第13話(中):弟よ! 自宅警備員!

 人には生まれながらにして受け継がれる「気質」というものがある。

 それは逃れようのない宿命にも似て、東都とうと圏自宅警備員を歴任する守宮の一族には生来、血が沸き易いという厄介なたちがあった。


 それは初代自宅警備員を務めた守宮創冠やもり そうかんとて例外ではなく、己の気性の激しさに度々、頭を悩まされていたのだと云う。

 いっさいを滅ぼすのであればそれも良い。いっさいを破壊するのであればそれでも良い。

 しかし、自宅警備員とは即ち、『守る者』である。


 その気性はかせになりこそすれ、けっして為にはなるまいと直感した守宮創冠は、むしろ精神の修行こそ重視し、己が心の鍛錬に苦心した。

 無敵の肉体を持ちながら、それゆえに精神の涵養かんように時間をかけて 幾星霜いくせいそう

 そして、開祖はついに極致へと至る。


 その領域へと足を踏み入れた途端、脈打つ鼓動の音も消え、赤く濁って見えた景色がふいに雪景色にも似た白きものへと様変わりしていた。

 時間も空間も意識のかなたに置き去って、確固たる自己と相対する敵のみがそこにある。

 感情がせめぎ合い、燃え盛り遠ざかる客観と、冷静に敵と肉薄する主観が同一して、その世界は完成していた。


 堂と勢の均衡。洞と精の両立。動と静を矛盾なく混在させる、その感覚。

 修行の果て、前人未踏の心域に至った守宮創冠は、のちに自著にてこう書き記す。


 ――――その領域は、びっくりするほど『驚天楽園ユートピア』であった、と。 




 ■  ■  ■


 


 守宮家秘奥義【守宮流警備術・過部殴太鼓かべなぐりだいこ】。

 自宅を、ひいては自宅警備員を守るはずの秘技が、今、皮肉にもその身に牙を剥く。


 放たれた『自宅大気』とは、およそ柔らかく漠然として、それでいて飛来する鋼鉄のような重みと衝撃を伴うものであると云う。

 不意打ちに近い形で放たれたそれは、壁から放たれると一直線。

 守宮継嗣やもり つぎつぐの顔面に直撃すると、えぐり取るような鈍い衝撃音とともに闇夜に弾け、赤々とした血の珠が宙を舞った。


 常人ならば首ごともぎ取られてもおかしくはない、見事な一撃。

 いかに錆び朽ちた刀であれ、その芯中には未だ白々とした鋼が眠っているに違いない。

 かつて麒麟児と謳われた天才、の成れの果て――――義弟・守宮社樹やもり やしきがその片鱗を垣間見せたのだ。

 

 しかし、そんな一撃を受けて継嗣は揺るぎもしない。どころか、壁に向かって今一歩。

 白壁に己の返り血をびたびた浴びせながら、壁に反撃の一手を打ち鳴らす。

 

「――――【守宮流警備術・過部殴太鼓かべなぐりだいこ】!」


 数瞬遅れて、今度は壁向こうから社樹の短い悲鳴が漏れ聞こえる。

 さらにもう一打。

 私心なき一個の戦士として、その拳に自宅警備員の使命のみを乗せ、撃ち放つ。


「――――【守宮流警備術・過部殴太鼓かべなぐりだいこ】ォ!」


 壁が高鳴り、とどめの一打。

 無骨な拳より弾き出された大気は、何よりも正確無比に敵の頭部めがけて空走った。

 社樹の頭部を捉えた自宅大気が、壁越しに重く鈍い音を響かせる。

 

 ――――決まった。

 そのとき、継嗣は決着を確信した。

 必殺の一撃である『過部殴太鼓』、その三連撃。これを食らってしまえばひとたまりもない。


 しかし、予想より見事な反撃に対し、いたずらに拳を振るってしまった感も否めない。

 軟弱者の制裁には、いささか度が過ぎる攻撃だったかもしれない。

 断末魔の悲鳴もなく、予想していたよりも過剰な手応えにバツの悪さを感じない訳でもなかった。


 継嗣は一抹の仏心をにじませると、固く握った拳の力を解く。――――だが、その隙。

 その合間を縫うように、今度は継嗣の鼻頭が壁から突如、噴き出してきた自宅大気に圧し潰された。

 

