第46話 消えゆく赤い糸
「あらっ! お若いのねぇ、お母様!」
食後の紅茶を飲みながら、
「私も結婚が早くて、この子は23歳の時に産んだんですのよ。参観日に行くと、ホントに若い方で。でも、あなたのお母様の年齢だと、一番若くていらっしゃったんじゃないかしら?」
「…… ええ」
「凄くお綺麗なお母様なんですって! ねっ! お友達がおっしゃってたわ」
花を花瓶に活けながら舞が口を挟む。
「お若くてお綺麗なら、おふたりが並んで歩かれると、きっと恋人同士に見えるわね? アハハハ、羨ましい」
「お母さんは息子の方が良かったの?」
舞の無邪気だが幼稚な質問に、一縷は思わず呆れた顔になる。すると、母親がそれを見逃さず、すかさずこう彼に問いかけた。
「どうです?
「…… ええ。とても無邪気で素敵な娘さんだと……」
「あらあら、結婚のお申し込みにでもいらしたみたい、アハハハハ、さすがにまだ早いでしょ?」
一縷が回答に窮していると、舞が隣に席を移って口を尖らせた。
「娘を幼稚っていう母親はどうなんですか? もっと娘を褒めるもんなんじゃないですか? 彼氏の前なんだから」
そう言いながら、舞はいつものように一縷の腕をとり、肩に凭れかかった。一縷は彼女の母親の面前ということもあり、この何気ない、いつものことを少し窮屈に感じた。
「舞ちゃん、霧島さんはお困りよ。離れなさい」
「困ってないよね。いっちゃんは私と腕を組むのが好きなんだよね!」
「ごめんなさいね。いつもこんな調子なんでしょ? お相手してくださって、本当にありがとうございます」
母親は一縷の予想を遥かに超えて深く、そして長く頭を下げた。それは昨夜の父親の頭の下げ方にも似て、どうか、娘を許してくれ、放してやってくれ、とでも言いたげに見えた。
「お母さん、変なの! 私、別にいっちゃんに迷惑なんかかけてないから。むしろ、私がいじめられてるんだから。ねっ! いっちゃん!」
一縷は言葉が見つけられなかった。おそらく、舞はこの調子で何もかもを母親に伝え、母親は娘の言葉の中に真実を嗅ぎ出しているのだろう。
「いや、いじめているつもりなんか…… あの……、その…… なんというか、…… つまりその…… まだ、どうやって……」
自分でも何がいいたいのか、肯定だか否定だか、支離滅裂な話になりそうだった。舞の母親はその姿を、にこやかではあるが決して目元を緩めることなく、しっかり最後まで見届けようとした。
だが、一縷はそれっきりひと言も言い足せず、視線を母親から逸らせてしまう。
「いいんですよ、霧島さん。なにしろ舞はまだまだ子供で、たぶん、小学生くらいのつもりじゃないかしら。バレエのレッスンに夢中だったあの頃のまんま、アハハハハ」
この言葉は、こんな子供を相手にするなんてお止めなさい、といいたいのだとわかる。一縷にはそうとしか聞こえない。だが、無邪気な舞は、母親の真意など関係なく、表の言葉にだけ反応した。
「ひっど~い! お母さん、私はもうちゃんとした大学生なのよ! しかもエスカレーター式に女学院に上がったわけじゃなくて、受験を乗り越えたんだからね。憶えてるでしょ! 徹夜だって何回もして一生懸命頑張ったわ!」
一縷は驚いて舞の顔を見つめた。彼女の真剣な生きざまにも驚いたが、人の言葉にこんなにもストレートで純粋に反応することに驚いた。
「ほら、霧島さんが驚いてる。あなたの、頑張ってる、ってのは、お子ちゃまなの! 少しは大人にならないと、霧島さんもお付き合いしたくないって、アハハハハ」
「ひどい…… お母さん、なんでそんな意地悪ばっかり言うの? いっちゃんと会うのをあんなに楽しみにしてくれてたのに、いざ会うと、私の悪口ばっかり…… なんで?……」
これが舞だったのだ。何も疑わない、目の前にあることがそのままなんの歪みもなく目に入ってくる、そういう美しい人なのだ。
一縷は彼女が自分以外の人間に向ける視線を見ることでようやく彼女の姿を知った気がした。自分にはこんな美しい人間の傍にいる価値はない、彼女からは去らなければならない、そんな強い覚悟が一縷に芽生えた。
「いっちゃん、もう私の部屋に行こう! 行って勉強しよう!」
「う~ん…… そろそろキャンパスに戻らないと……」
「えっ…… なぜ? せっかく……」
今日は火曜日だ。現代史ジャーナルのミーティングがある日、ということは舞にもわかっている。そして、そこには
「ダメよ、舞ちゃん! 霧島さんはあなたとの約束を守って忙しい中を来てくださったんだから、わがまま言って引き止めちゃダメ!」
母親はきっぱりした口調で舞を諭した。
彼女の顔はみるみる色を失い、昨夜、一縷のアパートで低い嗚咽を漏らした時と同じ顔になった。ただ、母親の前ではなんとか取り乱すまいと、必死に涙をこらえている。
「霧島さん、まだ少しはお時間あるんでしょ? 一緒にホフマンでも聴きましょうか」
母親は一枚の名曲選らしきCDを探し出して来て、舞にセットするよう促した。しかし、舞はそのCDをじっと見つめるだけで動こうとしない。一縷と母親は、CDを持ったまま打ちひしがれる舞にかける言葉がなかった。
「でも、どうして仏文を選ばれたんですか? そんなにホフマン物語がお好きだったとか?」
母親は重苦しい雰囲気を変えようと、無理に会話を続けようとした。
「なんとなくです…… ホフマン物語も、フランス語で自己紹介しなきゃならない授業があるので、何かないかと探していて偶然見つけただけで……」
「あら、そうなの? アハハハ、正直な方! もっとロマンチックなエピソードでもおありになるかと思ってました」
「いえ、何も……。 ボクはその…… 行き当たりばったりで……」
「自由人なのね。ひとところに留まれない感じ?」
母親のこのひと言に、舞は鋭く反応した。
「そんな人じゃない! いっちゃんはお母さんや、
「そうね。あなたを守ってくれた。
ありがとうございます。霧島さん」
再び母親は深く頭を下げた。その姿に、一縷は言葉がなかった。
「そろそろ大学に…… 」
その言葉しか許されていない気がした。
舞は一縷を見送って行くと言い張ったが、母親が頑として許さない。恐らく、これまでの人生で、舞は一度も母親に強く否定された経験がなかったのだろう。抗う術を知らない子供が、へたり込むようにソファーに深く身を沈めると、クッションを抱きかかえて、無言の抵抗を始めた。
一縷は、ここで声をかけると舞が泣き出しそうな気がして、黙って立ち上がった。母親だけが玄関先まで彼を見送り、静かにドアを閉めた。
秋バラの残るゲートを潜り坂道に出ると、それまで舞にしか見えていなかった小指の赤い糸が、目の前に一度現れて、すうっと消え去るような気がした。
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