第26話 精神世界の交誼

「歩いて帰るから。じゃあね〜〜〜」

 涼音すずねはステーキハウスを出ると、バス通りを東に向けて歩き始めた。


「じゃあ途中まで」

 彼女の足元がフラついているように見えて、それを放っておけない一縷いちるは、彼女のうしろを少し離れて歩き出した。


 遅い時間にもかかわらず夏の熱気がアスファルトから立ち昇り、酔醒ましどころか、むしろ酔いを加速させる気がする。

 そんな中、彼女は心持ち視線を上にあげ、夜空を見渡すように歩いている。瞬く星数は少なく、繁華街からの夜灯りがぼんやり行く先を照らした。


「一縷? 夏休みはもう実家には帰らないの?」

 涼音が柔らかな声で問いかけた。その声はすべて知っている、安心しろ、とでも言っているように一縷には聞こえた。


「ええ。もう帰りません」

「そう…… でも講義もないし、平日はすることないね」

「そうですね」

「毎日暇だね。寂しくない?」

「全然」

「フフフ、強がっちゃって」


 白い後ろ姿…… そんなこと、いつか忘れてしまうことだと、彼女は言った。

 明日の約束…… そんなこと、断ってしまえと、彼女は即座に否定した。


 本当のところ、彼女はどう受け止めているのだろう? 自分は彼女の言葉をどう受け止めたらいいのだろう?



 それからふたりはまた黙って歩いた。



 護国寺を横目に通り過ぎると、城址公園に続く細い道があり、彼女はその暗い夜道を躊躇うことなく進んだ。


「こんな暗い道を通るんですか?」

「昼間だと平気なんだけどね。夜歩くのは初めて。一縷が一緒だから大丈夫でしょ?」

「ええまぁ……」

「頼りないなぁ」


 そういうと、彼女は振り返って笑った。

 暗い夜道に白い肌が艶めかしく浮かび上がり、彼女の顔に陰影がさらに深く差した。エキゾチックな面立ちに、いつにも増して異国の趣きが漂う。いや、その時の彼女は異邦人ですらなく、何処か遠くの異界から現れた神秘的な存在のようにすら思えた。



 しばらく歩くと、昨夜、一縷がひとりで夜灯りを眺めたベンチに差し掛かる。彼女はそうすることが予め決まっていたかのようにそこに腰を下ろし、右隣に座るよう一縷を促した。


 一縷は彼女の傍に少し間隔を開けて座ったが、少し距離がありすぎる感じがして、半人分ほど腰をずらして座り直した。それでも肌が触れ合うか合わないかの距離には抵抗感があって、やや落ち着かないまま彼女の横顔をそっと盗み見た。

 白い肌が遠くの街灯りを映して妖しく浮かんでいる。薄暗い公園の中で、ただ彼女にだけほんのりあかりが灯っているようで美しい…… 一縷は一瞬たりとも目を離せず、彼女に見惚れた。


 手を伸ばせばきっとすぐそこに、柔らかな膨らみを感じとれることだろう。それを今すぐ確かめたい衝動に駆られる。

 だが…… 彼女の白い柔肌は自分の汚れた手が触れてよいものには到底思えず、ただこのまま、この間近な距離で感じるほどに眺められるなら、もうそれだけで十分だと、一縷は自分に言い聞かせようとした。



 堀の水面から吹き上がる風は心地よく、一縷の逸る気持ちを幾分鎮めた。すると、この時間が、いつでも手に取れるものを敢えて手にしない、至福の時間のようにも思えてくる。一縷は人を愛することの奥深さを垣間見た気がした。


 不意に涼音が一縷の方を振り向く。何かを話しかけようとしているわけではない。ただ、目の前の彼に無言で慈愛を注ぐように見える。一縷にはその意味するところが正確にはわからないのだが、自分が受け入れられていることを、そこはかとなく感じることができるのだった。


