第30話 それぞれの魅力

「はい、これ。あなたのアパート近くのバス停からの時刻表。調べておいてあげたから」

 涼音すずねは一枚の時刻表をコピーすると、わざわざ他の講師の前で一縷いちるに手渡した。


「こっちの方が断然便利だよ。今度からこの路線使うといいよ」

「はあ…… ありがとうございます」


「あれ? 霧島きりしま先生どこに住んでるの?」

「彼は唐町からまち商店街のあたりらしいんです。なのに、わざわざキャンパス下まで来てたらしくて。凄く遠回りだから可哀想で」

「それでわざわざ? 後輩思いだねえ、三上みかみ先生は!」


 塾長はすっかり感心している。


「愛されてるねえ、霧島先生は。普通、ここまでしないよ」

「はあ…… ありがとうございます……」

「じゃあこれからは別々のバスか。それもちょっと寂しいね、霧島先生」


 塾長のひやかしに一縷が応える前に涼音が口を挟む。


「30分歩かなくていいんだから、こっちがいいよね」

「はあ…… ありがとうございます……」

「なんだか気のない返事、アハハハハ」


 一縷はその時刻表を小さく折り畳んでジーンズの後ろポケットに仕舞い込んだ。


(別に知ってるし…… 大きなお世話だ)


 一縷は悔しかった。涼音の気持ちがわからなかった。誤解をしていると思った。自分とまいの関係をきっと勘違いしている、そう思った。都合のいいことに、その時の一縷は、舞とキスしたことなどまるで忘れていた。



◇ ◇ ◇


 涼音とは別の路線バスで部屋に帰ると、一縷は即座に彼女にメッセージを送った。


『涼音さんはきっと誤解してます。ボクは彼女とは何もないですから。今もこれからも』


 速攻で返信があった。


『そうなんだ。わかりました』


 相手にしてないから、というニュアンスがひしひしと伝わってきた。だが、だとすると、あの夜の彼女は一体何だったのだろう? 一縷の中であの夜の彼女と今の彼女が繋がらない。


『わかってない!』

 思わずそう書き込んでいた。


『お〜、怖っ! アハハハ』

 彼女が笑っているようで、なぜか一縷は逆に少しだけ気持ちが落ち着いた。


『またあのお店で会えませんか?』

 一縷は何とか彼女をあの夜に戻したかった。


『イヤだよ、一縷エッチだから』

 やや和らいだ感じがして、もう少しだ、一縷は自分をそう励ました。


『ボクは真面目に涼音さんと付き合いたい』

 そう書き送った。

 しかし、いくら待っても返信はない。


 深夜、眠れぬ一縷はもう一度メッセージを送信した。


『もし、メッセージや電話で伝わらなければ、ボクはあなたに直接会って伝えるしかない。昨日も言ったけど、今からでもあなたの部屋に押しかけたい気持ちでいっぱいです。正直に言います。ボクは涼音さんしか考えられない。あなただけが特別だ。嘘じゃない。そのことだけは知ってて下さい』


 当然のように返信はなかった。


 その夜を境に、一縷の夢枕に立つ白い後ろ姿ははっきりと涼音に変わり、彼女の声までが聞こえるようになった。




◇ ◇ ◇


 朝が来た。


 少しだけ躊躇いがあったが、一縷はいつも通り美術館のカフェを目指して歩き始めた。朝から湿気のある雨が肌にまとわりつく。


「あれ? 何となく機嫌が悪いぞ? 一縷がプンプンしてるぞ? アハハハハ」

 舞はノー天気に機嫌がいい。


「お前はいつもノー天気でいいなあ。こんな雨の日でもピーカンだよ。人生に悩み事はないのか? ん?」

「うんとね…… ないね、アハハハハ」


 一縷は舞に会うと、じきに涼音のことを忘れた。自分の中のどろどろした感情が舞というフィルターを通して浄化される気がするのだ。相変わらず、舞を異性として意識することはなかったが、安らぎとか安寧とか、そういう言葉からイメージされる幸福感は、彼女からもたらされるもののように感じ始めていた。


「レッスンは上手くいってる?」

「うん。順調だよ。最近は教室の小さい子供たちに教え始めたんだ。そうしてるとね、自分でも役に立ってる、って感じられる。プリマにならなくても、子供たちが凄いね先生は、って言ってくれると、なんだか自分がやってきたことが認められた気になるよ」

