第28話 けやき通り

「…… 」


 塾に向かうバスの中で、一週間ぶりに会った涼音すずねは頗る不機嫌だった。


「どうかしました?」

「…… 」


 返事がない。


 だが、抜けるような白い肌はいつもと変わりなく、体調がすぐれないということでもなさそうだ。むしろ、頬はやや赤みを差し、健康的な弾力を感じさせた。なのに返事もなく窓の外を眺め続ける彼女。あきらかに不機嫌そのものだ。一縷いちるはなす術がない、といった様子で、涼音越しに窓の外に流れる景色を眺めた。


 と、突然、涼音が振り返る。


「このバスどこを経由してくるか知ってる?!」

「え~っと、どっちだろ? 涼音さんが乗ってるから、大学病院の方から来てるんですよね?」

「けやき通り!」

「あ~、そうなんですね。そっちのが近いですもんね」

「…… もういい!!」


 そういうと彼女はまた窓の外に視線を移した。夏の陽ざしに川面がキラキラ輝いている……



◇ ◇ ◇

 塾の講師控室…… 一縷は彼女を気にして観察するが、やはりいつものような快活さがない。塾長や他の講師も気になるらしく、夏バテですか? などと声をかけるが、その都度、ええ、とか、まあ、とか、短く曖昧な返事をするだけで、誰もが取りつく島のない感じだ。



◇ ◇ ◇

 塾帰り…… 一縷は一足先にバス停に向かい彼女を待つ。しかし、遅れてやってきた彼女は彼を無視し、必要もないのに無言でバスの時刻表を見たり、バスの来る方を眺めたりしている。明らかにいつもと違う。


「大丈夫ですか?」


 そのくらいしか彼女にかける言葉が見つからない。自分の知らない世界で、彼女を不機嫌にさせることでもあるのだろう…… そう思った一縷は、バスの中でも彼女から離れ、別々の場所に座った。


(そうだ!…… 夏休みで帰省してる彼氏と喧嘩にでもなったに違いない…… 八つ当たりかよ)


 そんな想像をしている。


 やがてバスがキャンパス下のバス停に着くと、お疲れ様です、とだけ言って一縷は下車したが、なぜか彼女も無言でバスを降りてくる。


「食事ですか?」

「…… 」


 会話がまったく成り立たない。仕方なく、彼は会釈してアパートの方角に歩き出した。なんだよ、痴話げんかのとばっちりかよ、と思い込んでいる一縷も、段々機嫌が悪くなる。


「ねえ!」

 呼び止める、というよりもっとイラだったその声に、一瞬ビクっと驚き振り向く。すると彼女は一縷の方に向かってズカズカと近づいて来た。


「あなた! どこに住んでるの?!」

 あまりに今さらな質問で、一縷はさらに驚いた。


「あれ? 言ってませんでした?」

「この近くじゃないよね?!」

「ええ。そうですけど」

「あっちからでも塾方面のバスってあるよね?!」

「ええ。そっち使うこともありますけど……」

「なんでわざわざこっちに来るわけ?!」

「なんでって…… 最初使ったバスがこっちからだし、本数も多いし…… 涼音さんが乗ってるし」

「ふ~ん」

「…… それがどうかしました? お邪魔ですか? 気に障るとか?」

「なんで?!」

「なんでって…… 機嫌悪いし」

「別に機嫌悪くないよ! 気分は悪いけど!」

「同じ…… 」


 思わず笑った。機嫌が悪いと気分が悪いはどう違うのだろう? 

