第27話 ファーストキス

「今日は何時!?」

 朝早く、まいからの電話で起こされる。


「ん?…… あっ、……」

「思い出した!? そうだよ! 夏休みは午前中図書館で勉強って約束したよ!」


 忘れてはいないが…… 断れと言われた約束……


「図書館じゃなきゃダメ?」

「じゃあどこ?」

「う~ん…… どこかない? 静かなカフェとか?」

「知らない。じゃあお家は?」


「あっ! あったあった! 美術館のカフェ! あそこなら公園のお濠が見えて気持ちいいから!」

「ふ~ん…… 」

「ダメ? 」

「ダメじゃないけど…… さっき避けたでしょ? お家来る?って訊いたとき」

「避けないよ。どこかないかなって考えてただけだよ」

「本当かなぁ…… 」

「…… 本当だよ。だって、ボクも会ってみたいよ、舞のご両親には」


 それは嘘ではなかった。一縷いちるの中で、舞は理想的な家庭環境に育った娘だ。彼女の他人を許し他人を認め他人に自分を曝け出し他人に無防備に縋ろうとする姿は、おそらくこれまで19年間彼女を育んできた家庭あってこそだと思っていたのだ。

 父の死と母親の新たな恋、家族なんて陽炎みたいなもの…… そんな経験をせざるを得なかった一縷は、どこかで舞の境遇を羨んでいたのかもしれない。


「じゃあ来てよね。夏休みの間には必ず来てね。もうね、お母さんが待ちくたびれたって」

「舞…… あまりご両親の期待値をあげると可哀そうだよ」

「どういう意味?」

「どういうって…… そのあれだよ、なんていうか、がっかりさせるっていうか……」

「いっちゃんの話は結局来ないってことになる…… 」

「そうじゃないよ…… 」


「もういい! わかった! 二度と言わないから」

「…… 」


「もう! 今日は何時!」

「…… 用意できたらおいで。ボクは公園を散歩してるから」


「わかった!」

「ゆっくりでもいいよ。ボクは散歩しながら待ってるから。いつでもいいからね」

「いっちゃん…… おじいちゃんみたい…… 」

「そうじゃ、わしゃじいさんじゃ」

「アハハハハ、ウケる!」

「いいから、またあとで。公園に着いたら連絡して」

「わかった~~~~、あとでね!」


 弾んだ舞の声が途切れた。ややホッとして、一縷はそのまま眠ってしまった。




◇ ◇ ◇


 昨夜の涼音すずねが浅い夢に現れた。目の前に彼女の肉感的な唇があり、吐息からはワインの芳香が立ち昇る。淡いブラウンの瞳は夜灯りに瞬き、首筋は速い鼓動に怪しく揺れている。

 幾つかのボタンを外した胸元からは白い柔肌がのぞき、その先の膨らみは、一縷が触れるのをずっと待っている…… そっと右手を滑り込ませても、彼女は抗うこともなく、潤んだ瞳は彼をじっと見つめたままだ。それは、優しい微笑みのようでもあり、妖艶な誘いでもあり……




 …… と、そこで目が覚めた。見えたのは見慣れた部屋の天井だった。


(なぜ、触れなかったのだろう…… )


 後悔していた。あの時、彼女に触れる勇気を躊躇した自分を、一縷は情けなく思っていた。追い求めたものをみすみす見逃してしまう度胸のなさを、今頃になって悔やみ始めていたのだ。



 ふと時計に目をやると、10時を回っている。


(あれ? 舞から連絡ないな?)


 そう思ってスマホを手に取る。



「えっ! 嘘だろ! 鳴ってねーぞ!」

 思わず誰もいない部屋で声を上げてしまう。鳴動しないスマホほど役立たずなものもない。思わずベッドから跳ね起きる。スマホには30分ほど前からメッセージがいくつも並んでいる!


 美術館は月曜日休館! どこにいるの?


 どこ~~~~! まだ~~~~?!


