日くんが名前を教えてくれた青年だ。名前、なんだっけな。

『千早くんです』

読心術かと思うほどタイミングよく差し出されたノートに書かれた文字。千早、そうだ、そんな名前だった。青年はこちらを見ることもなく黙々と作業している。あまり愛想は良くないのかもしれない。たくし上げられたワイシャツの袖から見える長い腕にはうっすら筋が見えて、何よりさっき確認したかった鼻の形。やっぱりマリーおばさんとそっくりだ。

そして青年の広い背中に誰かの面影を重ね合わせる。

『消えないけれど、思い出しても辛くならないように手伝うことはしたい』

八雲の低すぎず高すぎない、ただ生ぬるいあの声で紡がれた言葉を思い返し小さく息をつく。確かにこんなにいちいち思い出してしまえばエネルギーも削れてしまう。

「感想もお風呂もあとにして、二人ともお腹すいてない?」

はっとして八雲を見ると、相変わらずの笑みでこちらを見つめていた。そういえば今日は昼に寄ったカフェでケーキを口にした以外何も食べていない。

青年は背の高い食器棚から目の粗い土色の土鍋を出し手際よくスーパーのビニール袋から食材を出して並べていく。鍋みたいだ。作り慣れているのだろうか。

「何か…することある?」

私の言葉にようやくこちらを向いた青年は眉間にしわを寄せたままじっと見る。怒ってる?いや、違うのかな。

「俺が切った野菜、鍋に入れてって」

こう、と水が少し入った土鍋に大根の一つをぽちゃんと入れる。ああ、別に怒っているわけではなくてもともと眉間にしわが寄りやすいのかもしれない。青年の様子を伺いながら恐るおそる、どんどんザルに入れられていく野菜たちをせっせと鍋に入れていった。

大根、春菊、白菜。どれも身体に良さそうなものばかり。というより家庭の味のような、派手なものがない素朴なお鍋。手に取った人参はねじり梅型に、しいたけの笠には星のような切り込みを入れてそれぞれ飾り切り。

器用で手際が良いのもそうだけど、堅物そうな顔に似合わずけっこう遊び心があるのかもしれない。私は大量のネギの上にそれらをちょこちょこと置く。

彼がひょいっと鍋の中を見ので怒られたらどうしようと思ったが、そのまま着火。チチチという火花の音が響いて、それから青い炎が強く鍋の底を覆う。こんなのでいいの、と言わんばかりの控えめな目線を送ると、青年は軽くこちらを見てすぐ次の料理に取り掛かる。

「さんきゅ」

感謝の言葉にしてはぶっきらぼうで、相変わらず眉間にしわを寄せて青年は言う。インゲンのヘタを取っている姿を、器用なものだなと思わず見入ってしまう。

「上手なんだね」

「まぁこれくらい…あ、これは鍋に入れなくていいから」

ヘタの取れたインゲンがボウルへ、次に細かく刻まれたニンニクが入れられる。これくらい、と彼は言ったけれど、人参のこの形なんかはまるで誰かを喜ばせたいかのような、そんな面影を見せていた。テキパキと動く腕と指先を見ていると、夕日くんがさっとノートを差し出す。

『千早くんの料理はおいしいです』

そして次に差し出したのはボロボロになった厚ぼったい紙の束。一束一束丁寧にホチキス止めされたそれはまるで小学生用のドリルを思い出させる。「なぁに?」と覗き込むと夕日くんはペラペラとめくって見せてくれた。

国語、算数、社会、理科、それぞれ見出しの貼られたページには手書きでひとつずつ問題が書かれてあり、カッコの中にはミミズが這ったような文字、これはおそらく夕日くんの文字だろう。それじゃあこのひどく達筆な文字で問題を出した人物は?

「これ…きみが作ったの?」

その問いに青年は見向きもせずひたすら鍋を作る。代わりに夕日くんを見るとコクコク頷いて見せた。

『あとで答え合わせしてもらいます』

こんな手作りのドリルを、この少年のために?

端から見れば確かに兄弟のように見えなくはないし、夕日くんが青年を慕っていることは痛いほどに伝わってくる。ただその関係性が、関係に至るまでのプロセスが想像もつかなくて私は困惑してしまう。

「静香さんも手伝ったの?」

八雲の声にはっとして頷きかけるとちらり、青年を見る。返答に困ってしまう。私は何もしていないというか、ほぼただ突っ立って見ていただけだ。

「そっす。絶妙な感じで鍋に」

インゲンとニンニクを菜箸であえながら青年は私の代わりに答える。絶妙、褒め言葉なのだろうか。少し経つと鍋が小さく揺れて、通気口では足りないとでもいうように水蒸気と出汁が噴きこぼれてきた。