 一縷には涼音が冗談を言っているようにしか思えなかった。


「よく笑えるよね…… ホント気分悪いよ。ずっと!」

 彼女が自分に向かって気分が悪いというのがどうにも腑に落ちない。


「何かしました? 先週の夜のことなら謝ります。どうもすいませんでした!」

「なんで謝るの?! あなたバカじゃないの!!」


 なんで路上でこんな話をしているのだろう。一縷は空腹も手伝ってバカバカしくなってきた。


「あの…… お腹もすいたし、もしよかったら、何か食べながらにしません? このままだとお互い無駄にイライラするばかりだし!」

「いいよ! どこ!」

「そうケンカ腰で言われても…… じゃあ、そこのファミレスで」


 そういうと、一縷は勝手に歩き始めた。その彼を涼音が呼び止める。


「お酒飲めるところ!」

「じゃあここの焼き鳥屋!」


 さすがの一縷も腹立たしくなって乱暴にのれんをくぐった。


「ビール! 大!」

「もうひとつ!」


 別々に大声で注文すると、中からその倍の大きさで「はいよ~」と威勢のいい返事が戻ってきた。



◇ ◇ ◇

 カウンターに並んで座ると、さっきの大声の主である若い兄さんがビールを両手にやってくる。


「仲いいねぇ、おふたりさん」

 一縷はちょっと嬉しかったが、涼音は顔色一つ変えない。


「そこの学生さん? 恋人どうし? いいねえ」

 一縷はちょっと照れたが、涼音は相変わらず相手にするつもりがなさそうだ。


「バラ5本と冷奴やっこ

 涼音が慣れた感じで注文する。

「じゃあ、バラ5本と手羽先2つ」

 一縷はそれを真似て注文する。

「はいよ! 注文いただきました~ バラ10本、手羽先2丁! カウンターのおふたりさん、ヤッコ1丁もお願いしま〜す」

 兄さんはやたら威勢がいい。一縷はこういう感じが好きなので、ニコニコ機嫌が良くなる。相槌を求めて涼音を見るが…… まるで知らん顔。


「じゃ、彼女、次の注文からはふたりまとめてお願いね」


 その兄さんは注文票を置きながら、彼女に笑いかけたが、彼女の顔色はまるで変わらない。その冷たい反応に、兄さんはやれやれという感じで肩をすくめると奥に消えた。


「失礼しちゃう! 何が『ふたりまとめてね~』だよ。こっちは客だっちゅうの!」

 涼音は相変わらずぶつぶつ言っている。何がそんなに機嫌を悪くしているのだろう? 一縷には考えてもさっぱり理由が見つからない。


「まぁまぁそんなに怒らないで、カンパイ!」

 涼音はまだ機嫌が悪かったが、カンパイのためにジョッキを気持ち持ち上げた。



◇ ◇ ◇

 この街には焼き鳥屋が多い。戦国武将の名前を掲げた焼き鳥屋は学生たちでどこも繁盛している。繁華街に行けば屋台も多いが、一縷は常連客のたまり場的な店が好きになれず、未来みらい伊咲いさきとはもっぱらこういう焼き鳥屋に繰り出していた。


(そう言えば今週、伊咲から連絡ないなぁ。あいつ、まだ実家にいるのかな?)


 目の前の涼音が何も話しかけてこないので、一縷は店の品書きを眺めながらそんなことを考えている。


 すると突然、涼音が一縷をめつける


「あなたにはホントびっくりだわ。見かけによらず…… あなた大した子ね」

 涼音がまた絡み始める。一縷はもう一度彼女とのことに考えを巡らすしかなかったが、先週の夜のこと以外、何も心当たりがない。仕方なく、もう一度謝る…… 口先だけ。


「恋人がいる人に不謹慎でした。謝ります」

 声音はまるで謝っていない。

「恋人? それ嫌味?」

 そりゃそう受け取る彼女が正しい。


 だが、涼音の不機嫌は彼氏に由来する、という先入観から一縷は一歩も抜け出せていない。


「夏休みだし、帰ってこられたんでしょ?」

「帰ってるかもね」

「帰ってるって…… 会ってるんでしょ?」

「うるさいよ…… 」


 一縷だって涼音の恋人の話など聞きたくもないし、彼女が喋りたくないなら余計話題にしたくもない。しばらくはふたりとも黙々と飲んだ。沈黙が続き過ぎて、適当な話題を見つけられぬままただ飲み続けていると、いきなり涼音が真正面を向いたまま呟いた。


「何度も何度も…… 見せつけるんじゃない! っつーの……」

 それは独り言のようでもあったが、無視する訳にもいかない、そんな微妙な声だった。


「ん?」


 でも、一縷はまだその言葉の意味を掴みかねている。そういう鈍感さが彼にはあった。


「何のことです?」


 一縷の無神経さは涼音の酔いに完全にスイッチを入れてしまった。

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