「そうか。それもいいね」

「うん。そう考えることにした。これもいっちゃん効果だよ」


「ん? なんだそりゃ?」

「いっちゃんがどんな私でもいいって言うから」

「あ~、そんなことか」


「え~~~~、大事なことだよ。これまでは、みんな、ただ頑張れって言うの。すると休めないの。もっとできるはず、もっとやらなきゃ、って苦しくなる。でも、いっちゃんが頑張る私も、頑張らない私も好きだって言ってくれるから、最近はどっちでもいいかなって思えるよ」


 一縷は無自覚な自分の言葉が、彼女に何らかの影響を与えていることが少し重荷に感じられた。


「それっていい効果なの? 」

「アハハハハ、さあね。でもいいの。私がいいから。

 それとね…… 」


「ん?」

「やっぱや~めた。恥ずかしすぎる」

「なんだよ! 言いかけたら言えよ!」

「え~~~~…… あのね…… 


 やっぱ恥ずかしい……」

「なんだかなぁ。女の子の気持ちはわからんよ」

「なんで? 私以外の誰かの気持ちもわからないことがあるとか?」

「変なとこで深読みするな!」

 涼音を思い浮かべていた一縷は、図星を突かれてやや慌てた。


「いっちゃん…… これだけはお願いするね」

 なんだか重いことを言われそうな悪い予感がする。


「私だけ好きでいてね。浮気はイヤ。もし浮気したら、私は死ぬ。絶対に……」

「…… 冗談に聞こえないところが怖い」

「冗談じゃないよ。死ぬから。キスしたんだしね!」


 彼女は綺麗な目をしていた。ひっつめ髪にしているので、目尻が切れ上がって見え、気が強そうに見えるが、髪を下ろすと柔らかな瞳になることを、一縷は彼女を送り届けた夜、その目で確かめていた。


「今どきキスしただけで…… 塾の中学生が笑うぞ」

「…… いっちゃん!」

「なっ、なんだよ」


「私は決めたからね! 私はいっちゃんのもの。いっちゃんは私のもの!」


 彼女の言葉を聞きながら、一縷は『付き合うとは何か』について伊咲と語り合ったことを思い出していた。あの時、伊咲は『その人としか付き合わないという』などと、回答にならない答えを言ったものだ。だが、その時は曖昧だった意味が、今、目の前の舞の言葉で具体的にわかった気がしたのだ。『束縛しあう約束』そんなことに思い至り、つい笑みが零れてしまったのだった。


「何笑ってるの! 私、真剣なんだからね!」

「いやいやそうじゃなくて。以前伊咲にね、付き合うってどういう意味だ? って質問すると、今の舞のような感じの回答をされて、それを思い出しておかしかったの」

「また伊咲さん?…… いっちゃん! 伊咲さんは良い人だけど、私の前では思い出さないで!」

「お前、そこまで言うと重いぞ!」

「…… 重いの? 嫌なの?……」


「う~ん、まあいいや。でもオレはそんなに舞が思うような人間じゃないよ。不真面目だし、やる気ないし、何事も……」

「そんなのはいいの! いつかいっちゃんはもっと素敵な人になるから」


 完全に買いかぶりだが、そこまで言われて嬉しくないはずもない。


「でも、舞が思ってる以上にエッチかもよ」

「…… 知ってる」


「アハハハ、それなら気が楽になった」

 一縷は軽い冗談のつもりだった。だが、意に反して舞は深刻そうな顔になった。


「愛のないエッチなら許す……」


 一瞬、なんのことを言っているのか意味が伝わらなかった。舞が変わらず真剣な目で一縷を見るから、彼もその意味するところを暗黙のうちに理解せざるを得なかった。


「お前…… 変だよ。歪んでる」


「うん…… 歪んでる。でも…… 私、魅力ないから……」


 その言葉を聞いた瞬間、一縷は人目もはばからず、舞を抱きしめたくなった。この子にこんな思いをさせていいと思えなかったのだ。


「変なことを気にするな! お前はホントバカだな。自信持てよ、何事も!」

「ホントに?」

「……あぁ」


 自分の言葉を必要以上に重く受け止める舞の強い視線を、一縷は受け止めきれない気もした。

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