第6章

本当のヒーロー!

6−1

 一週間ほど、何事もなく過ぎていった。ケロケロも見かけないし、イノシシが人を襲ったという話も聞かない。フクロウのことも気がかりだったが、あの夜以降見かけることはなかった。

 ヒトミは真面目に働いてくれるし、最近は堤と二人で買い物に行ったり家に呼ばれたりしているようだ。

 カランとドアベルが鳴り、途端にむわっと蒸し暑い空気が流れ込んでくる。夕方五時になろうとしているのに初夏の陽は沈む気配もなく、気温は昼間と変わらない。

「珍しいですね、田所さんが朝以外にいらっしゃるなんて」

「いやぁ、蒸し暑くってかなわんからな。ちょっと涼んで帰ろうと思って」

 田所はカウンターに座るとアイス珈琲を注文し、お冷やを一気に飲み干した。周囲を窺うように見渡す。テーブル席の二人の女性が会話に夢中なのを確かめると、少し声をひそめて訊ねてきた。

「なぁ、堤さんって元気か」

「ええ、毎日のようにいらしてますよ。今日も一時間ほど本を読んで帰られました」

 いつもと変わらない様子だったが、何かあったのか。

 水を向けると、田所は大きくため息をつき、話し出した。涼むためというより、言いたいことがあってきたのだろう。

「そっかぁ、ならいいんだけどよ。こないだの町内会は珍しく欠席してたし、やっぱショックだったんじゃないかって噂してたんだ」

「何かあったんですか」

「息子が二人とも遠くに住んでるだろ、秋には長男は一家で海外赴任だってよ。気の毒だよなぁ」

「それはまた……」

 今までだって遠くて会えないと言っていたのに、海外か。

「息子二人いんだからよ、どっちか母ちゃんのそばにいてやりゃいいのにな」

「お仕事の都合なら仕方がないでしょう」

 それにたぶん、堤はそんなことは望まない。たとえ本音では寂しくても。

「堤さんは、自分の都合で息子の行動を縛ったりしないです」

 ヒトミは少しむっつりとして、アイス珈琲を田所の前に置いたあと、ぼそりと言う。

 ずいぶん堤に肩入れしている。

「田所さん、顔を出して差し上げればいいじゃないですか」

「いやぁ……年は変わんねーのにさ、なんか母ちゃんみたいっつーか……学校の先生みたいでおっかないんだよな、堤さん。あのお堅い雰囲気のせいか、友達も少ないみたいだし」

「怖くないです……! 堤さんは確かにお母さんみたいだけど、優しくて、綺麗で、とっても素敵な人なんです!」

 ヒトミの憤慨に驚き、田所は目を剥く。店では大人しい女性で通っているのだ。

「悪ぃ悪ぃ。別に嫌いなわけじゃないんだ。ヒトミちゃんみたいな可愛いお友達ができたならよかったよ、うん」

 家内にも気にかけるように伝えておくと言い残し、田所はアイス珈琲を飲み干すと、そそくさと帰って行った。二人の女性客がちらりとこっちを見た。ヒトミが大声を出したせいだろう。

 ヒトミはばつが悪そうに目を伏せたあと、食器を片し始める。

「ごめん、聡介。お客さんにあんなこと言って」

「いや、あれくらいじゃ堪えないよあの人は」

 肩を竦めて笑って見せると、ヒトミもぎこちなく笑った。しばらくすると他の客も帰り、店内にはヒトミと二人だけになった。

「堤さん、変わった様子は?」

「特にないと思うけど」

「そっか。もし訊けたら、それとなく様子を探っておいてくれないか。俺も心配だし」

「探ってどうするの」

 意外にも、冷めた反応が返ってきた。あんなに仲良くしているから、ヒトミも心配しているかと思ったのだが。聡介の表情を見て、少し困ったように肩をすくめてから、ヒトミは言葉を継いだ。

「無駄よ。あの人は過去を生きているんだから」

「過去を……?」

「旦那さんが生きていた頃や、子どもたちがこの町にいた頃の思い出の中を生きている」

「そんなことを言っていたのか?」

 ヒトミは静かに首を振る。彼女の〝よく見える目〟がそれを見せたのか。

「彼女は、自分が幸福なのを知っている。旦那さんは充分な遺産を残してくれた。息子たちは立派に育ってそれぞれ家庭を持っている。遠く離れているけれど、気遣ってくれる。この町での生活も悪くないと思っている。それでも……」

 僅かにヒトミの声が震える。寂しげに瞼を伏せた。

「それでも、やっぱり家族には会いたいのよ」

 彼女の言葉は聡介の胸をも抉った。

 聡介にも、会いたい人がいる。

「孤独と戦う手段として、彼女は過去の幸せに囚われることを選んだ。それは誰にも邪魔できない」

 聡介には上品な優しいおばあちゃんにしか思えない。だけど胸の裡では戦っている。会いたいと、寂しいと、言葉にすることがどれほど家族の心に負担をかけるか。知っているから大丈夫だと微笑む。詮ないことだと言葉を呑む。

 ありふれている。多かれ少なかれ、誰もがそうだ。だからといって軽視するのは違う。

「彼女は一人で戦っている」

 孤独か。それは強敵だな。

 聡介は息をつく。確かに他人がどうこうできる問題ではない。

 ヒトミは、堤の寂しさを少しでも慰めようと彼女と仲良くしているのだろうか。そうだとしたら、想像していたよりも情の深い女だ。

「違うわ」

 聡介の表情から心を読んだように、少し見下したように笑う。

「あんなふうに年を取れたら素敵だなって思うだけ」

 ヒトミの目はどこか遠くを見つめていた。

 出会ったときとずいぶん印象が違う。最初は軽薄で少々頭の緩い女だと思ったのだが。

 演技だったのか。それとも、今のこの表情が作り物なのか。本当のところはどうなのだろう。

 物憂い表情でテーブルを拭くヒトミを見つめていると、その向こうに見覚えのあるずんぐりとしたシルエットが通り過ぎる。ドアに近づき外を窺うと、やっぱりそうだ。

 黒いヒラヒラをなびかせて、ケロケロが商店街を歩いている。隣にいるのは、海と呼ばれていた少年だ。

「あいつ……」

 帰れって言ったのに。まだ諦めてなかったのか? 海と一緒だし、放っておくわけにはいかない。

「ごめん、ちょっと行ってくる!」

「正義の味方ご苦労様です! いってらっしゃーい!」

 先ほどとは別人のような明るい声で言い、ヒトミは嬉しそうに手を振る。その様子は出会ったときと同じだ。

 ヒトミの全力の見送りに苦笑で応え、聡介は店を飛び出した。

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