第13話(前):兄よ! 自宅警備員!
『兄弟』とは、何であるか?
兄弟とは、同じ親を戴き、共に育まれてきた雛鳥の事である。
兄弟とは、同じ家に生き、共に人生を歩んできた同行者の事である。
世には血の繋がりをもたぬ兄弟が存在する。
彼らは同じ釜の飯を分け合い、同じ部屋を分け合い、同じ時を分け合って生きている。
そして夫婦にも血の繋がりがないように、「家族」とは血の繋がりのみを表す言葉ではない。
では、彼らを繋ぐものとは何なのか?
その繋がりを求め、今、ぶつかり合う男たち。
――人は彼らを、自宅警備員と呼ぶ。
■ ■ ■
かつて戦後間もなく、平和な時代の訪れとともに世の風紀が千々に乱れた時期があった。
平和の来訪、真にけっこう。
しかし、若き男女が天下の往来で唇を交わすその光景に、世の人々は口には出せぬ不快感を隠しきれずにいた。
そんな時節、世が求めたように一人の若者が姿を現す。
ただれた時代に憤怒した彼は、風紀の乱れた世を粛正すべく、神州全国に出没し、その豪腕を振るった。
風紀を乱すカップルに暴力を振るった訳ではない。その標的となったのは、あくまで無機物である『壁』。
その青年は道々で迷惑をかけるカップルを見つけるや、無言で近くにある壁を叩き、殴り、あるいは壊して、その怒りを表現した。
怒りとは彼だけの物ではない。周囲に限らず、世に渦巻くありとあらゆる義憤をそうして形に表したに過ぎなかった。
事実、カップルを絶句させ追い払うと、決まって彼の周囲には拍手喝采が巻き起こったと云う。
かくして神州全土で壁を殴り続けた彼を、人々はいつしか奇妙な名前で呼ぶようになった。
我らの怒りの代行者――――壁殴り代行、と。
彼の活躍によって神州の風紀は正され、人前で情事を交わそうとする愚か者はいっさい残らず撲滅された。
そんな時期と同じくして、壁殴り代行は人々の前から姿を消す。
一体、彼は何者だったのだろうか。
世人は疑問を口にしながら、いつしかその存在を雑踏の中に忘れていった。
壁殴り代行こと、本名・
何を隠そう、彼こそがのちの守宮五代目自宅警備員その人であった。
啓来のお陰で神州全土の秩序は保たれた。
しかし、みだりに人前で守宮の術を晒すべきではないとする血族の掟は、彼を自宅警備員の座から遠ざける。
このままでは継承権を失いかねない義憤の若者。
それを見かねた他圏の自宅警備員から守宮家へと次々に推薦状が舞い込み、啓来は無事、自宅警備員候補の座に返り咲くと、その豪腕を東都圏の平和の為に振るう事となる。
そんな異色の経歴を持つ男が、守宮流に遺し、伝えてきた技がある。
守宮家の秘奥が一、『
自宅警備員の全身にみなぎる自宅大気を呼気とともに圧縮し、それを拳に乗せたまま壁を殴る。
すると圧縮された大気は壁をすり抜け、壁自体をいっさい傷つける事なく、その向こう側にのみ衝撃を貫通させ、相手を破砕するのである。
その際、壁が鳴る奇妙な現象も合わせ、『過部殴太鼓』と銘打たれたその技は、今も自宅警備員の家系にのみ伝えられている。
「罪を
時は現代。奇しくも守宮啓来と同じ、一度は掟を破って放逐されかけた若者が今、その拳を振るおうとしていた。
彼は今、先祖の英霊に見守られ、自宅に巣食う敵を討つ覚悟も新たに必殺の一撃を見舞う。
『過部殴太鼓』
その雄々しき響きが始まりの戦太鼓。
今宵は月なき熱帯夜。
壁が奏でる奇妙な太鼓音が東都の闇夜に響き渡る。
■ ■ ■
「ナニッ? なんの音〜!?」
男が意識を取り戻せたのは、女の金切り声があまりにも耳障りなお陰だった。
突如として後頭部に打撃を受け、意識が数秒ほど途切れていたが、それがなければそのまま深く無意識に落ちていた事だろう。
千載一遇の幸運に感謝しつつ、男――
そこにあったのは白い部屋壁。
一見して何の変哲もないコンクリート壁だが、その内側から奇妙な音が響くと共に、まるで革張りの鼓面のように振動していた。
奇妙に波打つ壁を、社樹は忌々しげに睨みつける。
「……クソがッ!」
あの兄が攻撃に転じてきたのだ。
隣の部屋にいる兄が何をしているのか、その姿を目視する事は叶わない。
しかし、聴覚が異常発達した自宅警備員の血筋の者からすれば一目瞭然、否、一聴瞭然。
耳をそばだてれば、おぼろげながら壁に向かって拳を突き立てる兄の姿が浮かび上がる。
兄の構えは、まさしく守宮が奥義の一つ、『過部殴太鼓』を放ったあとの残心である。
突然の強襲に混乱しながら、しかし、社樹は少しの間、その姿に見とれ、感心してしまっていた。
今夜、社樹は一般人である女をこの場に介入させる事で、血族の掟によって自宅警備員の技を全て封じるつもりでいた。
事実、この妙手によってあの当代現役の自宅警備員である兄を完全に封殺できていた。
このまま容易く大願成就に行き着くなど、社樹とてそこまで甘く見通してはいなかったが、それでもこの技を繰り出してくるとは予想外だった。
かつて義父からこの技を見せられた時、はっきりいって何のために存在する技なのか、理解できなかった。
壁を壊さず、その向こうにいる人間を攻撃する?