 驚きで鼻から息を吹き出すと、赤く濁った血の味が口一杯に広がっていく。

 強烈な一撃が今、死神の鎌となって継嗣の意識を切り落とさんとしていた。


 ――――ありえない。


 赤錆た鉄を食んだような息苦しさを味わいながら、継嗣はその動揺を隠しきれずにいた。

 まず驚かされたのは、その着弾箇所である。

 社樹が放った自宅大気は、確かに継嗣の鼻の頭に直撃していた。


 鼻とは顔面の中心部であり、人体の急所でもある。

 また鼻の付近には他にも人体の急所となる箇所が数多く存在し、鼻のみならず、眉間、ノド、心臓、鳩尾、金的など、人体の中心部には危険箇所が連なっており、それらを繋いだ一つの線を指して、「正中線」と呼んだ。

 

 人類の格闘史を紐解くと、時代の古今や洋の東西を問わず、ありとあらゆる武術において、まずこの「正中線」を隠す事こそが構えの第一項となっていた。

 守宮流とてその例に漏れず、継嗣は習慣としてほぼ無意識のうち横半身に構え、この危険な線を敵の視線から隠していたはずであった。

 ほんのわずかな攻撃の隙間。――――打撃の瞬間のみを除いては。



 一打目はまだいい。不意打ちに近い形で食らってしまったという理屈が無い訳でもなく、油断と斬り捨ててしまえば、それまでの事であった。

 しかし、今、継嗣の身を打ち抜いた一撃はその理屈の外にある。

 

 『過部殴太鼓』とはその名が示す通り、壁を殴る技である。

 だが、実際にはその大気が拳を伝って一息に壁を貫通している訳ではない。

 拳から放出された自宅大気を壁の隅々にまで浸透させ、そこから共振させる事によって再び大気を圧縮し、一つ弾として壁向こうへと撃ち出すのである。

 

 その為、この絶技を可能とするには拳を壁に打ち据えたまま、数秒の停止行動。――――いわゆる『残心』が要となる。

 すばやく一打転身とはいかず、そこには壁に向き合ったまま、無防備に正中線を晒すわずかな隙が、確かに存在していた。


 だが、両者互いに使う技は同じ、『過部殴太鼓』。

 その時間差は技量などで埋まるものではなく、先に撃ち出した継嗣にこそ時の利があるはずであった。

 

 後発の『過部殴太鼓』でその隙を狙うならば、自身もまた無防備に正中線を晒したまま、相手の一撃を真正面から受け止める必要がある。

 『過部殴太鼓』の三連撃――――を、である。そんな事をすれば致命傷は避けられない。

 だが、壁の向こうにいる義弟は、捨身の覚悟でもって、それを成し遂げたのだった。


 『過部殴太鼓』の同時着弾。 

 起こりえる筈のない状況を招き寄せたのは、紛れもなく、義弟の決死の覚悟。

 

 それは継嗣の想定を超える事態であった。

 所詮は軟弱者は二、三発こづいてやれば尻尾を巻いて逃げ出すというのが継嗣の見立てであり、心持ちで言ってしまえば『成敗』する程度の覚悟で事に臨んでいた。

 だが、その勘違いは事ここに至っては致命的なものとなってしまった。

 

 相対する敵は、あの可愛らしい義弟でも軽はずみに浮ついたチャラ男でもない。

 その実は自宅警備員と伍する者。

 神州の影柱である、副自宅警備員だったのだ。


 覚悟が足りなかったのは、どちらなのか。

 気付いた途端、ひざから力が抜け落ちていくような感覚を覚えた。

 

 なぜ、この壁の向こうにいる男はそれほどまでの覚悟を有する事が出来たのか。

 継嗣には分からない。問いが浮かんでも、そこに辿り着くまでの思考がもはやおぼつかないのである。

 目の前にあるはずの壁が遠く、握りしめた拳はまるで他人のものであるかのように現実感に欠けていく。

 