「キスしないの?」

 涼音が一縷の瞳をじっと見つめて呟く。

「…… 」

 一縷は声も出せず、ただそのまま彼女の瞳を奥底まで見つめ返すのが精一杯だった。


 ふと涼音がフフフと笑い、その目を逸らす。


「明日、同じ日が来るとは限らないのに」

「…… 」

 非現実の中を彷徨っていた一縷はやや現実に引き戻される。さっき突然キレた彼女…… 目の前で囁く彼女の中のどこかにあの姿も隠れているのだろうか? そんなことをふと思ってしまった一縷は不躾に彼女の瞳の奥を探ってしまう。


「あなた…… 女の子は知ってるけど女は知らないね」


 涼音はそう言うとベンチから腰を上げた。遊びはここまでだと言われた気がして、一縷は夢見心地からはっきり現実に覚醒した。


「さっ、帰ろう。私はそこでタクシーを拾う。一縷は? 今日も走る?」

 そう言うと涼音は、今度はいつものようにアハハハと笑った。



 堀端の道に出ると、涼音は最初に来たタクシーを止めた。乗り込む時、彼女は一縷に向けて手を伸ばしたが、彼はその意味に気がつかぬままドアが閉まるのを黙って見届けた。彼には差し出された手が、車のドアを引き寄せるための動作にしか見えていなかったのだった。





◇ ◇ ◇


 涼音を見送ると、一縷は昨日と同じ道を辿って歩いた。途中、商店街のアーケードを抜け、古刹の周囲を巡り、小さな橋を渡る。いつか伊咲いさきとこの道を歩いたことを思い出していた。


 部屋に戻ると、一縷はなぜか伊咲にメッセージしたくなった。


『起きてる?』

『お相手をお間違いじゃないでしょうね!』

相原あいはら伊咲様にメッセージをお届けしておりますが』

『酔っ払ってんの?』

『酔った…… かも』

『なんか…… 聞きたくない感じ』

『聴いてくれよぉ!』

『うるさいなぁ。まさかとは思うけど、誰かと関係がど〜のこ〜のとか言うんだったら、マジで絶交だからね!』

『なんだよ、その関係がど〜のこ〜のって?(笑)』

『そうじゃなきゃいいよ。何だよ早く言いなよ』


『あのな…… 思ったんだけど、お前の好物のチョコフォンデュが目の前にあるとするだろ?』

『夜中に何の例え話してくれてんの?!』

『いいから! あるとするだろ? それをお前はすぐ食べる?』

『当たり前じゃん。食べるよ』

『いつでも食べられるし誰にも邪魔されないのにすぐ食べる? もっともっとこの幸福な瞬間を感じ続けたいとは思わないか?』

『バカじゃないの? 思わないよ。食べてこその幸福だよ! 躊躇なく全部食べるよ!』


『アハハハ、即物的な伊咲らしい見解だなぁ。 

 美味しいものはな、それを食べる直前が最大の幸福なんだよ。いよいよ手に入る、その恍惚感に浸るんだよ、ギリギリまで』

『あんた…… 変なものでも食べた? それとも熱中症か?』

『伝わらんヤツだな。オレが教えてやってるのは精神世界の交誼とでもいうやつさ、魂の交歓!』

『面倒くさい男だねぇ。最近面倒くささに拍車かかってるよ。あんた、そんなんじゃまいちゃんにも嫌われるよ』


『舞ねぇ……』


 一縷は無意識だが、この文字の並びは彼の人格的な欠陥を強く匂わせた。人に対する決定的な同情心の欠落とでもいうような……


『まさかとは思うけど、あんた今まであの人と一緒だったとか?』


『…… 悪い?』


 このあと、いくら待っても伊咲からの返信はなかった。伊咲が傷ついたのか、呆れたのか、今の一縷にそんなことがわかるはずもなく、寝落ちした、くらいにしか思っていない。


 当然ながらそれから夏休みが開けるまで、彼女からのメッセージは一通も彼のもとに届けられることはなかった。

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