自宅巡り その四(3):恥じる姿も美しき哉
『史上最壮の自宅警備員』とあだ名された
それは田島にとって、大きな宿命を背負ってこの世に生まれ出でたことに他ならない。
自宅警備員の後継ぎ。その重責もむろん大きい。
が、何よりその肉体美の継承者たる自負が田島の人生を決定づけた。
日々は肉体の鍛錬の為に。日々は筋肉の研鑽の為に。
日々日々一歩でも、あの憧れた肉体に近づきたい。
その渇望こそが田島の原動力だった。
鍛え抜かれた父の姿はいつ見ても美しかった。
正拳を突く姿も、食事をする姿も、寝転がる姿も、用をたす姿ですら。
その全てが美しく、まばゆく見えた。
「どうだッ! どうだッ! 田島、今日も俺の体はキレているかッッ?」
「はい、キレております!」
「ナイスカット?」
「ナイスカット!」
親子の間で交わされるいつものやり取り。
その応酬の中ですらも美しく、高笑いする父の姿はいつか自らも辿り着くはずの遥か高みであった。
違和感を覚えたのは、16歳を迎えた秋。
香美家に伝わる『鏡写し』の修練に励む最中の事。
人体の神秘として広く知られている事だが、肉体を鍛え上げるものは何も過酷な修行ばかりではない。
こうして半裸になって鏡の前に佇み、ポーズを決める。
写し出される自らの筋肉とその先にある理想の筋肉を思い描き、その差をイメージで補う。
人体とは実に不思議なものである。
常識的には無駄と思えるこの行為が、その後の筋肉の育成に大きく差をつけていくのだ。
優れた想像が優れた肉体を作りあげるという皮肉なる現象。
事実、昨今イメージトレーニングという精神運動は、各種業界でも重要視されている事は諸兄もご存知の通りである。
その日も田島は鏡に写る自身の筋肉に理想の筋肉を重ね、想像を熱くしていた。
理想の筋肉とは、言わずもがな父・香美田尻の筋肉である。
連日、欠かすことなく繰り返してきた修行。
しかし、田島は鏡に写る自身の姿に、何か大きな違和感を覚えた。
――――美しくない。
田島の肉体は確かに父・香美田尻の完成された肉体には遠く及ばない。
だがしかし、それはあくまで二人の間にある修練にかけた時間差の問題であり、父の田尻とて田島と同じ年頃にはそれと似た筋肉を身につけていた。
いや、むしろ肉体の完成度で言えば田島の肉体は若き日の父の肉体すら凌駕している。
――――だが、美しくない。
それは価値観の崩壊だった。
田島の世界において筋肉とは即ち、美しさだった。
ところが鏡に写った自身の肉体。その筋肉の醜悪さに、田島は嘔吐した。
美しくない。どころか醜い。
田島は自身の肉体に目眩を覚えるほどの吐き気を催した。
しかしそれでも父の筋肉は変わらず眩しかった。
変わる事のない目標として、燦然と輝き続ける父の筋肉。
故に、これらの不快感は己が未熟と恥じた。
己の鍛錬が足りぬ為だと自戒して、さらなる鍛錬に勤しんだ。
だがダメだった。
肥大し、練りこまれていくほどに己の筋肉は醜い肉の塊としか形容できない。
どれだけ周囲から賞賛されようとも、その価値観が揺らぐことはなかった。
崩れてしまった美意識との摩擦。
それからの香美田島の人生は、醜い自己と向き合い続ける地獄に違いない。
――――田島本人もそう思っていた。
それは田島が成人して間もなくの事。
田島はいつものように、とある河川敷で黄昏ていた。
せめて美しい自然に囲まれていたい、という一心によるものである。
風に揺れる花の美しさ。川の水面に光る川魚の美しさ。
そうした自然の美しさに心癒される瞬間、田島は一時だけ己が境遇を忘れることが出来た。
たとえ、筋骨隆々の不審者がいると近隣住民から何度か通報を受けていたとしても、田島にとってこの憩いの場こそが唯一の逃げ場所であったのだ。
しかし、それも間もなく終わりを告げる。
父である香美田尻が自宅警備員の引退を表明したからである。
そうなれば、後継者である田島は新たなる自宅にこもらなければならない。
そうなれば、こうして自然の風に吹かれることは難しい立場になる。
なればこそ、気分は晴れなかった。
しかし無情にも時は過ぎていく。
夕暮れに染まる河川敷。田島はしぶしぶ慣れ親しんだ風景に別れを告げ、立ち上がった。
そして、そこで運命の出会いを果たした。
――――果たしてしまった。
田島は失意のうちに顔を見上げる。
すると、そこにたまたま下校中の児童の姿が目に入った。
誰でも一度は目にするだろう小学生の集団登下校。
しかし、田島はそこにいた一人の少女に視線が釘付けになってしまった。
どこにでもいる平凡なその少女は朗らかな笑顔のまま。
大きなランドセルを背負って、無邪気に帰り道を駆け回っていた。
どこまでも無邪気に。
汚れなく走り去る少女の姿。
それは田島の知る、何にも勝る美しさ。
