小泉2丁目交差点のトラック王子

 まさか26歳にもなって再び通学することになるとは思わなかった。といっても、生徒ではなく先生としてだけれども。一般教養パンキョーの情報システム課目の講師というとなんだか偉そうな響きだが、ようするにPCの使い方のインストラクターだ。教授陣や助教陣にとっては、なんの面白味も発見も期待できない、”やりたくない課目第1位”だ。


 たまたま大学時代の担当教官を訪ねたところ、「他に適任がいないから」という理由で情シスの授業を押し付けられそうになっていた師匠が、これ幸いとそのまま私に押し付けたのだ。情シス業界の2次下請け・3次下請け、さらにさらにn次下請けの構造がもたらす問題が研究テーマのひとつのくせに、弟子に対して酷い扱いだ。かくして私は週に三日、母校でもある大学に車にて通学することになったのだ。


 1コマ目の授業もあるために、朝の7時には家を出なくてはいけない。学校へと向かう国道は、通勤ラッシュのど真ん中だ。なかなか進まない車列、計ったように赤に変わる信号。寝ぼけた目に容赦なく差し込む太陽。ため息をついて周りを見渡せば、見慣れた車体。


――見慣れた車体。そうなのだ。同じ曜日・同じ時間に通学をすると、周りを走っている車も、信号待ちで対面に止まる車も、どこかで見たことがある顔なじみが増えてくる。"あ、またこの車だ。皆、頑張ってるんだな"と、ふと笑みが浮かんだりもする。


 中には行動パターンなのかバイオリズムなのか、はたまた運命の赤い糸なのか、妙にタイミングが会う車もあったりする。かなりの確率で同じ小泉2丁目の交差点で赤信号で捕まり、気付くと対面にいるトラックのお兄さんがそうだ。向こうも気付いているかどうかは知らないが、私はそのお兄さんの事を、「トラック王子」と呼んでいる。


 トラック王子は毎回、信号に捕まると、1回天を仰ぐ。そしてドリンクホルダーに入れてある飲み物を掴んでひと口あおる。次に下に置いてあるスマホ(※私の想像)にちらりと目をやると、退屈そうに正面に向き直る。時には対面の私の方を見ている、……気がする。

 

 朝日の方向へと向かって走る私は、日よけのドライビンググラスをしているので、目が合うという危険性は無い。少なくとも、私がトラック王子を観察していることはバレないはずだ。トラック王子と良く顔を合わせる事に気づいてからは、私は小泉2丁目交差点の信号で捕まっても、それほどガッカリしなくなった。いや、むしろ、捕まえて欲しいくらいのお楽しみポイントになっていた。


 そんな密かな楽しみを続けていたある日の朝、私は、むしゃくしゃしながら学校へと車を走らせていた。自分の仕事が立て込んでいたのだ。立て込んでいたというか、ぶっちゃけ〆切を過ぎていた。その日の車内は呪いの言葉で埋め尽くされ、私に呪術の心得があれば師匠の命は18回ほど失われていただろう。


 半ばヤケクソの状態で車を走らせていた私だが、その日もキッチリと小泉2丁目交差点で赤信号で捕まった。くさくさしていた私は、トラック王子を確認する気にもなれず、ラジオから流れる懐メロをヤケクソな気持ちで熱唱していた。


 その時流れていたのは、ラッツ&スターの「め組の人」という曲だった。この曲は、サビの「渚まで 噂走るよ めっ☆彡」等の部分で、「めっ☆彡」に合わせて自分の目の辺りに横向きにピースサインを流すという定番の振りがある。ヤケクソになっていた私は、熱唱中にサビに差し掛かると、信号待ちの最中という事も忘れて思いっきり「めっ☆彡」とバチーンとウィンクまでしながらピースをした。


 すると、ピースサインの隙間から恐ろしい光景が見えてしまった。頬杖をついて笑っている人物の姿が覗いたのである。そう、信号向かいのトラック王子だ。私は一瞬で状況を理解した。今、私はとても恥ずかしい事になっている、と。


 同じ時間に通勤しているということは、同じラジオを聞いている可能性もあるという事だ。そして恐らく、同じラッツ&スターを聞いていたトラック王子は、信号待ちの手持無沙汰の間に、車内に聞こえる音楽に合わせて、向かいの車の女がピースしている姿を目撃しているのだ。間違いない、奴はこの曲を歌っている。しかも早朝から全開のテンションで。そう思われている事は確実だ。


 せめてもの救いは、ドライビンググラスをしているので、私がウィンクまでしている事がバレないところだ。いやまて、果たしてそれは救いだろうか。サングラスにも見えるドライビンググラスのおかげで、むしろ私のラッツ&スター指数は高まり、朝から見た目モノマネまで入れ込んで熱唱している痛い女と思われている可能性まである。


 私は逃げ出したかった。しかし目の前は赤信号。後ろには長蛇の車列。だが交通法規を無視しても悔いはない。アクセルを踏み込むのだ。むしろ許してくれるだろう。一瞬そんな考えが浮かんだが、私にはそこまでの勇気が無かった。私にはもう、逃げ場がない。変わったばかりの赤信号が再び青に変わるまで、トラック王子の好奇の視線を浴び続けるしかないのだ。一気に冷えた私の心とは裏腹に、車内には鈴木雅之のソウルフルな声が響き続ける。その時、私は、妙に静かな気持ちになった。そう、ヤケクソの向こう側へ辿り着いたのだ。


 開き直った私は、腕を振るポーズ付きで「め組のひと」を熱唱し始めた。体の向きは、完全にトラック王子向きだ。王子もそれに気づいているらしく、困ったような顔で苦笑している。信号機は依然赤。続行だ。2回目のサビが来て「粋な事件こと起こりそうだぜ めっ☆彡」の部分で、さっき以上に気合を入れてピースを決めたその時だった――。


 ピースサインの向こうには、またも信じられない光景が広がっていた。トラック王子が苦笑しながら、小さくピースを決めてくれていたのだ。なんという王子。思わず私は深々と礼をすると、トラック王子は信号の向かいから拍手を送ってくれていた。そして、さすがの小泉2丁目交差点の信号機も空気を読んだのか、さっと青信号に変わった。


 いつものようにアクセルを踏んでトラック王子とすれ違った私の胸には、謎の充実感が漂っていた。ありがとうトラック王子、ラジオDJ、小泉2丁目交差点信号機、そして師匠。


 その後、思わぬ場所でトラック王子と私は再会する事になるのだが、それはまた別の話――。


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