第45話 さまよい人
目覚めると、隣に
習慣でスマホを手に取る。受信メッセージ2件。
1件目 7:46
『おはよう! 1時限目から来るでしょ? 待ってるね!』
2件目 8:05 涼音
『起きてる? 夕方の定例会、ちゃんと来ること!』
ふたりからのメッセージは、
だが、眠いわけでもない。むしろ目は冴え、身体は強めの運動すら求めて落ち着きがない。彼は漠とした苛立ちを覚えベッドから跳ね起きると、薄着にコートだけを纏い、キャンパスとは正反対の海沿いを目指して走り出した。
息が切れる前に防波堤まで辿り着く。そこをよじ登って海を眺める。沖合から真っ白なちぎれ雲が島影を越えて次々に流れてくる。昨日の雪は止み、雲間には青く澄み渡った空が広がっている。だが、風は変わらず強いままで、耳元でゴォーっと低い唸りをあげる。風に煽られた波頭が防波堤の下で砕け、その
白くざわめく海原を眺めていると、すぅーとそこに吸い込まれる気がする。どこに焦点を合わせれば良いかわからず、ふわりと気を失いそうになる。
慌てて視線を足元の防波堤に移す。西側は数百メートル先の河口まで続いており、強い横風を受けながらそこまでゆっくりと歩いてみる。この川を遡ればキャンパス近くまで繋がっていることは知っているが、途中の国道まで戻ると、そのまま直進する気になれず、西に向かう橋を渡り、広い歩道をただまっすぐ歩き続けた。
歩道を15分歩くと西の拠点バスターミナルに辿り着く。そこからならキャンパス下に向かうバスもあるはずだった。他にも涼音の通う本学部に向かうバスもあれば、学習塾方面に向かうこともできる。JRのターミナル駅に向かうことも可能だし、さらに西の静かな県境に向かうバスも探せるだろう。だが、一縷にはさしたる目的もなく、行くべきところも見つからない。ただ漫然とバスの路線図を眺めている。
平日の午前9時、大抵の学生や社会人は、教室やオフィスで一日を始めている。ここでバス待ちをしている者も、大半は何らかの目的があってここにいるのだろう。ただ一縷だけが無目的にこの場に佇んでいる。
ふと、ベンチに座る善良そうな人の、訝しげな視線を感じる。お前はこんな時間にここで何をしているのだ? と。何か詰問でもされそうな気がして、一縷は無言でその場を離れた。だが……
どこに向かえばいいのだ?
目的もなく歩いていることに気がつく。無意識のうちにいつもとは正反対の方角を選んで走り出した自分自身を考えあぐねる。なぜ、通い慣れたいつもの公園に向かわなかったのだろう? 今朝に限って、なぜ?
ほとんど立ち寄ることのない街の様子を眺め、自分自身を訝しむ。馴染みのない街並みは、どこをどう歩けばよいかわからず、結局、キャンパス方向に向けて歩くことしか思いつかない。
まるで無駄な動きだ。今朝の無意識の行動と同じで、自分はまるで意味もなければ価値もない行動をしているだけじゃないのか?…… 一縷はそんな考えに囚われる。結果、同じことになるのだ。ただ、漫然と、わざわざ遠回りをして結局キャンパスを目指している。そのこと自体が、混濁した日常からはどうやっても逃れられないことの象徴に思われた。
そんな纏まることのない考えに囚われながら1時間近くさまよい歩き、重い足取りでキャンパスの坂を上った。
◇ ◇ ◇
次の講義まではまだ時間がある。一縷は講義棟と事務棟を結ぶ通路で、掲示板を眺めていた。
単位不足の学生を救済する補講の情報がずらりと表示されている。一縷こそ、そこを目を皿のようにして注視すべきだが、彼の眼は、その文字面を追うだけで、意味として捉える気はなさそうに見えた。
そのうち、講義を終えた連中が三々五々中庭に現れ始める。落ち着いた秋色のスカート姿の舞もその中にあり、スマホを耳に当てている。やがて、一縷のスマホが鳴りだし、一縷は彼女の姿を追いながらスマホに出た。
「もしもし」
「一縷? 今、どこ?」
「さて、どこでしょう?」
「来ないつもり……?」
彼女はこんなふうに通話するのか…… 秘められた彼女の別の顔を初めて見た気がした。眉を寄せ、小首をかしげ、真剣な面持ちだ。
「う~ん、どうしよう…… とりあえず、連絡通路の方を見て考えようか?」
そう言われて彼女が伸ばした視線の先に一縷がいて、彼に気づいた彼女は、スマホを切るのを忘れて走り出した。
「なんだ! いっちゃん! も~~~ぉ、すぐ意地悪するから!!」
以前と変わらぬ笑顔に見えた。一縷の軽口で、一瞬、言い知れぬ不安に襲われたであろうに、彼女は以前のまま、まるで穢れを知らぬ天使のように無邪気に見えた。一縷は彼女の自然に溢れる笑顔を見て、いつもとは異なる鈍い痛みを胸に感じた。
「またサボって! 補講は予定に入れた? いっちゃんは、クリスマスも、年末年始もありません。さっき、私がチェックしておきました!」
「代わりに出てくれる?…… クリスマスはスキーの予定があるから……」
「ホント?! ひょっとして私と?!」
「…… 嘘に決まってるだろ。スキーなんかしないし」
「…… 意地悪っ!」
この子は昨日のことなど忘れたのだろうか? あれだけの思いをさせられて、それでも自分に身を預けるように話ができるのはなぜなんだろう? 一縷はもう一度彼女の顔を見た。すると彼女は不思議そうにまた小首を傾げて微笑んだ。
「次はフランス語Ⅱだよ。これは出るでしょ?」
「うん。まあ…… 仕方ない」
「ハイ、じゃあ行きますよ…… って手ぶら?」
「…… うん」
「いっちゃん、ひょっとして教科書まだ買ってないとか?」
「当たり……」
明らかに呆れた顔になったが、彼女はしっかりと一縷の左腕に自分の右手を絡ませ、楽しそうに講義棟に向けて歩き出した。
◇ ◇ ◇
教室には
その席からクラスを眺めてみる。ここにいる半数は同じ専攻科に進む同窓生のはずだが、一縷はその半数も名前を憶えていない。関心もない。恐らく、こちらが関心を示さない以上に、向こう側の人間も自分には無関心なのだろう。
なぜ、舞は自分に関心を示し続けるのだろう? 一縷には、やはりどう考えても、その合理的な理由が見出だせなかった。そしてまたいつかと同じように、それを訊き糺してみたい衝動に駆られるのだった。
◇ ◇ ◇
授業が終わると、舞が一縷のところに戻ってきた。クラスメイトたちは、舞にだけ声をかけると、一縷には無関心なまま、思い思いの場所に散り始めた。
「さっ、帰りましょ!」
周囲の無関心の中で、舞の笑顔だけはしっかりと一縷に向けられた。
「うん。何か、お母さんに…… お花でいいかな?」
「わぁ~~~~、いっちゃんってロマンチック! そういうとこ、大好き!」
誰に習ったのだろう? 誰かに招かれた時には必ず何かを…… 母親の声が頭の中で蘇ったが、一縷はその記憶をすぐに打ち消した。
舞の家に向かう前にふたりで花屋に立ち寄り、彼女が指定する長さに切り揃えた小さな花束を持って坂道を上った。昼間、一度も見たことのないウェルカムゲートには、僅かに残る秋バラが、散り際の淡い色で彼を迎えた。
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