 徐々に身体が傾いて、あとは一呼吸。

 気を抜いてしまえば、そのまま意識を手放してしまいそうな浮遊感が身体を支配していく。


 ――――ふざけるな。

 それでも継嗣が倒れないのは、ひとえに己の矜持の為である。

 敵が副自宅警備員であるならば、自身もまた神州を守護する自宅警備員。

 その強烈な自意識と美意識が、先程の攻撃など、まるで存在しなかったように振る舞う事を可能としていた。


 ――――俺ひとり寝転がる事なぞ許されるはずがない。

 壁向こうにいる社樹とて、相打ち覚悟の一撃を放って、それでもなお、いまだ戦意を損なわず立っているのだ。

 それは強烈な対抗心。

 或いは、もっと単純な感情。


 ――――兄が弟に敗れてはならない。

 それこそは古今東西を問わず、普遍的な兄弟が持つ自意識に他ならないのかも知れない。

 すると、壁向こうから忌々しげな社樹の呟きが聞こえてきた。


「……なんで倒れねえんだよ」


 なぜ倒れない。

 それは継嗣とて同じ思いであった。しかし、継嗣は言葉で問わず、拳で問う事を選んだ。

 再び歯の根をすり合わせると、今一度、『過部殴太鼓』の構えを取る。

 

 その気配を察して、義弟もそれに応じる構えを取った。

 またしても相打ち覚悟の特攻戦術である。


 壁の向こう側から漏れ聞こえる息はすでにして荒く激しいものとなっている。だがしかし、それは継嗣とて同じ事。

 時折、垂れる雫の音。それが誰の汗なのか、それとも誰の落血なのか。いつしか彼我は曖昧なものになっていた。

 何にせよ、決死の覚悟である。そうでもなければ両者の間にある戦力差を覆せようはずもない。


 時間差による攻撃ゆえに、後発である社樹の『過部殴太鼓』を避ける手段が無い訳でも無かった。

 むしろ簡単な話である。自らが放った『過部殴太鼓』の発動を確認し、そのあと素早く壁から退くだけでいい。

 自身の攻撃も多少の威力を損なう事になるが、それだけで社樹決死の攻撃は空を切り、策は瓦解する。


 だが、継嗣はその常識を無視し、むしろこれまでよりもさらに一層、深く踏み込んで、白壁に拳を突き立てた。

 ――――逃げるものか。

 舌に乗せて言葉にしてしまうなら、継嗣の頭を巡っていたのはそんなちっぽけな感情であった。


 自宅警備員とは、自宅における最後の守護者であり、逃走とは即ち自意識の崩壊を意味する。

 自宅警備の道に退路なし。

 そんな矜持を持った男に、はなから撤退の二文字はない。


 応じて、社樹もまた『過部殴太鼓』を撃ち放つ。

 こちらも捨身の覚悟で挑んでいる。

 再び壁越しに鈍い殴打音が響くと、それに合わせるように自宅大気が継嗣の鼻先を歪ませた。

 

 どちらも必殺の一心。

 どれも必殺の一撃。

 なのに、それをもう何発、放ったのか。それをもう何発、浴びせたのか。

 互いに返り血を壁に染み込ませながら、それでも両者は倒れない。

 肉体はすでに悲鳴をあげながら、それでも常軌を逸した精神のみが両者を奮い立たせている。


 共に限界が近い。

 いつ意識が途切れてもおかしくはないこの状況。

 しかし、なぜか感覚だけは研ぎ澄まされ、一打一打をやりとりする度、見知らぬ扉を開くような高揚感が全身を駆け抜けていく。

 

 ふいに双方、息が途切れ、奇妙な休戦期間が産まれた。

 それは一度、深呼吸するだけのわずかな間ではあったが、継嗣は全身に酸素を巡らせるうちに奇妙な光景に気がついた。


 ――――壁が、白い。


 元よりこの部屋壁の意匠は、さながら下ろし立てのふんどしにも似た麗しき純白であった。

 だが、今この時はふんだんに返り血を浴び、その清き白さは赤く赤く薄汚れているはずだった。


 それが嘘のように白い。

 いや、意識してみると白いのは壁のみに留まらない。

 辺り一面、本来なら四方を囲んでいるはずの壁すらも消え、周囲は途方もない白塗りの世界へと様変わりしていた。


 継嗣は一瞬、自らの意識がすでに断ち切られているのではないかと不安に駆られた。

 必殺技の応酬に、いつの間にか自分でも気付かぬ内に事切れていたとしても不思議はない。


 焦りばかりが先走る。

 しかしその一方で、今、冷静に己が置かれている状況を検証する余裕すらあるのはなぜだろうか。

 

 気を失った訳ではない。ましてや黄泉路に迷い込んだ訳でもない。

 何故なら今この時も、鼓動はいや増して早鐘のように全身にたぎるような熱い血を送り続けていた。

 


