第23話 バー『ラギ』

「うわぁ〜真っ赤だねぇ〜! 痛そ〜!」


 バスの中で、涼音すずねは日焼けした一縷いちるの顔に恐る恐る手を伸ばした。間近に迫る彼女の顔は彼の痛みを感じるように歪んだが、その実、目元は物珍しいものを見つけた悪戯っ子のようで、この愉しみを独占して離さない、とでも言いたげだった。


「涼音さんの手って冷たいですね…… 」


 顔に触れた彼女の指先は驚くほど冷たく心地良い。


「夏はいいでしょ? アハハハハ」


 看護師が傷口を探すようにあちこち顔を見回す涼音。一縷はその視線をずっと追いかけるが、彼女のそれはひとところに止まらない。


「ホントにどこも痛くない?」


「うん」


 ようやく視線を捉えた一縷がじっと涼音を見つめる。彼女もたじろぐことなくその目を見つめ返した。


「イヤらしい顔が精悍になったよ…… ん? ちがうな、精悍になってイヤらしい、かな? アハハハ」


 視線を離せず、一縷はちょっとドギマギしているが、彼女は涼やかな目を一瞬たりとも逸らさない。


「冷たくて気持いい……」


 肌の冷たい彼女を抱き寄せたい衝動が一縷を襲う。


「彼女の手は冷たくないの? ん?」


 そのことを知ってか知らずか、涼音は彼をはぐらかすようにそう問いかけた。


「…… わかりません」


 彼女の意図を読み切れず、一縷は真面目にそう答えた。


「ウフフ、嘘ばっか。 いいのよ、そんな嘘言わなくて」


 顔から手を離した涼音は正面に向き直った。急にそっぽを向かれた気がして、一縷は慌てて彼女の言葉を追いかける。


「本当です!」


「アハハハハ、そうですか」


「涼音さん!…… 」


 言いたいことをなかなか言い出せない一縷は、自分自身がもどかしい。


「何?」


 一縷の日焼けした顔に興味をなくした、とでも言うように、涼音は流れる景色を眺めている。 


「塾が終わったあと…… 時間いいですか?」


「いいよ。なんでそんなに畏まるかなぁ、アハハハハ」


 勇気を振り絞った言葉をするりとかわされ、一縷は伝えたいことから逃げ出してしまう。


「記事の件で相談するだけですから…… 」


「ウフッ、そうですか、はいはい」


 涼音は外を眺めたまま声を潜めて笑う。一縷は赤い顔をさらに赤くして俯いてしまった。


「アハハハ、ホント、面白い子!」


 一縷の方に向き直り、彼が硬い表情なのを認めると、涼音はまたからかうようにじっと見つめた。


「あれ? また怒っちゃった?」


 一縷は顔が上げられないし、何も言えない。黙ったままの彼を愉しそうに眺めていた涼音がボソッと小さくつぶやいた。


「あ〜ぁ、嫌われちゃた」


「嫌うわけないでしょ!」


 一縷の急な声に、涼音はピクンと反応した。


「怖いよ、一縷クン、アハハハハ」


 一縷は彼女の顔から目が離せない。


 キレイに揃えた眉、挑むような目付き、肉感的な唇、無駄なくすっきりした鼻、そして…… 抜けるように白い肌……


 やや広めに開いた襟元から、豊かに続く白い肌の丘が僅かに覗いている。首筋が呼吸とともに艶かしく動くのが見て取れる……


 自分の鼓動の音が涼音に聞こえてしまうのではないかと思うくらい、一縷の胸は速まり高鳴った。




◇ ◇ ◇


 20時半に授業を終えると、一縷は涼音をバス停で待った。遅れてやってきた彼女は、いつもより親しげに一縷に話しかける。


「あ〜、疲れた! ねっ、疲れたね!」


「えぇ…… 」


「ご飯食べて帰ろ? ねっ!」


「…… はい」


「何だ何だ? 元気ないぞ、一縷クン、アハハハハ」


「…… 」


「いつものカフェでいい? 飽きた?」


「どこでも」


「そう! じゃあちょっと知り合いのお店があってさ、付き合う?」


「ええ…… 」


「じゃあ決まり」


 いつものバス停で降りることなく、ふたりはこの街一番の盛り場に向かった。




◇ ◇ ◇ 


 歓楽街のバス停で下車すると、涼音は大学生があまり足を踏み入れることのない雑踏の街を迷うことなく歩いた。


 名前こそ聞いたことのある歓楽街だが、一縷はその入り口の映画館に入ったことがあるだけで、奥に続く細い路地など遠目にも覗いたことがない。彼にとってそこは異界以外の何ものでもなかった。


