自宅巡り その一(2):香革口伝創世記 72編 第4節より
男が語る夢とは、やはりうどんであった。
自宅警備員はその職務の特色上、二十四時間勤務であり、その報酬は破格である。
自宅を取り囲む、この黄金の海原こそが観音寺の夢だった。
金に糸目をつけず世界中から集めた小麦を栽培して交配。厳選し、曳いて粉にして練り上げる。
そうして世界で最も美しいうどんを自らの手で作り出す。
それが観音寺が自宅を守る理由。それが観音寺がこの自宅で戦い続ける理由なのだ。
「平たく言えば金の為だよ。軽蔑するかい?」
「いえ……」
追従やおべっかなどではない。
常識から考えれば到底、許されるような動機ではない。
しかし、男は底に卑しさを感じさせぬ不思議な威風があった。
何より屈託がない。まるでその身が示すように、一点の曇りなき純白の意思が観音寺の中で光り輝いているのだ。
「あと、君はまだ勘違いしてるようだけど、僕の強さは別に厳しい修練によって手に入れたものじゃないよ」
「……どういう意味です?」
「厳しくもなければ修行でもない。僕にとって楽しい楽しい『あの時間』こそが、今の僕の体を形作っているんだ」
継嗣は改めて観音寺の体つきに目をやった。
両腕、両脚、共に濃い陰影を伴う筋骨が盛り上がり、厚い胸板は今こうして座っているだけでも周囲の空間を威圧している。
それは一朝一夕で容易く出来上がるような肉体ではない。
継嗣の疑いの目が面白かったのか、観音寺はさらに無機質めいた白い唇を歪めて笑った。
「僕は自分の体を鍛えようとは思わない。ただし一日として欠かした事がないのさ。――――うどん作りをね」
うどんを作る事により得られた強固なる肉体。
うどんを練る事により練り上げられた肉体。
そんな事があり得るのか。継嗣は半信半疑ながら昔、耳にしたある逸話を思い出していた。
■ ■ ■
それはとあるうどん屋を営む女の話であった。
女は毎日、欠かす事なく店の営業を続け、毎日うどんをこねて暮らす働き者だった。
ある日の事。店の常連がいつも元気な女をからかって、たまたま店に持ち込んだ握力計を戯れに握らせてみた。
ところが、握力計が示した数字――――握力50kg超。
成人男性の平均にも勝る握力を、その女の細い腕が叩き出したのである。
さらに驚くべき事に、測定当時の女性の年齢、なんと御年89歳。
それから三年後、女は老衰で倒れるその日まで店の営業を続け、静かに息を引き取った。
■ ■ ■
これはあくまで、ただの一般人の話である。
ましてや自宅警備の血族が四六時中、うどんと格闘すればどうなるのか。
その答えが継嗣の目の前に鎮座していた。
「あの技――『吸引』にしてもそうだよ」
「まさか」
「そのまさか、さ。うどんを毎日すすっていれば、あのくらいの事は誰でも出来るようになる」
なる訳がない。
継嗣は心で突っ込みながら、しかし観音寺がただ嘘をついている訳ではない事は理解できた。
うどんを食べ続ける事で得た異能。それだけは揺るがぬ事実としてこの男の中に息づいている。
「なるほど。よく分かりました」
これでは地鐸を軽視するはずである。
何しろ、この男は地鐸がもたらすとされている奇跡を一切信じていないのだ。
むしろ、この男に恵みをもたらしているのは他の何者でもなく。
「つまり、貴方は地鐸よりもうどんの方が大事だと言いたいんですね」
「そういう事」
ようやく意思が通じたと見て、観音寺は満足そうに太い息を吐いた。
「むしろ僕は君たちこそ、うどんを軽視しすぎていると思っている。継嗣くん、君はうどんに申し訳ないと思わないのかい」
「うどんに、ですか?」
継嗣は懐にあるうどんに目をやった。
夏の盛りであると言うのに、今なお熱々と湯気を昇らせてその芳香を鼻に届けてくれている。たまらずすする。
やはり味は格別である。
「うどんはどこまでいっても、うどんだと思うのですが」
味は味として、しかしこれにどれだけ心を砕いたところで、うどんは只のうどんでしかない。