 それは奇妙な感覚だった。

 頭の中心で高鳴るような鼓動の音は耳に障る事なく、心地よいほどの陶酔感を与えてくれ、痛みを和らげてくれている。

 血液は激流となって全身を駆け抜け、身体の隅々までも激情に染め上げていくが、一方でそんな自分を客観視する冷静さを同時に持ち得ていた。


 それはさながら静謐せいひつな四畳半茶室に、ぐらぐらと煮えたぎる釜の音が響くような心地よさ。

 かつてこの国の人々が愛した原風景に等しき情感が、ふつふつと継嗣の胸を満たしていく。


 ――――まさか、これは……。

 継嗣はまぶたを開きながら開眼する思いだった。


 それは『自宅警備心得』にも記された大悟の極致。

 多くの自宅警備員がその領域を目指し、精神の修行に明け暮れた果てに至るべき境地。

 のちに『驚天楽園ユートピア』と名付けられた、自宅警備員が目指すべき心域。

 継嗣は知らず知らず、その極致に足を踏み入れていた。


 それを証拠に、心が浮つくような熱さを従えながら感覚は鋭敏きわまりない。

 意識してみれば、音だけでおぼろげに掴んでいた壁向こうの敵――社樹の姿が今ではくっきりと像を結び、その有様を捉える事が出来ている。

 聴覚を越え、第六感とも呼ぶべき超感覚が、この不可思議で珍妙なる知覚現象を現実のものとして可能としていた。

 

 ――――ああ、社樹だな。

 継嗣はまるで直視するようにその姿を捉えながら、今更に自らと相対する者が義弟である事を思い出したようだった。

 

 すでに満身創痍の態である。

 顔をあちこち腫らしているが、下品な金髪が血に染まって黒々とした髪色に近くなったせいか、よく見知った社樹の印象を深めている。

 ゆっくりと顔を見れば、まだまだその端々には幼い頃の面影が残っていた。

 一度それを見咎めてしまえば、継嗣は躊躇する心を抑えきれなくなりそうだった。


 しかし、そんな感慨をよそに今度は社樹が先手となる番だった。

 突如として動きが止まった継嗣を不審がり、警戒していたのも束の間。

 絶好の好機と見たか、あるいは捨て鉢となったのか。

 社樹は腕を波打たせながら軸のブレた『過部殴太鼓』を撃ち放つ。


 そうなれば継嗣も反射で動くしかない。数瞬遅れて壁を殴りつける。

 壁に拳を押し付け残心したまま、回避も出来ずに食らう自宅大気の威力とは生半可なものではない。

 しかし悲しいかな、社樹が繰り出した『過部殴太鼓』からは、既に初弾の威力が失われていた。


 もはや意識を断ち切る事すら叶わず、非力な拳と化した自宅大気が継嗣の顔面を殴りつける。

 しかし、その事に憐れみを感じる暇なく撃ち出された継嗣の自宅大気もまた同じ。

 共に余力はわずかばかりで、これでは必殺の奥義すら意味を成さない。

 

 それは壁を挟んで、ふらふらになった体を互いに押し合うような有様だった。

 それでも双方、倒れる気配はない。

 継嗣は泥沼の様相を呈してきた応酬の最中、再び、社樹と向き合った。

 

 血の繋がりがほとんどない為に顔は似ても似つかない。

 だが、眼差しを決した時の威風は一族共通のものであるらしく、その眼は父に似て、おそらく自分にもよく似ているはずだった。

 改めて今の状況を省みれば、壁一枚を鏡のように重ね合わせ、同じ構え、同じ目つきで睨み合う姿は、なんと滑稽な事か。

 血は遠く。顔は似ず。それでも瓜二つに重なる兄と義弟の姿は、やはり兄弟なのであると力強く証明しているようでもあった。


 

 ――――そういえば。

 ふと、継嗣はこの義弟が己に歯向かうのは、これが初めてだという事実に行き着いた。

 いつも自分の後ろを付いて回る邪魔者として扱いはしたが、それ以外の事で社樹が自分の意に逆らう事など一度としてなかったはずだった。

 