そんな回りくどい方法よりも、壁ごと向こうにいる人間を殴り殺してしまえば済む話である。
しかし、今、兄が見せた『過部殴太鼓』は、まさに守宮の実戦における理にかなった技であった。
壁越しに攻撃すれば守宮の技を見咎められる事はなく、対象となる敵だけを混乱のうちに倒す事が出来る。
それに気付いた途端、社樹の身体がぶるり震えた。
かろうじて防御が間に合ったからいいものの、さきほどの一撃は正しく必殺。
数瞬の遅れをとっていれば、そのまま冥府に旅立っていた可能性が高い。
殺す気だった。
守宮の技能はつきつめれば殺人術。
そこには家族の
震え鳴る歯を無理矢理に噛みしめて、社樹は奥歯を
――――そこまで俺が目障りなのかよ。
あと少し、あと少しで社樹の悲願は叶うはずだった。
ところが指先まで届きかけた夢は、兄の無粋な一撃によって阻まれてしまったのだ。
その憤りが今度は口の端から流れる血となって唇を湿らせる。
目を凝らさねば隣にいる相手の顔すら見えない墨の夜であるのに、なぜか目尻に浮かんだ涙だけ、闇の中でにわかに輝き、散っていった。
「ねえ〜、やっくん! これ何の音なん!? みか、うるさい!」
ところが隣の女はそんな男の機微などは気にも留めず、いっそう品のない声でわめきちらしていた。
姿の見えぬ闇夜であれば、なおさら豚の鳴き声にも聞こえる悲鳴は何の皮肉だろうか。
「……あっ、ごめ〜ん、みかたん。なんか兄貴が壁殴ってきたみたいでさぁ……」
けたたましさに我に返ると、社樹は声のする方に振り向いて、今度は気の抜けたような猫なで声で女の機嫌を窺った。
今、この場で女にへそを曲げられては困る。
わざわざ不浄の園たるテニサーに足を沈めてまで、みつくろってきた女だった。
ここで逃げられては元も子もない。社樹は急いで女の機嫌を取りはからう言葉を紡ぎださねばならなかった。
付け焼き刃ながら軽薄な社交術はすでに身について、脳裏に浮沈する美辞麗句を彼らの言語に変換していく難儀な頭脳作業はもはやお手の物だった。
「マジごめん。ちょっと今、兄貴、黙らせっから、あッ!」
ところが、脳裏に踊る数百もの文字がひとたびに弾け飛ぶ。
またしても兄の見えざる容赦なき一撃が、社樹の後頭部を襲ったのである。
しかし、今度は意識を手放さずに済んだ。
寸でのところで気を張り、相手の拳撃を頭部の回転運動で反らす。
首ごと持っていかれるような衝撃に頭板状筋が悲鳴をあげて、それでもなお耐える事が出来たのは、ひとえに社樹の才あってこそである。
一瞬の攻防に見られる才能のきらめき。
その動きはかつて麒麟児と呼ばれた男の資質が、けっして嘘ではなかった事を証明していた。
だが、それでも。
やはり致命的に実戦経験が足りない。一度攻撃を仕掛けてきた相手に背を向ける愚かしさ。
「……あ〜、もう! うるさい、うるさい!」
「ああ、みかたん、ちょっと黙っ……」
背後の女が再び悲鳴をあげ、それをあやすため、今また再び、壁に背を向ける愚行。
その隙を壁向こうの自宅警備員が見逃すはずもなく、鉄槌とも呼ぶべき容赦なき一撃が社樹の頭部に襲い来る。
次の瞬間、社樹の意識がちりぢりに弾け飛んだ。
■ ■ ■
意識は白い花吹雪の波間にあって、たえず揺れているような心地がした。
その隙間を縫うように、かつて自らが歩んできた人生が、まるで走馬灯のように駆け抜けていく。
その人の名前は、物心がつく前から聞かされていた気がした。
少女の口から繰り返し、繰り返し、語り聞かされるその名前に、強い憧れを抱いてしまう事は至極、当然の流れだった。
あの時にしても、その人が過ちを犯したと聞いて、初めに感じたのは強い憤りだった。