継嗣にはコレが地鐸よりも上に存在するという観音寺の価値観がどうしても理解できなかった。
「うーん。こればっかりは言葉で説明しにくいんだよね」
「どう考えても地鐸の方が重要ですよ。歴史の重みも違いますし……」
「歴史? ……あー、あー!」
観音寺は気でも触れたように叫び出すと、真っ白な膝を叩いた。
何に気付いたのか。そうか。そうか。そうか。と念仏のように唱える姿は少々怖い。
「分かったよ継嗣くん。さては君、うどんの発祥を知らないんだな?」
「うどんの、発祥?」
うどんとは、どこからもたらされたものなのか。
それを知らずして観音寺と同じステージに立つ事は難しいのかもしれない。
継嗣はまず己の無知を詫びた。
「すいません。勉強不足でした」
「いやいや、良いんだよ。他圏の、しかも学生さんが易々と知れる類いの知識ではないからね」
継嗣も根が真面目なので勉強自体、嫌いではない。
むしろ自身に欠けているものを補いたいあまりに、どんな知識でも貪欲に求める向きがある。
継嗣は素直に教えを乞うた。
「是非、教えていただけませんか?」
その姿勢が嬉しかったのか。観音寺はこれまでで一番の上機嫌で語りを始めた。
無論、その腕にはうどんを抱いたままである。
愛おしそうにうどんを一本すすりながら、観音寺は真剣な表情で言った。
「――――これは遥か大昔、人類がまだ火を扱う事すら覚えていない太古の話だ」
語り出しから予想以上のスケールだった。
民間伝承を聞くくらいの心構えだった継嗣はすぐに猛省し、態度を改める。
「宇宙からひとつの隕石が飛来した。その隕石についていた種子。――――それは皆がよく知る小麦だったんだ」
その言葉に継嗣はにわかに興奮した。
まさか全世界に分布する小麦の正体が宇宙からもたらされた物だったなどと、そんな話は初めて耳にしたからである。
「そして大地に降りた小麦は実り、世界各地に広がっていった。――――そして奇跡が起きた」
この時、継嗣は自身の知識と観音寺が語る物語をすり合わせて先の展開を予想していた。
おそらく小麦を手にした人類が石で麦を曳く事を覚え、その粉を水でこねて保存食にした。この辺りがうどん発祥の妥当な線だろうと考えていた。
そうなれば確かに歴史は古い。
地鐸の伝承は継嗣の知る範囲でも有史以来であったはずだから、うどんの方が歴史の重みがあると言い切れなくはない。
だが、物語は継嗣の予想を遥かに超えていく。
「ある時、小麦の上に岩が落ち、その衝撃で小麦粉が産まれた。小麦粉はわずかな海水と結びつき、風で転がされて練り上げられる。そこへたまたま通りがかった野生動物によって踏まれ、コシが産まれた。そして再び風に運ばれ大空へ。その過程で鳥についばまれて裁断され細い麺が出来上がった!」
――――これは、おかしい。
継嗣が気付いた頃には時すでに遅く、観音寺の弁舌は絶好調を迎えていた。
「そして出来上がった麺は偶然にも岩のくぼみにはまると、そこには様々な海、山の幸が同様に風に運ばれて収まった! そして祝福の雨きたる! ありとあらゆる滋養が理想的なうどんつゆとなり、陽に照らされるごとに温度を上げ、調和していく! 香しき湯気! 匂い立つ芳香! その香りに誘われてやってきたのは人類だった!!」
これは違う。何か違う。
求めていた知識は、これじゃない。
「――――こうして人類は、うどんと出会った」
満足げに語り終えた観音寺の両目からは感動の涙が溢れ出ていた。
崇高な神話を語る殉教者さながらに。いや、事実、殉教者そのものなのだろう。
狂信者のみが味わう陶酔。その絶頂に至った観音寺とは裏腹に、継嗣はいよいよ限界を迎えつつあった。
「……観音寺さん」
「ああ、すまない。どうだった?」
法悦の涙を拭いながら、観音寺は既に一仕事終えたような顔をしている。
これで分かってくれたかな。とでも言いたげに期待を孕んだ目つきで先程の与太話の感想を尋ねてくるのだ。
「今、俺は怒っています」