青年はそれを見るとさっと火力を弱めて使い込まれたキッチンミトンを夕日くんに手渡し、彼はそれを手にはめる。阿吽の呼吸みたいで思わず「おぉ」と唸ってしまう。

「上で食べるでしょ」

「そうだね、万里江さんはもう部屋にいると思う」

万里江さん。その言葉に青年は頷くと、夕日くんに目線だけ送る。すると夕日くんはビシッと敬礼をして土鍋を手に取りバタバタと走り出す。あんなに走ったら中身がこぼれてしまわないか心配だったけれど、八雲も腰を上げてその後をついていったので少し安心した。

「静香さん、よそっておいたご飯のプレートだけお願いね」、そう残して。

先程の鍋から溢れ出した湯気が靄になって天井へ溜まっていて、ふわりと野菜の甘い香りが台所を包んでいた。誰かが作った手料理など食べるなんて久しぶりだった。そんな回想に浸っている私とは裏腹に青年の骨ばった指先はせっせと動く。香りにやられて胃が動いたのかクゥと小さくお腹が鳴った。ぱっとお腹を隠しても、今度はその手の内側からキュルルと高い音。気づいた青年の手が一瞬止まる。

「もう少しだからちょっと待って」

ぶっきらぼうな言い方だけれどどこか焦ったような声。彼は少し作業のペースを早めて平たいブラウンの木皿にあえたものを入れていく。どうやら完成したようだった。

私がそれを持とうとすると「持つ」と一言、少しずれ落ちた袖をまくり直して彼はそのプレートに手をかけた。

「優しいんだね」

何気なく口をついて出たその言葉には何の返事もなかった。特に何か期待していたわけでもないけれど、ぶっきらぼうで愛想の良くないそんな青年の人柄は嫌いではなかった。

ふつう、普通の人だ。何も気にしなければそう思える。だけどここは診療所だ。きみはどうしてここにいるの?どうしてここに通っているの?

どんな病気なの?

聞きたいことは喉元へ押し込み、青年の広い背中がキッチンを出ていく姿をぽつりと見ていた。



二階の部屋に戻るとふんわりとした暖かさと鍋の香りが漂っていた。部屋全体を見回せば先ほどとは違うところがひとつ。アンティークのチェアに腰を深く沈ませて座るマリーおばさんの姿があったからだ。そして、その膝の上には黒猫が毛づくろいをしている。

ここには犬だけじゃなく猫もいるのか。あっけにとられているとマリーおばさんの眠そうな瞳と目が合って思わず会釈する。さっき会ったばかりなのに。

猫は一瞬こちらを見ると、マリーおばさんに頭を撫でられて目を細めた。つられるように彼女も目を細め、瞼がくぼんで落ちる。

「賑やかですねぇ、八雲先生」

「そうですね。今日も千早くんにご飯を作ってもらって申し訳ないです」

「あぁ、ええ、ええ、千早は大丈夫よ、もうそろそろ小学生だもの」

マリーおばさんはそう言ってふふ、と微笑んだ。茶碗と小皿のぶつかる音と、外を吹く風の音だけが響く。青年の方を見ると何事もないかのように小皿をテーブルに並べている。相変わらず眉間にしわを寄せて、てきぱきと隙のない動きで。

ああ、まただ。知りたくないことがここには沢山ある。

私は静かに手を握りしめた。青年が手際よく切ったねじり梅型の人参は行き場もなく鍋の淵をぷかぷかと浮かんで流れる。遊び心なんかじゃない、誰かを喜ばせるためのように切られたその人参が。

「座ろう、静香さん」

八雲の声に押されてまたはっとする。L字型のソファには夕日くんと私、そして青年が座り、その横にチェアを置いてマリーおばさん、プラス猫。八雲は全員が座ったのを見ると一人掛けチェアに腰を降ろした。

いただきます、と各々が手を合わせて箸を伸ばす。

木製のスプーンで小さく野菜を割って口の中へ運ぶ。柔らかく舌の上で溶けた大根はするりと喉を滑って胃の中へ沁みていく。久しぶりの感覚に、その一口だけで身震いするほどだった。

「おいしい」

思わずこぼれた私のつぶやきに青年は「ん」とだけ返事をしてコップに水を注ぐ。そしてそのコップの水を一口飲んだ後、マリーおばさんの前に置いた。

『私はいつもお水しか飲めないの』、そう言った先程のおばさんの言葉を思い出す。マリーおばさんはそのコップを見つめると手に取って、ぐるぐると回す。慎重に、じっと目を見開いて。

「何も入ってないよ」

青年が早口に言う。

その言葉を聞いてもマリーおばさんはグラスを回して丹念にその透明を見つめていた。裏腹に不透明な厚い皮膚みたいなものが、二人の間にはあるような気がした。

青年の気持ちもマリーおばさんの気持ちも、今は知りたくなかった。

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