自宅警備員として間違ってはいても、けっして人としての道を誤った訳ではない。
誰かを好きになり、その為に自らの一切をかなぐり捨てる。
それはおそらく自分が一生持つ事が出来ない、輝ける何かであると幼心に直感し、軽蔑する気持ちなどは一切、湧こうはずもなかった。
初めて出会ったあの時にしてもそうだった。
夢物語に聞いていた英雄がついに本から飛び出してきたように、伝え聞かされた姿に寸分違わぬその人に、声も発せず驚喜した。
いくら冷たくあしらわれたところで、胸の内から湧き上がる熱い思いはけっして冷める事はなかった。
そんな日々の合間、初めて家族以外で『好き』になった女の子が出来た。
しかし、彼女は『ダメ』だった。
恋路を阻んだものは、自宅警備員、血族の『掟』だった。
初恋にも関わらず、形にする事すら許されない苦しみ。
そして、この苦しみから解き放たれるべく行動した、あの人はまさしく英雄に違いない事を、ようやく自身の心身でもって理解する事が出来た。
しかし、そんな悲しみも三日三晩、泣き暮れて、翌日にはけろりと忘れる事にした。
自分はあの人のようにはなれない。そんな諦めにも似た心境が心の切り替えを容易にしていた。
心の重みを誤摩化すように日々を過ごすうち、ついにあの日がやって来た。
思いがけぬ方法で元ある栄誉を取り戻したその人は、この世の何よりも輝いて見えた。
それによって己の継承権が消えてなくなる事などはもはやどうでもよく、この輝きの一端にでも己が関われた事に強い誇りすら感じていた。
喜びを全身で表現して、それでも身体から吹き出るような歓喜に、その身をよじらせる。
その喜びは、まるで永遠のようにも思え、幼くも愚かにも、いつまでもいつまでも続くのだと、その時ばかりは固く信じていた。
その人が自宅を去ってから少しして、再び『好き』になった女が出来た。
以前と違い、ままごとのような恋心とは比べ物にならない衝動に身が焦げていくようだった。
これは運命の出会いに違いない。自分はこの女と添い遂げ、骨になるまで共に歩んでいく。
ところが、そんな夢を打ち砕いたのはまたしても血族の『掟』だった。
義父からその事実を聞かされ、世のあまりの無情さに魂までも抜け落ちていくようだった。
そんな悲しみを三日三晩で忘れられるはずもなく、涙に暮れる日々の中、思い浮かんだのはやはりあの人の事だった。
あの人のようになれば、自らの全てを質草にしてしまえば、あの子と添い遂げる事が出来るのだろうか。
しかし、そんな無茶が出来ない人間である事は、自分自身がよく知っていた。
英雄と比較して、どこまでも矮小な自分に吐き気を催すほど嫌悪をしだしたのもその頃だった。
それからワラにもすがるような思いで、自宅警備員の掟について調べ始めた。
かつて一度は『掟』を破り、それでも再び返り咲いたあの人のように、どこかに突破口があるのではないか。
活路を求め、掟をまとめた冊子に向き合い、飛び込んだ知識の渦。
しかし、それが地獄への入り口だったなどとは、血気に逸っていたあの頃には分かるはずもなかった。
どこまで目を凝らしても、どこまで読みあさっても、掟には一分の隙すら見当たらない。
掟。掟。掟。掟。掟。掟。掟。掟。
果てしなく続く文字の螺旋に落ちていくように、『掟』を紐解けば紐解くほど、自身の境遇ががんじがらめである事に気付かされる。
調べれば調べるほど、彼女と自分の間にそびえ立つ、巨大な壁の存在をまざまざと見せつけられる思いだった。
もはや多くは求めない。高望みを捨てたのも、ちょうどその頃だった。
恋いこがれた女の事を忘れようとして数ヶ月が経った。