「………………なんで?」
どうやら本気で、なぜ憤慨しているのかも理解できないらしい。
呆れを通り越し、継嗣は一瞬でもこの虚言を真に受けた自分に腹が立ってきた。
「なんでも何も……今の話、本気で言ってるんですか?」
「本気も本気。大真面目だよ」
「だったら言わせてもらいますが、そんな事起こるはずがない――」
「――――起こる!」
継嗣、激怒の叫びをかき消す、太い太い大音声。
それを至近距離で浴びた継嗣はくらりと目眩がしたが、かろうじて舌を噛み、意識を保つ事が出来た。
いまだ耳鳴りが残るが、それでも観音寺の続きの言葉が聞こえたので鼓膜は無事なようだった。
「というよりも、起きたんだよ」
まるで見てきたように男は語る。
神話でも寓話でもおとぎ話でもなく。観音寺は真実としてうどん発祥の瞬間を信じ切っているようだった。
「継嗣くん、君はこんな話を知っているかい? 地球が産まれる確率だ」
「……何の話です?」
「だから、地球だよ。この広大な、いや膨大な宇宙に地球が誕生する確率だ」
また突拍子もない事を言い出したと言わんばかりの継嗣の視線を悟ったのか。
反論が飛んでくる前に観音寺はまくしたてる。
「僕はそういった方面に詳しい方じゃないから確かな事は分からないけれど、とある学者に言わせるところ、宇宙に地球が産まれる確率とは25mプールに分解した時計の部品を投げ込み、それを水の流れだけで元の時計の形に組み上げる奇跡と同じ確率なんだそうだ」
「……つまり、うどんも同じ奇跡が起きたと?」
「その通り」
揺るがぬ自信。揺るがぬ信念。
先程まで地鐸に対する疑念を投げかけていた人物と、とても同一とは思えない。
「見てきたようにおっしゃいますけど、その、うどん発祥。なにか記録でも残ってるんですか?」
「おいおい継嗣くん。さっきも言っただろう。人類が炎を手にする前の話だよ? 記録なんて残ってる訳ないじゃないか。馬鹿だなぁ」
馬鹿はお前だ。このうどん馬鹿。
継嗣はかろうじてノドから出かかった罵声を飲み込んだ。
「……なら何故、そんなに自信満々に信じてるんですか?」
「それはうどんだからだよ。……想像してごらん。初めてうどんを食べたんだ。その衝撃は天地創造にも勝る衝撃だったろうさ。その時、遺伝子に刻まれた記憶が今も口伝として伝え残っているんだなぁ」
「…………はぁ」
継嗣はようやくこれ以上の質問が無駄である事を悟った。
信仰とは理屈ではない。たとえ間尺が合わない話であっても当人がそれを正しいと感じたなら、それはもはや真実なのだ。
それこそ観音寺の言葉ではないが、その信仰は遺伝子に刻まれている。
いくら理を唱えたところで、その言葉は右から左へ吹き抜けていくのが関の山だった。
継嗣は再び視線を懐に落として、お椀を見た。
箸で手繰ると、どうやら麺が尽きたらしい。名残惜しさを感じながら継嗣は残ったうどんつゆをすすって完食した。
すると、それに合わせたように観音寺のうどんも尽きたらしい。床に置かれたお椀はどちらも空になっていた。
「さて、そろそろかな」
唇をぺろり舐めながら、観音寺が独り言ちた。
それは明らかにうどんの完食に合わせての発言だった。継嗣は不思議に思い、言葉の意味を質そうとした。
だが、その質疑が言葉として発せられる事はなかった。
突然だが、人の顔面には様々な穴がある。
それは目であり、鼻であり、耳であり、口であり、その全てが内臓器官に繋がって出来ている。
「――――ぐぷっ!」
その穴の全てから血が噴出した。
観音寺はぶるり身を震わせると、奇声を上げながら穴という穴から血を噴き出して倒れたのである。
その純白の肉体を鮮血に染めながら床に倒れ込むと、そのままぴくりとも動かない。
いくら剛胆とはいえ、いまだ未成年。
その返り血を浴びて、継嗣は腹の底から湧き上がる悲鳴を抑えきれなかった。
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