「どこに行くんですか?」


 不安になった一縷は我慢できずに前を歩く涼音に問いかける。


「もうすぐそこだよ」


 涼音は速度を緩めることなく、むしろ足を進めた。




◇ ◇ ◇


 「ラギ」という不思議な名のその店は、迷路のような路地を何度か折れ曲がった先の、薄暗い街灯の袂にあった。歓楽街入り口の明るく陽気な雰囲気とは異なり、どこか隠微な気配漂う店先からは、嗅いだことのない香辛料の強い匂いが漂ってきた。


「いらっしゃ…… なんだすずちゃん、おかえり」


「ただいま~。お客さん、連れてきた」


「あらまっ! カワイイボクちゃんだこと! 涼ちゃんのボーイフレンド?」


「うん、そう。最愛のマイハニー、アハハハハ」


「ほら、ハニー、そんなとこに突っ立ってないで、こっちにお入り!」


 一縷はこの異界がどんなところか必死に情報を集めようとした。エスニックな香りと、ドギツい色使いのオブジェが、どことなく秘密めいた東南アジア辺境の店を連想させる。店の奥には彼の人生に一度も入り込んできたことのない世界が垣間見える。だが、わずか十数席のカウンターに押し迫る壁が、それ以上具体的に何かを考えることを止めさせた。


「驚いた?」


「ええ」


「アハハハハ、ボクには刺激が強すぎた?」


「よく来るんですか? ここ?」


「そうだね、時々」


 一縷はもう一度店の中を見回した。そのどこにも涼音が好みそうな欠片を見出だせず、益々彼は不安を募らせた。


「さっきのママ、マリエルっていうんだけど、私の再従姉またいとこ。わかる?」


「いえ…… すいません」


曾祖父そうそふのひ孫同士ってこと」


「はぁ…… 」


「ピンとこないか」


「ええ、まぁ…… 」


「以前、母方の曾祖父はロシア人だ、って教えたでしょ? あなたがあの時あまりにも平然としてたから、いつか機会があったら連れてきて驚かせようと思ってたの、アハハハ」


「はい……」


「私ね、マリエルの中に自分と共通するものなんて、なにも見出だせない。でも、彼女といると、人間の存在なんてこんなものじゃないかな、って思うの。血は薄まるだけだよ。時間とともに。なんの不都合もなく」


 彼女がいつか自分自身のことに関心があるといった、そのひとつ答えがここにあるのかもしれないと思った。確かに、彼女と店のママは見た目も年齢もまるで共通項を見出だせない。顔のパーツひとつひとつを並べたとしても、僅か数世代前に同じ源に行き着くとは誰も思わないだろう。そこにはただ色白の20歳の女性と、色黒の中年女性がいるだけだ。ただそれだけだった。


「今度のハニーは大人しそうね。前の人とは全然タイプが違う。涼ちゃんも誰に似たのか、好みの幅が広いんだから、ハハハハハ」


「こらママ! 新しいハニーに何言ってくれてんの? イヤだなぁ、まるで男なら誰でもいいみたいじゃないの」


「ハハハハハ、涼ちゃん、ホントはそういうとこあるでしょ? 複数の男に抱かれたい、とか?!」


「う〜ん、あるかも〜、な~ンチャってね」


 一縷にはこの場で交わされている会話が本当のことか、酒席の冗談なのか、全く判断がつかなかった。


 とんでもない所に来た…… とんでもない人だった…… 涼音に抱いていたのは幻想だと、目の前の光景が言葉ではなく強烈な印象でそれを教えるようだった。


 そのことを伝えるためにここに連れてこられたのか?……


 混乱したまま、目の前に出された液体を一縷はただひたすら呷り続けた。

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