5−2


 聡介が店に戻ると、ヒトミは常連の老婦人と談笑していた。

 ボブカットに揃えられた白髪に淡い色のアイウェア、服装はいつもトラディショナルな質のよさそうな物を身につけている。常連の一人、つつみだ。穏やかで育ちのよさがにじみ出ているような人だ。旦那さんには早くに先立たれ、二人の息子は独立して遠くで暮らしていると聞いた。

 いつも午後三時頃にやってきて、陽当たりのよい窓際の席で小一時間珈琲を飲みながら本を読むのが日課だったが、最近はヒトミと話すのが楽しみらしい。ヒトミも最初は戸惑っていたようだが、今ではすっかり懐いている。何を話しているのかと聞いても、女同士の秘密なのだと教えてくれない。

 ご近所では、ヒトミは夫のひどい仕打ちに耐えかねて家出した人妻ということになっている。それを聡介が匿い、いずれ時期を観て息子を呼び寄せる……らしい。人の噂というのは恐ろしい。

 その噂のせいで皆、ヒトミに同情的だ。とりわけ堤は、ヒトミを気にかけてくれている。

「聡介! 遅いよ、どこ行ってたの。堤さん、ずっと待ってくれてたのよ」

「ああ、悪い。堤さん、すみませんでした。今淹れますね。いつものでいいですか」

「その前に髪を乾かしなさい。風邪を引いてしまいますよ」

 走って帰る間にずいぶん雨に濡れたらしい。堤に頭を下げながら二階へ行き、聡介は急いで着替えを済ませた。

「マフィンも一緒にいただこうかしら」

 その言葉に、ヒトミは慣れた手つきでガラスケースからマフィンを取り出し、温め直した。最近ではずいぶん仕事を覚えて、指示をしなくてもたいていのことはやってくれる。

 カウンターに戻った聡介は湯をかけ、豆を挽く。堤のために淹れる一杯は、ことのほか緊張した。ドロップし終わった珈琲をテーブルに置く際、つい言い訳がましい言葉が出てしまう。

「まだまだ祖父のようには淹れられなくて」

「悪くはありませんよ」

 堤は微笑みを浮かべる。いつも同じ答えだ。彼女からは『おいしい』と言ってもらったことがない。他の常連は上手くなったとか、じいさんと変わりないと言ってくれるのに。もちろんそれも、ただのお世辞かもしれないが。聡介の目下の目標は、彼女に『おいしい』と言ってもらうことだ。

 堤は香りを楽しむように目を閉じ、それから出窓に視線を向けた。

 カウンターや出窓は聡介の物に加え、有馬が持ち込んだフィギュアに占拠されつつある。最初は抵抗があったが、好きな物に囲まれていると自分の店だという実感が持てて悪くない気分だった。

 ここはもう、祖父の店ではない。自分の店なのだと改めて実感した。

 常連のじいさんたちは面白がってくれているようだが、堤さんはどうだろう……。こういう品のいい人には、不愉快だろうか、やっぱり。

「すみません、ごちゃごちゃしちゃって」

 遠慮がちに顔を覗き込むと、堤は菩薩のような笑みを返してきた。

「あら、わたしはいいと思うわ。これは見覚えがあります。孫が小さい頃にねだられて買ってあげたことがあるの。すごく喜んでくれて、わたしも嬉しかったわ」

 懐かしそうに目を細め、フィギュアの一つを手に取った。少し色褪せたソフビの怪獣は、どことなく愛嬌がある。しばし思い出に浸るように見つめたあと、そっと怪獣を窓際に戻す。

「聡介さん、お母様はお元気ですか」

「え、ええ。まぁ」

 言葉を濁すと、わずかに眉を下げ、堤は諭すように言う。

「こまめに連絡をして差し上げなくてはいけませんよ。母親というものはいつも子どもを心配しています。特に、息子のことは気がかりなものですよ」

「やっぱり、男のほうが頼りなく感じるものですか」

「殿方は、弱みを見せる場所が少なくていらっしゃるでしょう。特に、社会に出ると」

 笑みを浮かべて一口珈琲を含むと、堤は文庫本を取り出し読み始めた。

 侵しがたい雰囲気をまとい、静かにページをめくる堤を、ヒトミは憧れるような目で見守っている。聡介は読書の邪魔にならないようBGMのボリュームを絞った。

 しばらくすると、何か思いついたように堤は顔を上げ、本を閉じた。

「聡介さん、ご存じ? この近くでイノシシが現れたらしいのよ。わたしもちらっとだけど見たわ」

「イノシシ……ですか」

 民家近くに猪が出るという話は聞かないではないが、この辺りは山が近いわけでもない。それに、野生動物が町に現れるのは、餌の少ない冬場が多いような気がする。どこかで飼育されていたのが逃げたのか? 