 ――――そうなれば。

 これは初めての兄弟喧嘩という事になるのか。

 継嗣は本当に今更、この義弟に何一つ、兄として振る舞う以外、何もしてやれなかった事実に気がついた。


 ふつふつと、腹の底から笑みが込み上げてくるのは何故だろうか。

 いまだ、この義弟が何の為に意地を張っているのかは分からない。

 だが、理解する必要はない。継嗣はそう確信するに至った。


 何となれば、これは初めての兄弟喧嘩なのだ。

 そこに理屈は必要なく、がむしゃらに、ただひたすらに互いの拳に物を言わせ合うのが筋というものだろう。

 ――――たとえ、どちらかの命を失う事になったとしても。

 

 その果てに、義弟の命を奪う事になったとしても悔やみはすまい。

 その果てに、自らの命が奪われる事になったとして恨みもすまい。

 

 ――――いざ尋常に。

 にじんだ肉親の情すらも今は力に変えて、継嗣は固く拳を握りしめ直した。

 壁向こうの社樹にもその意思が通じたか、構えの中にこれまでにはなかった溜めを作り、その時を迎え撃たんと眼差しを正していた。


 『次の一撃で勝負を決する』

 根から絞り出すように。芯から燃え上がるように。

 共に自宅大気の濃度を高めていく両者の姿にもはや迷いはない。

 無言のうち、兄弟が定めた決着の時が差し迫る。――――だが、その緊張は思いがけぬ声に破られた。


「ねえ〜、ちょっと〜〜!」


 それはキンキンとやたら耳に障る金切り声。

 場を切り裂いた声の主は社樹が連れてきた一般人の、あの軽薄な女だった。


「ありえなくない?  いつまでやってんの〜っ!?」


 継嗣が思わず呆気にとられたのは、この時まで女の存在を失念していたからだった。

 それは社樹も同じであったらしく、「あっ」と間の抜けた声をあげると今更ながら女の存在を思い出したようだった。


 部屋奥に備え付けられたベッドに横たわり、女はこれまで辛抱強く、事が済むまで成り行きを見守っていたのだろう。

 それは良い。

 そこまでは、良い。

 しかし今、継嗣と社樹が命を賭けて決死の闘いを繰り広げている事に、女はまったく気付いてすらもいないようだった。

 

 折しもまとわりつくような暑さで、墨を塗った闇さえも更に粘りを増して、黒く黒く意思を持って視界を遮るような夜だった。

 一般人には夜目が慣れても遠目には相手の姿形すら読み取れない暗がりである。

 特異な耳を持つ自宅警備員の家系でもなければ、今、社樹がどんな姿に成り果てているかなど分かろうはずもない。


 だがしかし、そんなことは今少し耳でも澄ましてみれば、簡単にその異常さを察せるはずであった。

 何となれば、息が荒い。鼻孔からは今も止めどなく血潮が流れ続けている為、絶え間なく雫となって畳に音を立てている。

 少しでも社樹に意識が向いているのであれば、視覚だけに頼らず五感を駆使して相手の状況を知ろうと心がけるはずである。  


「ちょ〜! 聞いてんの、やっく〜ん!?」

 

 なのに、その女は社樹がどんな有様に成り果てているかなど露ほどにも気が付いていない。

 これから情を交わさんとしている相手。これから心身ともに捧げ合わんとした相手であるにも関わらず。

 女は頭ごなしに瀕死の社樹に向かって罵声を浴びせかけていた。

 

 社樹の目的が何なのか、それは今でも継嗣には理解できない。

 だがしかし、その命を賭けた先には、この女も含まれているのではないか。


 継嗣は五臓六腑に流れる水がたちまち沸騰するような錯覚に陥った。

 心が千々に乱れると、たちまち目前に広がっていた景色は血で薄汚れた壁に戻ってしまっていた。

 

「なぜ、こんな女に――――」


 継嗣は呟かずにはいられなかった。

 ――――こんな女に、命を賭ける価値などない。

 まるで我が事のように怒りながら、継嗣は社樹の心中を代弁したつもりでいた。

 ところが、その一言は思いもよらぬ逆鱗に触れた。


「……てめえが……」


 社樹は壁に頭をぶつけながら、言った。

 それは絞り出す怨みが音になったような声だった。

 

