架け橋

 面会の受付を済ませると、俺はエレベーターに乗って五階に上がった。目指す屋上はそこからは階段を上った先にある。しかし、隣には牧島先輩も瀬雄もいない。

 どうしても一人で来たかった。

 多分他の奴がいたら、俺はそいつらの陰に隠れることになるだろう。けど、そうじゃなくて自分の力で、向き合わないといけないんだと思う。

 たった一つの足音が、廊下で静かに響く。奥まで進み、階段を上り終わると、ガラス張りのドアがあり、開け放った先に屋上庭園が現れた。病院自体が広いからか、結構な種類の草花が生い茂っていて、一瞬だけここが病院の屋上だということを忘れさせる。

 その庭園の端に、目当ての人物はいた。こちらに背を向け、月明かりに照らされた街を物寂ししそうに見下ろしている。

「……来たぞ」

 割と喧嘩腰な口調だったかもしれん。しまった、と内心反省していると、苑浦がゆっくりと振り向いた。

「来てくれたのね。嬉しい」

 しおらしい笑みを見て、俺の自信が揺らいだ。用意してきた言葉が、思うように引き出せない。そんな様子の俺を見て、彼女はポケットから紙切れを出して渡した。

 それは表彰台に立つ子供たちを写した写真だった。小さいながらも立派なそこの、一位のポジションに立っているのは、

「五歳の頃よ。初めてレースで優勝したの」

 ポツリ、と彼女が呟く。

「それからレーサーの夢を目指した。十歳でカートの国内選手権で優勝して、中学生で、スポンサーからサンライナーをもらって、十五歳でモンテカルロ・ラリーに出場。いよいよこれからって時だったのに」

「心原性失神か」

「ええ。目覚めたら、これから先ステアリングを握ることは難しいって告げられたの。混乱してる間に、私の籍は学校から消えてたわ」

 おそらくそのことを聞かされた苑浦の両親が、彼女をモータスポーツから引き剥がすために、慌てて日本の高校へと転校させたのだろう。そして、偶然にもそれは天城高校だったという話。何のツテもない世界なら、彼女も大人しくなるとでも思ったのだろうか。

「それでも私は諦められなかった。ロンドンを発つ前にサンライナーを送って、またレーサーのキャリアをやり直せると思ってた」

 そして、自嘲するように呟いた。

「結果はこれよ。一人じゃ何も出来ないし、皆にひどいことをしたわ。特にあなたには」

 やるせなさで震える横顔は、かつてのスピードを追い求める姿とは違い、等身大の女の子のものだった。そして、その瞳にはかすかに光るものが見える。多分、根は純粋でナイーブなのだろう。

「確かに、ここ最近はお前に振り回されっぱなしだったな。けど、そんな悪いことばっかじゃなかったと思うぞ」

「え……」

 予想外の言葉に、苑浦はポカンと口を開けてその場で静止した。

「それにやっぱ凄ぇよ。命賭けてまで叶えたい夢を持ってるなんてさ」

「その夢も、もう破れたわ」

 どんな言葉をかけてやろうか。

 このままだと、彼女は苦く朽ち果てた日々を送るに違いない。それはかつての俺と少し似ていた。だから、今の俺に見えるものが、きっと救いの鍵になるはずだ。

「なあ、苑浦。俺も見せたい物があんだけど」

 そう言うと、返事を待たずに、俺は生徒手帳の中にある一枚の写真を取り出して見せた。

 写真のタイトルは、"退院祝い”。

 とある病院を背景に、一台の車と三人の人間が映っていた。剥げた塗装のロードスター、少し幼い俺と、楓姉さん、そして。

「この人は?」

 写真の左端、誰よりも幸せそうにピースしている若い男を指差して、苑浦は不思議そうに尋ねる。

「ああ、紹介するよ。この人はね…」

 それから俺は、ゆっくりと自分の過去について話し始めた。楽しかったことや、辛かったこと色々あるが、その結末は牧島先輩の時とは違うものだった。

「賢さんに二度と会えないと知って、俺は全てを失った気がしたんだ。けど、この車を、ロードスターを通じて俺は命を救われ、そして今度は命を救うことが出来た。やっと掴めた気がするんだよ。賢さんが見てたものが、クルマっていいなって」

 何か言いたげな彼女に構わず、俺はさらに鞄から一枚のファイルを出した。中身はホチキス留めされたプリントの束と、一枚のポスター。

「部活なんだけどさ、何もしないよりは目標があったほうがいいじゃん」

 プリントの中身はそう、「日本グランプリ」についてのものだった。新たに始まる競技とはいったものの、専門的な知識がいる面がある。しかし出場するのならば優勝を狙いたい。その願いを果たす上で要となるのが、

「私の力が要るのね」

「ああ」

 若いながらに多くのレースで活躍した苑浦が指揮に当たれば、勝利の可能性は大きく高まる。俺たちにとっても貴重な経験になるだろう。

 そしてどうしても、彼女に教えてやりたかった。

 レーサー以外にも生きられる道があると。

 大切な人を失っても、懸命に生きてる奴がいるように、ありきたりの日常を全開で楽しんでる奴がいるように。「クルマ」というフィルターを覗いて見た景色は、とても広かった。

「苑浦、自分一人だけのレースはもう終わりにしようぜ。今度は、皆で優勝を勝ち取りに行くんだ」

「……気がつかなかった、私は素敵なチームに恵まれていたのね」

 元レーサーの監督は嗚咽を漏らしたが、やがて顔を上げて幸せそうに笑った。

「そうと決めたら、私も頑張らないと。ねえ、一つお願いしてもいいかしら? 」

「何だ? 」

「私、名字で呼ばれるのはあまり好きじゃないの」

 そして彼女は、一分の隙もない、真っ直ぐな目で言った。

「あなたには『貴良』って呼んで欲しいわ」

「は? 」

 大真面目な顔で何かと思ったら、そんなこと? 呆気にとられた俺を見て、彼女は拗ねたようにそっぽを向く。

「嫌ならいいけど」

「わ、わかったって。貴良」

「それでいいわ」

 今更だが、素のコイツは意外と表情豊かだ。俺が心の中でため息をつくと、それから貴良は困ったような笑みを浮かべた。

「けどこれから厳しい道のりね。まずは仕事を探さないと」

「仕事? 」

 頭にクエスチョンマークを浮かべた俺を見て、貴良が肩をすくめる。

「元々は生活費とかを親が負担してくれたけど、今回のことでお金を止められたのよ。だから、頑張って稼がないと」

「なるほどね。そりゃ金が要るな」

 ん、待てよ? 

「貴良、それならいいバイトを見つけられるかもよ」

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