いや、それはもはや美しさの結晶とも呼ぶべきものとして光り輝いていた。
田島は、その姿にただただ見惚れていた。
断っておくが、田島は小児性愛者ではない。
事実、田島はその少女の顔のことなど、すぐに忘れ去ってしまった。
田島にとって、少女個人には何の執着もない。
ならば一体、何が彼の心を貫いたのか。
それは、少女という概念そのもの。
触れればたやすく手折られてしまいそうなほどに危うい美しさ。
人が生まれもつ生命力をあらん限りに振りまく自然美に近しい美しさ。
その儚くも尊い存在そのものに魅せられてしまったのである。
それが田島の意識に革命を起こした。
香美田島、夕暮れの河川敷で開眼する。
――――美しさとは、少女と見つけたり。
■ ■ ■
それからしばらくのこと。
晴れて父より自宅警備員の座を継いだ田島であったが、その表情は際立って険しい。
新たな美への目覚めは、同時に新たな苦難の始まりでもあった。
いくら少女が美しくとも、自身はどこまでも筋肉質の青年である。
筋肉ダルマが少女になれるはずもない。
ましてや田島は自宅警備員である。
強くあらねば神州を、自宅を、地鐸を守れない。
強くなる方法は、筋肉をさらに練り上げることしか知らない。
己が宿命と相反する美意識が、田島を新たな苦悩の迷宮へと誘った。
そんな田島の精神の均衡を保ったものは、ささやかな癒しの時であった。
自宅入りの際、田島は周囲に悟られぬよう、一つのダンボールを自宅へと運び込んだ。
その中に入っていたソレは、赤い、赤い、禁忌の果実の色をしていた。
無垢なる赤いランドセル。
その神秘がひとときだけ、田島を美しい「少女」へと変える。
ランドセルを背負い、特注の少女服を身にまとった田島はそこで自身を開放する。
どこまでも美しく、どこまでも朗らかに。どこまでも無邪気である。
そんな美しさの在りようを全身で表現するのだ。
この一時のみ、田島は自身の全てを肯定することが出来たのだ。
誰にも見られぬよう、秘して行われるその儀式は、はたから見れば変態そのものであった。
しかし当人はそのお陰で精神に異常を来す事なく、今も自宅警備員の任を務め上げている。
あるいはすでに精神に異常を来たしているのか。
その境界を断ずる事は如何なる何者を持ってしても不可能であった。
■ ■ ■
そして、その問題のランドセルが今、人目に晒されている。
田島と少年は互いに視線を交わしながら、思わず息を飲んだ。
「…………香美さんって、たしか独身、でしたよね?」
問われて、答えるものはなし。
当たり前である。
はい、私に子供はおりません。
目の前に落ちてきたランドセルは常日頃、私が愛用しているものです。
これを身につけて毎日ウキウキライフを送っております。
などと答えられるはずもない。
田島の額にじわりと脂汗がにじむ。
この生涯未曾有の危機的状況をうまく回避できるほど機転の効くタチではない。
あまりの動揺に、目の前の少年を殺害して一件を闇に葬ろうとする想像すら頭によぎる始末だ。
流石にそれは自宅警備員の矜持によってすぐに破棄されるが、それで事態が好転する訳もない。
田島は声を絞り出すように口を開いた。
「それは…………」
時に、人は追い詰められると自身でも理解できない突飛な行動を取る事がある。
一体全体、どういう思考の巡りがそこに行き着いたのか。
「…………そっ、それはひっ、秘伝の、修練具だ」
田島自身にも理解できない、苦し紛れの言い訳が口から突いて出た。
言った端から田島の顔はみるみる羞恥に歪み、赤みを帯びた顔面からは湯気でも昇る勢いだ。
思わず顔を覆って大声で叫びながら目の前の少年を殴り倒してしまいたい衝動に駆られる。
事実、各自宅警備員の家系には様々な修練に用いる器具が秘伝されている。
それらは肉体のみならず、精神の修練にも多大な効果を発揮し、自宅警備員の強さを支える基盤ともなっている。
そうした秘伝の器具がどこからか漏れ伝わり、主に通販会社によって一般層へと流通してしまっている問題は今も自宅警備関係者の頭を悩ませている。
閑話休題。
しかし香美家には例外的に秘伝の修練具は存在しない。
美しき肉体を支えるものは器具ではなく、その気位である。
「…………修練具」
田島の煩悶を知ってか知らずか、対面の少年はランドセルから目を離さない。
言ってしまったが為にその先に続く言葉が思いつかない田島は黙って少年を見守るしかない。
いっそ殺してくれ。そんな諦めが田島の精神を支配し出した時。
しばらくの沈黙ののち、少年はようやく口を開く。
「…………その修練、自分にもやらせて頂けませんでしょうか?」
史上最強の自宅警備員 -本日も自宅に異常なし- 開蜘蛛 @hirakumo
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