第47話 別れの後
「結構いい出来になったよ」
現代史ジャーナルのミーティングに顔を出すと、
「
同じ言葉でも、
「ありがとうございます……
鶴川さん、実は…… 」
鶴川の顔を見ていると、一縷は
「どうかした?……
僕もね、細川から聞いてて気になったことがあって。
最近、講義に出てないんだって? そのことに関係ある?」
「ええ」
「少し休むってことかな?
ジャーナルならいいけど、大学も?」
「…… 考えてます。もともと何がしたかったのかもわからないですし」
「そうか……
詳しい事情を知らない僕が君に言えることなど何もないけど……
ただ、ひとつの悩みをあまり普遍的にしないことだよ。すべての物事がつながってる訳じゃない。なにかひとつうまく回らないことがあったからって、それで人生の全てを悲観する必要はない。わかってるとは思うけど」
鶴川は日ごろから言葉数が少ない。議論に夢中になって、議論のための議論を戦わせるようなこともない。自らの感情より先に相手の言わんとするところを真摯に理解しようとする人だ。そういう人にしみじみ言われると、自分が思っている以上の意味を彼には見抜かれている気がしてくる。
「目の前のことから逃げてるばかりなので、もううんざりなんです」
一縷は上手く説明しようとすることを諦め、思ったままを素直に口にした。
「うん。一般論としてはわからんでもない。具体的に何から逃げてるのか知らない僕が言うのは失礼だけど、誰でも目の前のことだけでいいは思ってないはずだよ。だけど、決まりきった流れに乗る方が楽だから、みんなそっちに乗るんだよ」
実のところ、そんなに難しいことを思い悩んでいるわけではない。ただ、
そう思っているところに涼音が顔を出した。
「こんにちは……
…… 何か…… 相談中でした? 」
彼女はふたりの深刻な表情をみて、席を外そうとした。
「いや、いいんだよ。
じゃあ霧島くん、よく考えてね」
鶴川はそう言い残すと会議室を出て行った。
重い雰囲気を感じた涼音が一縷を心配そうな顔で覗き込む。
「なに? 何の相談?」
こんな不安そうな彼女の顔を見るのは初めてかもしれない。
「あのね…… いや、なんでもない」
一瞬、舞とは別れたよ、そう告げようとして言葉を飲み込んだ。舞と繋がっていた赤い糸が、目の前で消えたよ…… 感傷的な気持ちが、そう言わせようともした。だが、幸いにも言葉にはならなかった。
この期に及んで、舞に対する整理しきれない感情が残っていることに、この時、一縷ははっきり気がついた。別れる間際に見えた赤い糸を、今ごろになって手繰ろうとしても、ナンセンスなのに……
そんな一縷の曖昧な気配は、涼音に不安と苛立ちを呼び起こす。
「言いかけて止めるのは気持ち悪い! なに? 言いなさいよ」
いつもの勝ち気さが涼音の目に宿った。
「鶴川さんに私たちのことで何か言われたの?」
「全然違うよ」
そこまで話したところで、人が入ってきた。そのうちミーティングが始まり、話はうやむやになった。
◇ ◇ ◇
『このあとどうする?』
休憩中に涼音からメッセージが届く。もはや「会う会わない」は話題にもならない。
『帰るけど』
『ラギに行こうよ』
『…… うん』
そう応えながら、一縷はまだ舞のことを考えていた。あの素直で穢れない、何の疑いも持たずに話しかけてくる彼女に、この先、もう気持ちを寄り添わせることもないと思うと、徐々にその実感が重みとなって感じられ始めた。涼音と抱き合う時に舞のことなど一瞬も考えることはなく、目の前の涼音だけに夢中だったはずが、いざ舞を失いかけると、こんどは涼音の言葉が耳元を通り過ぎる。自然に沸き起こる感情とはいいながら、一縷はこの不条理で不道徳な自らの感情を心の内で激しく憎悪した。
◇ ◇ ◇
ミーティングが終わると、一旦アパートに向かった。いつもの公園でいつもの通り
自分は、涼音を得る代償として、舞と、伊咲と
…… だが、これからはそれがない。永遠にあの場所で孤独なのだ。
ふと…… 濠の周りを散策する人々が目に入る。時折ひとりの人もいるが、大半は誰かと連れ添っている。特に楽しそうでもないが、誰かと連れ添う人々の顔は一様に穏やかで、不安や不満の対極にあるように見える。
自分は涼音という愛しあうべき人を手に入れたのに、なぜこんなにも孤独なのだろう? 愛しあうというのは、ただの幻想なのだろうか……
放っておくとどこまでもネガティブに傾き始める思考を、一縷はようやく中断し立ち上がった。脇目も振らず濠の中道を歩き進むと、公園前からバスに乗り、ラギのある歓楽街に向かった。涼音から何が得られたのか確かめたい、その時の一縷はそんなことも思っていたのだった。
◇ ◇ ◇
店の場所を覚えていない一縷がバス通りのマックで待っていると、涼音は30分遅れてやってきた。珍しくジーンズ姿で、いつもよりずっとスポーティーな感じがした。
「どうしたの? 珍しくない? ジーンズなんて」
「うん。酔っぱらって一縷に介抱してもらうかもしれないから、アハハハ」
「そんな宣言されても…… 」
「なんとなくだよ。別に深い意味はないよ」
これまでだと言葉の向こう側の真意を探ろうとしただろうに、今は彼女の気まぐれだと受け止めている。ただ、彼女はアルコールの力を借りて、何か言い出すつもりだろうか? ちょっとだけそんな予感もした。
早い時間ということもあって、ラギにはまだ客がいない。マリエルはカウンターの拭き掃除をしている最中だ。
「あれ? 早いね。デートの帰り?」
「ううん、大学から帰ったところ」
「いいわね、学生さんは自由人で」
「そうでもないよ。土日もなくバイト漬けだよ」
「あらあら、じゃあ、今日はバイトお休みでデートってわけだ」
「まあね。そんな気分でもないけどね」
そういうとふたりで一縷の方を見た。そんな気分でもないのは一縷のせいだ、と決めつけられているような気がする。
一縷もまた、そんな気分でもないよ、という顔で涼音を見返す。彼女の白い肌は魅惑的だが、それに触れたいという欲情が、今は不思議なほどに湧き上がってこなかった。
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