第25話 蘇る記憶
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
キャンパス近くのステーキハウスは、知り合いの一人や二人、会ってもおかしくはない場所だったが、夏休みに入っていたこと、夕食には少し遅い時間だったこともあって店内はガラガラ。顔見知りもおらず、
「入ってすぐ知り合いがいないか確認したでしょ?」
「いや…… そんなこともないです」
「そんなことも? アハハ、あなたバカ正直なんだから。笑っちゃう」
「ちゃんとお礼いってませんでした。昨日はありがとうございました」
ホントは他の酔客と話し始めた彼女を苦々しく思ったままだが、この程度の大人な対応は一縷にもできる。だが、そんな彼を無視して彼女は今夜も赤ワインを注文した。
「飲むよね? いや、一縷を飲ませるとタチ悪いからやめとくか、アハハハ」
(なんだタチ悪いとか…… お互い様っつーの)
そんな一縷の心の内を知ってか知らずか、涼音はますます意地悪な目になり、獲物をいたぶるような顔でワインを飲んでいる。
「ん? あれ? 昨日の話を聞いたあとでもそんな顔できるかな?」
身に覚えがないだけに、涼音の言い方を少ししつこいと感じ始めた一縷は、我慢しきれずに涼音の罠にはまる。
「そんなに変なことしましたっけ? 別に何かした記憶もないし、言った記憶もないですけど」
「それマジ? アハハハ、マジだとすると、キミはホント幸せ者だよ」
もう一度振り返るが、そんなにマズいことがあった??…… と思っているところに涼音が軽くジャブを繰り出す。
「なんで帰ったか、それも憶えてないとか?」
「なんで?って…… 涼音さんは他の人と楽しそうにしてたし…… 邪魔なんだろうなぁ、と思ったから……」
やや皮肉を込めて答える。こっちもそうだけど、そっちもだろ? くらいな気持ちはある。
「それマジで言ってる? …… だとしたら絶句だわ」
涼音の顔から余裕の笑みが消えた……
「絶句って…… 」
言いながらどんどん自信がなくなる。何かが記憶から欠落しているような気がしてきた……
「…… ダメだこりゃ、この子に飲ませちゃダメだ……」
(たったひとつ違いだっつーの…… )
こんな場面でも子供扱いされることにムカついてキッとした顔になる。その表情に気づいた涼音も戦闘モードになるが…… 一縷はその変化を見落としてしまう。
「すぐムキになる…… 変な子…… 」
涼音がボソボソと呟く。スルーすりゃいいのに一縷はその言葉に引っかかった。
「一種のセクハラですからね、ガキ扱いは…… 」
しばし沈黙……
「あ〜、そうですか! すいませんでした!!
でもさ、あんたこそ昨日も今朝もセクハラ連発だからね!
言ってやろうか?! 全部! 覚えてないなら!」
突然涼音がキレた。
(セクハラ? ……。今朝?……
泊めてくれ…… やっぱあれヤバかったか……
ん? 昨日も?…… )
どうしても思い出せないが、ヤバそうな記憶が中途半端に甦り、ステーキを切る一縷の手が止まった。
「あなた、酔ったら女の子に近づかない方がいいわ! いつか女性で大失敗する気がする」
一縷は急に不安になった。なぜか心臓がバクバクし始める。とてつもなく不都合な真実が今まさに明かされる、そんな悪い予感が……
「私がカウンターの中に逃げたの憶えてる?」
「逃げた?……」
「そう! 逃げました!」
「なっ…… なぜですか……?」
「身の危険を感じたからに決まってるでしょ!」
「あっ……」
ワンシーンがフラッシュバックした。カウンター席で、右手に座った彼女の腰に手を廻した…… 正確には、手を伸ばして…… そのあとどうしたっけ?……
「思い出した?!」
「…… 」
「全部?!」
「全部って…… その…… 腰に手を…… 」
「それだけ?! 言ったことは?!」
思い出せない……
「まあいいわ。あなたも苦しかったみたいだし。同情はしないけど、許すよ。今回だけ」
ふたたび涼音の顔は余裕の…… 意地悪な笑みに戻った。あなたの弱みなんか全部知ってるんだからね、とでも言いたげな表情が読み取れる。
なんだ?…… まさか…… ! 白い後ろ姿? 母親の姿だったはずが、いつの間にか涼音に変わっているという、やましい真実…… あぁ…… 終わってる……
その先はもう想像もしたくなかった……
「いいのよ。人の心の奥底に巣食ってるものなんて、誰も似たようなものよ。だから、あなたも気にしないこと。いつか放っておいても忘れることだわ。きっといつか忘れる。だから安心しなさい」
諭すように涼音は語る。ま、まさか…… あなたの白い後ろ姿を…… なんて言ってしまったのか? 一縷は顔も上げられず、真っ赤な顔で彼女が次に繰り出す言葉を待った……。
「ただ、どうしても頭にきたことがあったから、その謝罪は要求する!」
(やっぱり…… そりゃそうだ…… そんなこと想像されてるなんて…… 誰が聞いてもひくわ……)
ほぼ諦めの境地に達し、一縷は仕方なくキーワードを口にする。
「白い…… ですよね…… すいません」
蚊の鳴くような声…… 聞いたこともないがそんな声だ……
「違う! そんなこと、さっきも言ったでしょ! いずれ乗り越えられる、って。そんなことじゃない。あなたに怒ったのはそこじゃない!」
気が付いたら彼女は赤ワインのボトルをほぼひとりで空けていた。
「もう一本飲む? いや! 飲むから今日はあなたがちゃんと付き合いなさい! どーせ明日はなんもないんだから! あなたは!!」
「いや…… 約束が…… 」
「ふざけるな! そんなものは断われ!」
白い…… そんなんじゃない? 約束…… 断れ? 何がなんだか、一縷は彼女がどこまで知っているのか空恐ろしくなり、とりあえず謝ることにした。
「涼音さん…… 申し訳ないことをしたみたいで……」
「涼音さん? あんたねえ! 昨日は呼び捨てだったんだよ!
今日からは涼音って呼ぶぞ! って!
こらっ、涼音! こっち来い! とか、もう凄い面倒くさかったんだから!」
「…… そうなんですか…… すいません、酔ってとんでもなく失礼なことを……」
「ふん! その覚悟もないなら呼び捨てなんかするな!」
「はい…… 先輩すいませんでした」
「なんかイチイチ面倒だな…… 涼音でいいよ。まったく調子狂うなぁ…… 」
「すいません…… 」
「大体さぁ、『涼音も好きだけど、舞も大事にしたい』って何なんだよ、それ!
お前、散々言ってたんだぞ!
どういう意味? って何度も訊いたけど、さっぱり理屈が通ってなかった。
あれが無性に腹立たしかった! どういう意味だよ! 今説明しろ!」
「そんなこと……」
言っているのだろう。常に思っていることをどうやら全部口に出しているようだった。もう諦めるしかない…… そう思った。
「すいませんでした…… 酔った勢いで、なんて言い訳はしません。ボクはきっとそういう人間なんです。くだらない人間です…… 軽蔑してください。」
彼女のことはもう諦めよう。当たり前だ。人の心の奥底にあるドロドロした本音を全部聞かされて、それでも相手を丸ごと受け止められるなんて、そんな絵空事などあるはずがない。涼音に嫌われた…… もう仕方ない。そう思った一縷は、覚悟を決めて顔を上げた。
「バカだねぇ…… 」
目の前に真正面から自分を見つめる涼音の白い顔があった。一縷は、その顔からしばらく目が離せなかった。離すことを涼音に許されない気がしたのだ。
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