「てめえが、てめえがそれを、言うのかよ……」

「……どういう意味だ?」


 戸惑う継嗣の問いに、社樹は答えない。

 社樹は無言のまま、おもむろに壁に身を預けると、幽鬼のようにふらふらと歩き出し、何を思ったか、がなる女を無視して部屋を出て行ってしまった。

 社樹はどこへ行こうと言うのか。


 突如、継嗣の部屋のドアが開く。

 その向こうにはボロボロになった社樹が表情を怒りに歪ませながら立っていた。

 社樹はそれまでの体裁をかなぐり捨てて、直接、継嗣の部屋に乗り込んできた。


 呆然と立ち尽くす継嗣の視線を睨み返しながら、社樹は気を吐く。


「なあ、兄貴。あんた、昔、言ったよな。『自宅警備員と副自宅警備員の間に差などない』って」

「…………」


 継嗣は答えなかった。

 ――――確かに、言った。

 それは自宅警備継承権を正式に返還された、あの日。

 たしかにこの義弟へ向けて放った言葉そのものであった。


 だが継嗣は答えられない。

 それは本心から言った言葉であり、今もなお、間違いのない言葉であったと確信している。

 だからこそ、答えられない。

 この義弟は何を言おうとしているのか。それさえも分からず、困惑だけが広がっていく。

 

 継嗣の沈黙を返答と取ったのか、社樹はさらに語気を荒げる。


「なら、この状況は、何だよ。俺と、あんた。なんで、こんなにも差がついてんだ?」


 自宅警備員と副自宅警備員の間にある「差」。

 継嗣は社樹の言葉を頭の中で繰り返す。


 地鐸を守護するため自宅に待機し続けるのが自宅警備員。

 一方で副自宅警備員は自宅警備員の予備職である為、ある程度、日々の自由が約束されている。

 地鐸を護る役割は何物にも代え難い栄誉とは言え、常に死と隣り合わせの自宅警備員と副自宅警備員の間には大きな差などない。

 それは待遇面においても変わらず、国から受ける事の出来る様々な特権も、自宅警備員とほとんど大差はないはずである。


 いまだ要領を得ぬ義兄に苛立つように、社樹は続ける。


「この、嘘つき野郎……! しかも、言うに、事欠いて『なぜ、こんな女に』だぁ……? ふざけんなッ!!」


 常軌を逸した眼差しから、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「俺だってあんな女はイヤだッ!! 俺にだって好きな女くらい、いる! いた! いたんだ!」

「――――なら、なぜその女と添い遂げない?」


 社樹は正気を失っている。

 そう判断した継嗣は一歩、斬り込んでみる事にした。

 問われた社樹は一瞬、面食らって呆けたが、すぐにその言葉の意味を理解すると、わなわな両の拳を震わせた。


「だ、から。なんで……なんで、てめえが」

「惚れた女がいるなら、なぜその女の為に命を賭けない? 一体、貴様は何がやり――――」


 問いかけが終わる間もなく、言葉の切れ間に社樹が飛んだ。 

 どこにそんな力が残っていたのか。社樹は獣を思わせる跳躍で一息に間を詰めると、のしかかるような勢いで継嗣の胸ぐらを掴んだ。


「てめえがそれを言うのか。この、大嘘つきがッ!」

「だから、何が『嘘』なんだ!」

「知らねえとは言わせねえ――――『地巫女』だ!」


 その言葉に、社樹を払いのけようとした継嗣の腕が止まった。

 『地巫女』

 なぜこの局面に至って、その名前が出てくるのか。

 やはり継嗣には分からない。困惑はますます色を深めていく。


「分からん! 分からんぞ、社樹! なぜそこで『地巫女』が出てくる!?」

「ここまで言わせて、まだしらばっくれるつもりか!」


 吠えて――――そして嗚咽が漏れた。

 血走った社樹の両目からは熱い涙がこぼれ落ちる。

 

「……俺が■■だからって馬鹿にしやがって……」


 深い。あまりに深い悲しみに彩られた言葉がそこにあった。

 社樹がとうとう吐き出した胸内の泥は悲哀に満ち満ちている。――――しかし、継嗣はそこに活路を見た。

 

「……待て。今、なんと言った」


 一筋の光明が見えた気がした。しかし社樹は答えない。

 継嗣は改めて社樹の顔を見据えた。


 すると、そこには今にも崩れ落ちそうに泣いている社樹の顔があった。

 いつも笑顔で走り回っていた義弟。そんな社樹にしてはあまりに不釣合いな、あまりに相応しくない表情。

 だが、その顔に見覚えがあるのは、何故か。

 記憶の底に眠る、一葉の写真のような情景がまぶたに浮かんでは消える。

 焦れるように継嗣は続けた。


「社樹……答えろ!」

「ふざけんな……ああ、ああ、聞きたいのなら何度だって言ってやる!」


 促され、色を失っていた社樹の顔が、みるみる修羅へと戻っていく。

 もはや捨て鉢の態で社樹は今一度、心の泥を叫んだ。


「俺が『童貞』だからって馬鹿にしやがってッ!」


 