 なんで?…… なんかあった? 


 早く~~~~~~~!


 も~~~~~~~~~~


 一縷のバカ……! 死ね!


 ……




 慌てて歯ブラシを口に入れたとほぼ同時に玄関のチャイムが鳴った。




「どうゆうこと!」

 ドアを開けると上気した舞の顔が目の前にあった。


「あちゃ〜〜〜…… よくここわかったね……」

「一度来たら忘れません! 入っていいの?!」

 怒りながらも、男の部屋に入るのを躊躇うところが妙に愛しい。


「ごめんごめん、ちょっと待ってて、すぐ着替えるから」

「あっ、じゃあ外で待ってる」


 そう言うと、彼女は玄関を上がることもなく、慌てて逃げるように外へ出て行った。


(かわいいな……)


 一縷は素直にそう思った。淡いオレンジ色のロングスカートに白いブラウス、そして頭にちょこんと乗せた麦わらのハット。どこかのイラストから飛び出してきたような可憐な姿が眩しかった。




「お待たせ」


「…… 怒ってるよ、私!」


「アハハ、そんな高原の少女みたいな格好で怒らないで」

 別に機嫌を取ろうとしたわけではない。本当にそんなイメージだったのだ。そうとわかったのか、彼女もようやく機嫌を直した。


「…… かわいい?」

 そういうと、彼女はロングスカートの裾を持ち上げて、ちょこんと挨拶する格好をした。その時、ふわりと優しい風が吹いて、ハットを少し持ち上げた。彼女は慌ててハットを押さえる。


「うん、そのハットが超カワイイ。今までで一番好きかも」

「ホント? 良かったぁ〜〜 これね、今年買ったばっか!」

「似合ってる! 並んで歩いたら、周りの男がヤキモチ焼くと思う」

「ホントにホント? も〜、いっちゃん、イヤだぁ〜」


 一縷は笑いが止まらなかった。なんと単純で愛おしいのだろう。彼女はずっと傍にいて欲しいボクの天使だ、そんなことをふと思った。


「では出かけますか? お嬢様?」

「うん! 腕! 組んで歩くの!」

 そう言うと、彼女は一縷の左腕に自分の腕を絡ませた。そしてやや上目遣いに一縷を見上げると、ニコニコっと笑った。その笑顔があまりに愛しくて、一縷は思わず彼女の唇に軽くキスをした。


「えっ…… いっちゃん…… 」


 彼女は突然のことに言葉が継げないようだった。一縷も自分の行動に驚いた。


「アハハ、ファーストキス…… 」

「私も…… 」

 そう言うと、彼女は俯いた。麦わらのハットが邪魔で、一縷には彼女の表情が見て取れなかった。



 そのあと、ふたりはいつもの公園をゆっくり美術館まで歩いた。ほら月曜日だから休館、と舞が笑いながら赤煉瓦の建物を指さす。

 仕方なく公園入口のレストランに向かい、そこでしばらくあの革の装丁本を開くが、すぐに飽きてあとはただのおしゃべり。時間はあっという間に過ぎ去った。


 湖畔のレストランからはボート遊びの恋人たちが見える。その中に、夏の強い陽射しを遮るもののない湖上を避け、濠の中道にある橋の下に隠れるボートがあり、その様子を眺めて一縷は暑けりゃやめればいいのにと言い、舞はロマンがないなぁと呆れる。


 そんな他愛のない時間を過ごしたのち、レッスンの予定がある舞をけやき通りにある教室まで送り届けることにする。


 舞には明るい陽射しがよく似合った。腕を組んでいるかと思えば前に回り、弾むように一縷の手を引く。一縷は少し照れながらも、全然悪い気はせず、冗談を言って舞をからかうと、彼女はさらに陽気な笑顔になり、彼の周囲をクルクル回るように歩く。

 

 一縷にとって、やはり舞は天使なのだ。涼音とは違う意味で……

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