第29話 不機嫌の理由

「毎日毎日、手を繋いで歩いちゃってさ、真昼間に暑苦しいったらないよ、ったく!」


 涼音すずねの苛立ちが、ようやく一縷いちるにもピンときた。


(あれか…… 見られてた?…… )


 夏休みになり、一縷とまいは毎日、公園の濠端にある美術館のカフェで会っていた。舞が読みたいと言っていた、あの革の装丁本の翻訳を始めたのだ。実際はそれは口実に過ぎず、数行眺めたらあとは時間が来るまでおしゃべり。軽い昼食を済ませると、けやき通りにあるバレエ教室まで舞を送っていく、というのが日課になっていた。舞は並んで歩くときは必ず手を繋ぐか腕を組みたがり、そうすることが当たり前のようになっていたのだ。


「言い訳しなさいよ」

「えっ?」

「一年坊主の分際で生意気なんだよ! 塾なんか紹介しなきゃよかった」

「まずいですか? 生徒に見られたら」


 真っ先に一縷の頭を過ったのは塾長の渋い顔だった。こんなトンチンカンなところも涼音は許せない。


「…… 問題なんじゃないの? 見てて気分悪いから」


 涼音は益々機嫌が悪い。


「それでそんなに機嫌悪かったんですか? すいません、ご心配おかけして……」

「ご心配とか機嫌じゃない、っーの! 気分が悪いって言ったでしょ!」

「…… はぁ」

「裏切られたら機嫌じゃなく気分が悪くなるものなのっ!」

「ええまぁ、それは…… 」

「一縷には裏切られた! だから気分が悪い! 月曜日からずっと気分が悪いっ!」

「月曜日からですか?!…… 言ってくれればいいのに……」


「あなたねぇ!……」

 唖然とした顔で、涼音は口を噤んでしまった。


 土曜日の夜…… 一縷は涼音に酔って胸中のモヤモヤを曝け出した。

 日曜日の夜…… 遅くまで彼女と公園のベンチで顔を寄せて話をした。

 月曜日の朝…… 舞とキスした。


 あの数日間の出来事が一瞬にして鮮やかに蘇った。そして、舞と手を繋いで歩いているところを涼音がバスの中から見ていたその様子も想像できた。バスの中から…… 次の日もその次の日も……


 一縷は照れくささに顔が火照った。舞はずっと機嫌良かったし、一縷の手を取ってダンスでも始めそうな勢いだったから、確かに通りすがりの他人の目には恥ずかしい姿に映ったかも、そんな気がしたのだ。


「何を思い出してるんだよ! 気分悪い!」

「いやっ、すいません、確かに浮かれてて恥ずかしいなぁと思って…… 目立ちますよね、あんなところで」

「あ〜、目立ったね。どこのバカップルかと思ったらあんただよ! ったく恥ずかしさを通り越して悲しかったよ」

「すいません……」


 一縷は素直に頭を下げた。顔を上げる時、自然に涼音の様子を窺い見る感じになった。



「…… 何言ってんだろ、私」



 そこには悩み深い顔をした涼音がいた。真正面をキッと見据え、他人につけ入る隙を与えない怖い横顔だった。


「忘れて。今の全部忘れて」

「はい…… 」

 もういいのだろうか? そう思った瞬間だった。


「帰る。今日はご馳走になる。ごめん、お先」

「えっ?!」


 一縷は飲みかけのビールを一気に飲み干し、慌てて勘定を済ませ店を飛び出した。歩いて帰ったのだろうか? それともバス? 店を出て左右を見渡すが彼女の姿はもうどこにもない。


(どこ行っちゃったんだよ……)


 心配になって電話してみる。


 だが…… 応答はない。


 気になって仕方のない一縷は、彼女にメッセージも送る。


『今どこですか? ボクの軽はずみな行動が涼音さんの気分を害してすみませんでした。心配なので、どこにいるか返信して下さい。ボクは城址公園の方へ歩いてますから』


 送信したが、返信はない。それでも一縷は引き返すつもりになれず、そのまま公園に向けて歩き続けた。



(この道…… 毎日通ってるな…… )



 確かに、日曜日の夜以降、護国寺横のこの道は毎日通っている。最初は涼音と。そしてそのあとは舞と。どこに何があるか、もう憶えてしまうほどだ。一縷は慣れたその道を城址公園に向けて折れ、例のベンチに迷うことなく向かった。



 涼音からの返信はなかった。しかし、あの夜と同じベンチに座り、繫華街の淡い薄明かりを眺めているうちに、涼音がなぜ気分が悪いと何度も繰り返したのか、少しずつ一縷にも解り始めた。

 ひょっとすると涼音は自分からの連絡をずっと待っていたのではないか? このベンチに寄り添って座った時から、涼音の気持ちは自分に向かっていたのではないか? そう考えることは決して思い上がりでも何でもない気がしてくるのだった。


 一縷はもう一度スマホを取り出した。そして、意を決して涼音に再びメッセージを送った。



『ボクがバカでした』



 この言葉を彼女がどう受け止めるかはわからない。しかし、もともと異性として接してきたのは彼女だけでそのことは疑う余地がない。そして、触れていないとしても、先週の日曜日に、一縷は彼女に告白したも同然だった。だからこの言葉は、彼女に伝わるに違いないと思った。


 しばらくして、ようやく彼女から返信があった。



『全部忘れてね。おやすみ、かわいいボク』



 全部忘れて…… その意味は先週からの出来事のすべてを忘れろという意味なのだろうか? 


『明日、また会えませんか?』


 しばらくすると短い返信があった。


『塾でね。おやすみ』


 一縷は急に心の中がざわつく気がした。手に入れたはずの彼女がまた遠のいていく。柔肌の感触を知らぬまま、彼女と別れるということが惜しくてたまらない。一度手にしかけたものを理不尽に取り上げられたやり場のない怒り、やるせなさを感じた。


『今から会えませんか?』


 そう送信していた。「いいよ」そう返信がきたらどうしよう? 「ダメだよ」そう返信が来たら、なんと言い訳しよう? そんなことをグルグル考えた。


 だが…… 一縷のスマホが鳴動することはなかった。



 あの夜と同じような夜灯りが繁華街の方向を照らしている。酔って眺めた時にはぼんやりと浮き上がったように見えたその明るさも、今はやや明るい、ただの暗闇でしかなかった。




◇ ◇ ◇


 翌日、いつものバスに彼女の姿はなかった。塾に着くと彼女はすでに控室でコーヒーを飲んでおり、目が合うと、合宿に行く前の笑顔でおはようとあいさつした。

 一縷は時計が数ヶ月間遡ったことを実感した。しかし、彼女との関係がなかったことになっているわけではないことも確認した。


(いつか…… 彼女をこの手に抱く日がやってくる)


 不思議なことに、彼はその日が間違いなくやってくると確信した。彼の頭の中からは舞の姿が消えていた。

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