「それは危ないですね。利口な動物らしいですし。早く捕まるといいんですけど」

「そうね。人も動物も怪我のないよう、元の場所に戻してあげられればいいわね」

 カップの底に残った一口を大事そうに飲み、堤は立ち上がった。会計を済ませると、ヒトミを手招きして呼び寄せる。

「ヒトミさん、困ったことがあったらいつでもおっしゃって。男性には言いにくいこともあるでしょうから」

「困ることなんてないですよ」

「遠慮しないで、わたしを母親だと思って。……いえ、あなたのようなお若い方相手に母親は図々しいわね。おばあちゃんかしら」

「いえ、そんなことないですっ! 堤さんはお若くて素敵です、本当に……」

 ヒトミは慌てて首を振り、必死で否定する。確かに堤にはどこか、気安くおばあちゃんと呼び辛いような泰然とした雰囲気があった。

 堤は両手をそっと合わせ、いいことを思いついたという顔をする。その仕草は少女のようだ。

「そうだ、今度一緒にショッピングに行きましょう。孫娘への誕生日プレゼント選びに、お若い方のご意見を伺いたいわ。新しいものには疎くて困ってしまうの」

「わたしでお役に立てるなら」

 ヒトミはぱっと顔を輝かせ、手に持ったトレイを胸に抱く。こんな可愛い仕草もするんだ。本当に堤さんを慕っているんだな。

「聡介さん、ヒトミさんをお借りしてもよろしくって?」

「行ってもいい?」

 堤さんの手前、ダメとも言えない。それに、こんな嬉しそうなヒトミさんの顔を見たら。

「ご迷惑にならないようにな」

 ヒトミはこくこくと子どものように頷く。堤はまた誘いにくるとヒトミと約束し、帰って行った。

「お母さんってあんな感じなのかな」

 ぽつりと漏れたヒトミの言葉に、聡介ははっとする。

 母親を知らないのか、彼女は。

 問いかけはしなかったが、ヒトミは聡介の思考を読み取ったように気まずそうに顔をしかめる。

「なんでもない。それより電話しなさいよ、お母さんに。ちょうど今、お客さんもいないし」

「なんでヒトミさんが指図するんだよ」

「堤さんが言ってたでしょ。電話しなさいって」

 余計なお世話だ。そう言い返したかったが、言葉を呑んだ。

 彼女も、長く子どもに会っていない。軽口を叩いていても、辛い思いをしているのだろう。堤の言葉に感化されても仕方がない。聡介は曖昧に頷いて見せたが、納得しない様子で、ヒトミはさらに詰め寄ってくる。

「特に聡介のお母さんは、心配しているでしょ? だって聡介は子どもの頃……」

 その言葉に一瞬、息を呑む。ヒトミが次の言葉を継ぐ前に、聡介は早口で言う。

「母さんには夜に電話する。昼間は働いてるから」

 誤魔化す必要はなかったのかもしれない。彼女は聡介のことを調べていたようだし、この町の人ならみんな知っていることだ。

 聡介は硬い表情で黙り込んだ。ヒトミは何か言いたそうにしていたが、急におどけた表情で頬を膨らませ、人差し指で聡介の鼻を突いた。

「……絶対だからな。電話しなかったら、堤さんに言いつけるから」

「わかった、わかったから」

 拍子抜けして、聡介はくすりと笑う。

「なによ、なんで笑うの」

 憤慨しながらも、食器を片し始めた。すっかり、立派なウエイトレスだ。実際、彼女がいてくれて助かることもたくさんある。さっきのように少し店を開けても客の相手をしてくれるし、意外に几帳面な性格のようで、店内の掃除も完璧だ。

 母への連絡も、何も言われなければきっと気になりつつも先延ばしにしてしまうだろう。

 これは礼を言うべきだな。

 そう思うものの、なんとなく照れくさくて言葉が出てこない。

「なぁ、ヒトミさん……」

「ん? どうした?」

 あと少しで声になりそうだったのに、まるで時間切れだとでもいうように、ドアベルがカランと鳴る。

「いらっしゃいませ!」

 明るい声で客を出迎え、ヒトミはトレイに水を載せ、注文を取りに行ってしまった。

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