高尚な愛はいらない。人生の伴もいらない。肉体の繋がりだけを欲し、向こうから言い寄ってきた女を受け入れる事にした。
しかし、そこでもさらに『掟』が立ちふさがった。
こうなっては怒りも悲しみすらも湧かない。もはや作業をこなすように女に別れを告げると、ついに自室に閉じこもるようになった。
日課と化した『掟』を調べる作業も、とうとう分厚い頁も尽きかけて自宅警備員にのみ適用される分野に足を踏み入れていた。
ところが、何を得るでもなしに惰性で紙片をめくっていくうち、明かされていく真実に顔が強張っていく。
あの日、あの人は確かにこう言った。
――――自宅警備員と副自宅警備員の間にさして差があるでもなし。
そして、あの人はこうも言っていたはずだ。
――――俺たちはやっと『対等』になれた気がする。
言われて狂喜乱舞した。
そんな自分に怒りが湧き、またどうしようもなく哀れに思えてきた。
自宅警備員と副自宅警備員。二つに差は無し。
そう言ったあの人の言葉とは、相反する事実がそこには記されていた。
手元においていた酒瓶を一息に飲み干し、今一度、そこに記された文章を吟味していく。
それが間違いであってくれ、それが嘘であってくれと願いながら、紙片をめくっていく。
しかし、やはりそこには確かに自宅警備員と副自宅警備員の明確な格差を書き記してあった。
なにが『掟』か。
なにが『対等』か。
そこに居並ぶ文字の壁は、確固として頑丈に両者の間を隔てている。
なにが『自宅警備員』か。
なにが『兄弟』か。
己を取り巻く何もかもが、忌々しくて仕方がない。
奇しくも胸の奥からは、あの人と同じ勇気が湧いてきた。
自らの全てを賭してでも、叶えたい夢がある。
だが、その夢をただ叶えるだけでは己の人生が報われない。
守宮も、掟も、あの人も。
己を縛る全てに反逆し、その上で悲願を果たしてこそ、己の人生が意味あるものとして輝き始める。
それを復讐と呼んでしまえば。
たちまち産まれて初めてあの人に向けるその感情に身が焦げるようだった。
――――許さんぞ。兄様。――――否、糞兄貴。許さぬ。守宮継嗣。
白々とした記憶の風景が赤く濁り、黒ずんでいく。
いつしかまとわりついていた赤い鎖を千切り、そこで意識が覚醒した。
■ ■ ■
あれからどれだけ意識を失っていたか。数分のような気もするし、数秒のような気もする。
たちまち口いっぱいに血液特有の鉄臭い味が広がっていく。意識はいまだ混濁し、酩酊したかのごとく足下がおぼつかない。
それでも社樹が戻って来れたのは、血液のように全身を駆け巡る、復讐心あったればこそだった。
「糞がっ! 糞兄貴! てめえだけはっ!」
悪意をまき散らしながら、社樹は暗闇の中、壁に立ち向かった。
後ろではいまだに女が何事かをわめき散らしているが、もはやそんなものは耳に届きはしない。
腰を落として大きく構え、血気に逸る呼吸を整える。
かつて守宮に関わる全ての人間が、この男の才能を認め、こう呼んでいた。
守宮の天才児。守宮の麒麟児。
その様は今ではみずぼらしく、その才は今では見る影もなく、その姿は今では凡夫そのものであった。
しかし、世に『三つ子の魂百まで』と云う言葉がある。
幼き日に叩き込まれた守宮の秘奥は潰える事なく、やはり社樹もまた自宅警備員に連なる家系の者。
壁を隔てて、その姿は映し鏡の如く。
兄と同じ構えを取った社樹は、やはり兄の動きをなぞるようにしてその一打を繰り出した。
――守宮家秘奥義【守宮流警備術・
二人を隔てる壁を通り抜け、その一撃は確かに、壁向こうにいる兄・守宮継嗣の頭部に炸裂した。
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