第48話 Satu Lagi!

 ふたりとも黙ったままだった。


 一縷いちるは店のあちこちに無造作に飾られた、いかにも異国の土着信仰に使われそうなオブジェを眺めている。涼音すずねは彼に訊きたいことがあるのに口に出せない、といった風で、時折ショットグラスを呷っている。

 そんなふたりを交互に見やりながら、拭き掃除を終えたマリエルが、カウンター越しに一縷の正面に座り煙草をふかし始めた。あまりにおとなしいふたりに焦れたのか、ふうっと煙を一縷に吐きかけて話しかけた。


「デートなのに、なんだか楽しそうじゃないね」


 その煙を手で避けながら、一縷はマリエルの問いには答えず、逆に質問した。

 

「そういえば…… このラギって店の名、どういう意味ですか?」


 涼音は、今その質問? と言いたげな怠い顔で一縷をちらっと盗み見する。そんな涼音を横目に、マリエルが急におどけた声で聞き慣れぬ言葉を言い出した。


「Satu Lagi~ Dua Lagi~」

 そう言うと、マリエルは手をひらひらさせ、面白そうに笑った。


「なんですか? それ?」

「おかわりちょうだい、もうひとつ、もうふたつ、ってことよ」

「へぇ~ なるほど! もっと飲めってことね」

「そう! もっともっと、もっともっと! 

 涼ちゃんは、もっともっと~~! って、これだよね! アハハハハ」


 そう言って、マリエルは両腕を伸ばしては引き寄せる卑猥なポーズをとり、不機嫌な顔をしたままの涼音をからかった。彼女は一瞬顔を綻ばせたが、すぐにもとの不機嫌な顔に戻り、目の前のショットグラスを呷った。

