第31話 選べない理由

 長くて、やけに雨の多い夏休みが終わろうとしていた。


 涼音すずねまい。このふたりと一縷いちるの微妙な距離感は、休みのあいだ中ずっと保たれていた。平日の昼間は公園のカフェで舞と、土日は塾で涼音と。特にどちらかと接近するわけでも後退するわけでもく、日々は同じように繰り返され、いつの間にかひんやり肌寒い朝を迎えるようになっていた。


 まもなくキャンパスは試験モード一色になる。だが、一縷はこのキャンパスでやるべきことを見失っており、試験と言われてもどこか他人事で、勉強にも身が入っていなかった。


 舞は午後からの授業を抜けることが多かったのだが、持ち前の根気強さで可能な限りの単位取得を目指していた。年明けに集中するバレエ団のオーディションをいくつか受けるつもりらしく、後期試験と重なることを今から想定しているらしかった。


「バレエ団って東京だろ? 合格したらどうすんの? 大学辞めるつもり?」

「アハハハハ、合格すればね。だってプロだもん」

「へぇ~、結構思い切りいいんだね。尊敬しちゃうな」

「いっちゃん、もし私が東京に行っちゃったらどうする? 遠距離恋愛してくれる?」

「う~ん、しばらく泣き暮らして、泣き止んだら次の人を探す、って嘘だから! アハハハハ」

「止めようかな…… 受けるの……」

「ウソだよ。舞が合格したら、ボクは東京の大学を受験しなおす」

「マジで?! ホント?! えっ! やだ! 東京で?! やだ~~~~」


「何をそんなに興奮してんの?」

「だって、そうなると当然一緒に暮らすでしょ?」

「…… 飛躍しすぎ」


「えっ? そうなるんじゃないの? 田舎から夢のために上京した恋人が、狭い部屋で支えあう…… 憧れのシチュエーションだわ……」

「…… 」


「朝はね、スープと固いフランスパンだけなの! それで、お昼も固いパンにハムだけで、それをバスケットに入れてレッスンに通うの。あっ、いっちゃんは大学ね」

「はいはいそれで……」

「でね、冬は暖房を入れるお金がないから、ふたりで毛布にくるまって寝るの。パン食べたらすぐ寝るの」

「一日中パンなんだな」

「そう。お金ないの。親からも見捨てられるの、仕送りなし」

「笑えんな……」

「でも愛があるんだよ、ふたりには。それでね、私がプリマになるの、大抜擢されて!」

「お前だけかよ」

「そう、でね、大成功を収めちゃうわけ。そこに大金持ちの青年が求婚してくるの!」

「へえそうですか」

「でもね…… 断るんだよ! 私、いっちゃんを選ぶの!」

「そりゃどうも」


「でもね、アパートに帰ると、いっちゃん病気で死にそうなの……」

「おやおや」

「でね、私が大成功したから、街の有名なお医者さん呼んでくるんだけど……」


「けど?……」


「手遅れなの〜〜〜〜〜!!」

「お前が死ねや!」


 舞は夢想家だった。何かでスイッチが入ると延々と夢物語を話し始めた。それが結構面白おかしかったから、一縷もその話に適当に相槌を打ちながら聞くのだが、たとえ自分が死ぬ役になろうと、決して物語は不愉快に聞こえなかった。それは、舞が語る夢物語はふたりがいつまでも固く結ばれていることを前提にしていて、余計な他人が登場しない、ピュアな恋物語だったからに他ならない。


「ほら、遊んでないでお勉強しよ! ねえ、お家においでよ、その方が時間が沢山取れるから。ねっ!」


 妙な物語で遊びだしたのは彼女だったはずなのに、いつのまにか一縷が窘められ、そして最後は舞の家に来いと誘われる。だが、一縷はその誘いだけにはなかなか乗れないでいた。




 そうこうするうちに前期試験は終わり、キャンパスは学園祭に向けて一気に雰囲気を変えていった。




「あなた、準備は進んでる?」

 学習塾の講師控室で顔を合わせると、涼音は毎年学園祭の時期に出版する、ジャーナルの定期刊行物のことを話題にした。メンバーは全員、夏合宿で決まった内容に沿って、原稿を用意しなければならないのだ。


「これからです……」

「できるの? 紙面構成があるから、都度、私か福島さんにちゃんと状況を教えてよ」

「はあ……」

「あなたのテーマは記事というよりコラムでいいと思うんだけどね。時事的な要素を盛り込むのは難しいでしょ? 取材とかもしてないだろうし」

「取材…… ですか?」

「そうだよ。あれでみんなOBとか友人の伝手つてを手繰って、取材してるんだよ。あなた、何かそういうことやってる?」

「いえ…… 」

「だと思った。そもそもジャーナリスト志望でもないんでしょ?」

「まったく……」

「悪びれないね、あなたって人は、アハハハハ」

「すいません」

「夏休みも遊んでばっかだったんでしょ?」


 涼音とこうして話をするのは久しぶりだった。ある時急接近したはずのふたりは、一縷の告白にも関わらず、以前の先輩、後輩に戻ってしまっていた。


「遊んでなんかいません! 涼音さんはずっと誤解したままです! ボクと彼女はそういう仲ではないと伝えたはずです!」

「お〜、怖っ! アハハハ」


 こんなふうに面と向かって笑われると、メッセージで受け取る言葉とは違い、彼女には相手にされてないどころか、バカにされている気すらしてくる。


「本気なのに……」

 一縷は俯いてボソッと呟いた。聞こえていたとはとても思えない声だったと思う。


「嘘ばっか……」

 思いもよらず、涼音にじっと見つめられる。その視線の強さに、一縷は目を離せずに応えた。


「嘘なんかついてないって言ってるでしょ!」

 一縷の目も笑っていなかった。


「メッセージなんていくらでも適当に書けるよ!」

「適当なことなんか書いてませんから!」

「信じてないから! あなたなんて!」


 涼音はさらに強い視線で一縷を見つめた。それはほとんど睨むというほどだったから、一縷は彼女のこのひと言に、また心の中がかき乱される気がした。


 一縷は舞と過ごす時間の居心地の良さと、涼音に翻弄される時間の不愉快さを無意識に比べてしまう。舞は自分の心を浄化してくれる。涼音は自分の心の奥底のヘドロを掻き混ぜて汚してしまう。本当なら、舞だけを愛すべきだと思う。

 だが、涼音を求めてしまう自分がいる。心と身体の求めるものがバラバラで、そのどちらもギブアップできない自分を一縷は持て余していた。



 やがて、秋はさらに深まり、キャンパスは学園祭の浮かれた気分に支配された。一縷は、その浮かれた気分と同時に、涼音に対する満たされぬ思いも深まる気がしていた。

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