第24話 失った記憶
「あれ?! もう帰るの? ひとりで帰れる?」
背中に
バス通りをまっすぐ歩くと堀端に出る。週末の激しい往来もこのあたりまで来ると少し静かになった。一縷は酔った頭を冷やそうと、城址公園の中を通り、見晴らしのいいベンチに腰を下ろした。
涼音の笑い声が繰り返し蘇る。カウンターの内側に入り、どこの誰ともわからぬ酔客の相手が平気でできる彼女は、一縷の知る、壇上から論戦を挑む彼女でも、お嬢様を揶揄する彼女でも、まして、冷たい指先で一縷の顔を優しく触れる彼女でもなく、明らかに場末の、下着のヒモがだらしなく垂れていそうな女そのものだった。弾みで乳房が
それでも白い肌の誘惑に勝てそうにない。たとえ彼女が想像するような女であったとしても、その白い後ろ姿は彼を
遠く繁華街の灯りを眺めながら、一縷は落ち着くどころか、ますます涼音の幻想に捉えられ、ベンチから立ち去り難くその場に留まった。すっかり酔ってしまったせいもあるが、この場所からどこに向けて歩き出そうと、走り出そうと、結局なにをしようと、彼女の姿態を頭の中から追い出すことなどできる気がしないまま…… いつの間にかその場で眠ってしまっていた。
……
……
ハッと我に返る。スマホを取り出すと、時刻は真夜中の3時を過ぎている。
(塾だ…… 今日は一日中だ…… )
うつらうつら繰り返し見ていた涼音の幻想がようやく薄れる頃、アルコール漬けの身体を一刻も早く洗い流したくなった一縷は、そこから走ってアパートまで帰った。
アパートに辿り着くと真っ先に熱いシャワーで身体の隅々を洗い流す。液体歯磨きでしつこいほど口を濯ぎ、着ていたもの全てを洗濯機の中に放り込む。そして窓を全開にして朝の冷気を吸い込んだ。見た目はようやくいつもの一縷に戻ったようだが、実際には昨夜の酔いの中に居続けた。
ベッドに横たわると、知らぬ間に深い眠りに落ちた。
トゥルルン
涼音用に設定したリングトーンが一縷を呼び覚ます。
『起きてる? あなた、遅刻は厳禁だからね』
彼女は昨夜のことなど何ごとでもなかったかのように、いつもの先輩に戻っていた。
『おはようございます。大丈夫です』
『それならいいんだけど。
あまり調子に乗って飲まないの!』
『えっ?』
(調子に乗る? そんなでもないだろ? )
『憶えてないの?』
『涼音さんがカウンターの中に入ってしまったんで…… そこから先はちょっと』
『あなた…… 簡単に酔うんだもん。ひとりで帰してよかったか、心配しちゃったよ』
一縷はまだ完全に酔っていた。酔って怖いもの知らずな状態だった。
『だったら今度は涼音さんの部屋に泊めてくださいね♥』
一縷は気の利いた冗談のつもりだが、涼音は完全にスルー。酔いが醒めるにつれ、一縷は自分が送った文字の並びを後悔し始めた。
(泊めて…… ♥マーク…… バカだろ…… )
部屋を出る頃には正気が戻り、それに連れて顔がまともに上げられないほど落ち込み始めた。
◇ ◇ ◇
夏の陽ざしは容赦がなかった。アパートからわずか3分のバス停に辿り着く頃にはすでに汗が噴き出している。それは汗というより、前夜のアルコールがそのまま毛穴から発散されている感じだった。何本かのバスをやり過ごし、一縷は仕方なくタクシーを捕まえた。運転手に室温を目いっぱい下げてもらう。アルコール臭を放出する身体中の毛穴を全部閉じたいくらいの気持ちだった。
「
タクシーから降りるところをほかの講師に見つけられ、からかわれる。
「ほぉ~、講師歴2か月でそりゃ大した大物だ」
塾長も嫌味にそういう。
「飲み過ぎなんですよ、霧島先生は」
涼音からはきっちりお叱りを受ける。
(あなたのせいじゃないか…… )
そういう訳にもいかず、一縷は講師控室で小さくなるしかなかった。
「あの時間からどこで飲んでたんですか?」
塾長が核心を突く質問を投げてくる。
「私の
「そうなんですか! そりゃ今度僕たちもお邪魔しよう!」
「狭い店なんですよ。ここの皆さんがいらっしゃると私はカウンターの中に入るしかないくらいの」
「ほぉ~、そりゃむしろ全員で行かなきゃいけないな! アハハハハ」
「変わったお酒がお好きならいろいろ揃ってます。どこでどう仕入れるか知らないですけど、
「へぇ じゃあ、霧島先生もそのお酒を試しているうちに出来上がってしまった訳だな?」
「彼は最初のウォッカで酔ってましたから、アハハハハ」
からかわれた一縷は意地になって言い返す。
「それが普通ですよ…… 知らない間に飲まされたんだから」
「おやおや、楽しそうな店だな。こんな美人が酔わせてくれるなら、私なら常連になるね」
一縷は大人の会話を続けるつもりにもなれず、それっきり黙りこくってしまった。
◇ ◇ ◇
朝から6コマの授業は普通でもしんどい。完全な二日酔いの一縷は、生徒がプリントをやる間、後の席から監視するフリをして頭は半分寝ていた。すべての授業が終わる頃、ようやく酔いは抜け、そうなると性懲りもなくまた飲みたくなる。
「涼音さん、昨日のお詫びにコーヒー御馳走します」
帰りのバスの中で、一縷は見え透いた理由で涼音を誘ってみた。
「コーヒー? アハハハ、別にビールでもワインでもいいよ」
完全に見透かされている……
「じゃあ、そのお礼に昨日のあなたがどんなだったか教えてあげるよ」
「ん? 何かありました?」
一縷はあっけらかんとそう応える。
「憶えてないの? それホント?」
「…… はい」
「呆れた……」
「えっ?…… 」
そうこうするうちにバスはキャンパス下に近づく。
「どうするの? コーヒー? またあの店?」
「お腹空いたんですけど…… 何も食べてないから」
「アハハハ、色気より食い気ね。一縷はまだまだお子ちゃまだなぁ」
彼女は愉快そうに笑うと、バスを下りてステーキハウスを目指した。
(何言ったっけ?……)
などと考えてみるが特に思い当たる節もない。小首を傾げながら一縷は黙って彼女に従った。
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