「Satu Lagi! マリエル、煩いからあっち行って!」

 ちょっとふざけ過ぎたと思ったのか、マリエルは笑いながら奥に消えた。


「Lagiかぁ…… なんかいいね。気に入った。もっと抱いて、は何て言うんだろ?」

 調子に乗って一縷は涼音に尋ねたが、彼女は彼の戯言に取り合うつもりはないらしく、真剣な顔つきで一縷に問いかけた。


「そんなことより、鶴川つるかわさんとなんの話してたの?」

 そう質問されることは予想していたが、何の答えも用意していなかった一縷は、少し勿体ぶった言い方で時間を稼ごうとした。


「あのね…… 」

「うん」

「誤解しないでね…… 」

「しないよ。でも私に関することだよね」

「ほら、もう誤解してる。少なくとも先入観で人の話を聞こうとしてる」

「じゃなんで隠すの? 素直に言えばいいだけじゃん」

「だから…… 涼音が深読みすると思ったからだよ」


「あら? ハニー、ホントに涼ちゃんのこと、呼び捨てにしてるんだね」


 奥から新しいボトルを持ってきたマリエルが口を挟む。聞いてないようでちゃっかり聞いている…… 仕方ない、狭い店だ。


「マリエル! 悪いけど聴き耳立てるのはやめて!」

「あらあら、ご機嫌斜めね。彼が浮気でもした?」


 マリエルの冗談が聞き捨てならなかったのか、涼音はテーブルのおしぼりを手に取ると彼女に思い切り投げつけた。涼音にはこういう気性の激しさがある。

 マリエルはそのおしぼりをきっちり受け止めると、一縷に肩をすぼめて見せ、再び奥に入って行った。


「ちゃんと話して。嫌なの、私。自分が知らないところであれこれ言われたり考えられたりするのが、とても嫌!」

「…… 無理言うなぁ。誰にだって言えないことのひとつやふたつあるよ。

 それは都合が悪くて秘密にする、ってことじゃないよ。ただ言いにくいとか……」

「嫌なの! とにかくイヤ! あなたのことは全部知りたい。あなたの全てを知っておきたいの!」

「別に隠すつもりなんかないけど…… 話した後であれこれ言わない?」

「随分勝手ね…… 私とはセックスはしてもいいけど、自分には踏み込むな、って言ってるように聞こえるけど」

「…… どうしてそう身も蓋もない言い方するんだよ」

「だってそういうふうに聞こえるもん。一縷は自分の変化に気がついてない!」


「何も変わってないよ」


 そう言いながらも、自分の中の変化に気がつかない訳ではなかった。あれだけ恋求めた涼音に対して、一体何を求めていたんだろう? そう懐疑的になる自分に気がついている。


「不安。私、とても不安。あなたと一緒にいない時間がとても不安。あなたが私の知らない間に何を考え始めて、何を言い出すか、とても不安」

「そんなふうには見えないけどなぁ」

「一縷…… あなたは私を誤解してる。最初に言ったよ。私…… 放っておかれるとどんなことするかわかんないよ。自分をコントロールできないんだって。あなたとあんなふうになって……。 イヤなの! 自分の知らない一縷が存在することが嫌なの」


 彼女の目は真剣に何かを訴えようとしていた。しかし、一縷は一縷で、まいに感じ始めた、これまでにない感情から逃れられないでいる。今この瞬間も、涼音が黙り込んでしまうと、ふと舞のことを考える自分に気づく。こんなことはかつて一度もなかったのに……



「とにかく、鶴川さんに相談したこと聞かせてよ。ちゃんと正直に」

 彼女は何杯目かの強い酒を呷り、一縷の目をじっと見つめた。


 一縷は少し躊躇いながらも、涼音の強い視線から逃れられず話し始める。


「大学辞めようかと思ってる」


 まだ漠然と考えているだけで、具体的な目標も覚悟もなにもなかったが、鶴川と話した内容、と問われればこのことになる。


「…… それで?」

「それで? って…… まだそこまで」

「ふ~ん」


 涼音は、腑に落ちないものがある、とでも言いたそうな顔になった。一縷は催促されて話したの覚悟を、あっさり切り捨てられたようで、少なからず気分を害した。


「関心ないようだね。結構マジな告白をスルーされた気分」

「関心がないわけじゃないよ。だけど、まだなんとなく、でしょ? 中高生が学校辞めた~い、ってなんとなく思う、あれと同じだよね」


 一縷は、涼音には何もかも見透かされている気がした。鶴川に相談した表向きの内容は、確かに『大学を辞める』ということではあったが、それは悩み事の結果でしかなく、根本の問題は大学とは無関係だったからだ。

 だから彼女が聞きたいのは表向きの話ではなく、その向こう側にある本音、それこそ一縷の考えていることの全て、と言われているのだと知り、たじろいで何も言えなくなった。


「怒った?」

「怒りはしないけど…… なんというか……」

「大学辞めるって話はさぁ、そもそも私が何か言える立場でもない気がするんだよね」

「さっきは何でも知らないと気が済まない、なんて言っておいて…… 涼音がわかんないよ……」

「そう? 大学辞める辞めないは一縷が考えて一縷が決めるべき問題だと思うけど」


 確かにそうだ。例えば、本当に大学を辞めるとして、それを涼音に泣いて止められたら、煩わしいこと、この上ないだろう。

 

「聞きたいのはそこじゃない。何か別のこと、あるでしょ?」

「なんでそんなこと思うの?」

「なんでって…… 予感。あなたの顔を見てて感じる予感」


 本当は予感ではないのだろう。涼音は、あやふやな一縷をもう見過ごせない、と言いたいのだろう。一縷も、そのことに気づいていないわけではない。

 一縷は覚悟を決めた。少なくとも、ふらつく自分の気持ちとは決別しようとした。もう舞とは別れたのだ。今さら彼女とどうなるわけでもない。そういう不完全な諦めの気持ちをどこかで抱きながら、涼音のため、と思った言葉を不用意に口してしまった。


「おそらく…… もう舞とはこれまでと同じようには会わない…… と思う」


 一縷にとっては覚悟の言葉だった。


 だが……


 彼の予想に反して、彼女はひどく落ち着かない様子になった。自分の気持ちすら整理できていない一縷に、その時の涼音の気持ちがわかるはずもなかった。

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