 ――――童貞。

 確かに社樹はそう言った。


 『童貞』『境遇の違い』『地巫女』『社樹の泣き顔』


「……そういう事か」


 これらの単語が継嗣の頭の中で一列に繋がり始める。そして、そこから導きだされる絵図は、おそらく真実に違いなかった。

 真相に達し、今、目の前にいる義弟のすべてを理解した継嗣は。


「……くっ」

 

 ――――堪えきれず、大声でからからと笑い出した。




 ■  ■  ■




「はっはっはっはっは! あーっはははは!」


 静かな夜に不釣合いな、継嗣の呵々大笑。

 息が切れ、それでも継嗣は腹を抱えて笑っている。


 一方、社樹は唐突に笑い出した継嗣を得体の知れぬ魔物でも見るような目つきで見つめていた。

 今度は社樹が継嗣を恐れる番だった。


 童貞を告白した男を、面前にて笑い飛ばす。

 これこそまさに悪魔の所行に違いない。

 人の心通わぬ笑い声に、社樹は目の前にいる男が自分がよく見知った兄とは別人のようにも思えてきた。

 

 しかし、呆然として哄笑を見送っていたのも僅かな間。

 じきに社樹の胸の内に燃え盛る怒りの炎が、怯えすくむ心根を焼き尽していく。 


 もはやこの男はかつて尊敬した兄ではない。あるいは元よりそんな英雄は存在しなかったのだろう。

 今、眼前で嘲笑う男はただの仇敵。そう見定めた社樹は、残り僅かな力を拳に込めて振るい上げた。

 

「こ、このクソ野ッ――――!」

「待て」

 

 ところが、その一撃は継嗣の声によって機先を挫かれた。

 もはや社樹の理性は焼けた鉄のように赤々と燃えている。制止され、止まるだけの悟性などは残っていない。

 だが、その拳が止まった。


 継嗣はさらに言葉を接いだ。


「――――お前の『勘違い』だ」


 勘違い。

 これまでの経緯が馬鹿げた三文喜劇であるように、継嗣はそう吐き捨てた。

 

 言葉の意味を飲み込むのに、また数瞬の時を要した。

 飲み込んで。理解して。


「……ふっ、はっ……」


 そして、再び社樹の理性が燃え尽きた。


「……言うに、……言うに事欠い、て、『勘違い』、だぁッ?」

「ああ、お前の勘違いだ。お前は大きな思い違いをしている」

 

 頭の隅々まで怒りに塗れてなお、事も無げに言い捨てる継嗣の余裕が気に食わない。

 社樹は牙を剥く獣さながらに糾弾した。


「い、言ってみろ! 何が、何が『勘違い』だァッ?」


 社樹は震える指先を突きつけながら、今にも相手の言葉尻に噛みつかんばかりの剣幕でわめき散らす。


 ここに至るまで様々な苦悩があった。文字通り、決死の覚悟で事に臨んでいるのだ。

 その覚悟を『勘違い』などと一言で、それも軽挙妄動としてあしらわれてしまっては立つ瀬がない。


 社樹は腫れあがりだしたまぶたの隙間から、危うい目つきで継嗣を睨みつける。

 継嗣の面相は社樹と同様、そこかしこが膨れあがり始めており、その表情を読み取る事は困難である。

 だが、その奥に光る瞳は、既に事態の落着を悟っているかのように涼しげだった。――――社樹の激情すら、もはや茶番であるかのように。

 

 それが何よりも度し難く、それが、何よりも許し難い。

 白々しく、今さらその口で何を語るというのか。

 

 ――――もはや躊躇するものか。

 

 兄の口から何が語られようと、もはやそんな事はどうでもよくなっていた。

 これまでの自分の行いにどれほどの過ちがあり、どれほどの間違いがあったとして。

 天下にいかな法があろうとも、『童貞』を馬鹿にする事が許されるなどと、そんな無法があっていいはずがないのだ。

 

 何でも言いたい事があるなら言えばいい。

 社樹は拳を握りしめ、兄の口から放たれる言葉を待った。

 それが継嗣が最後に放つ遺言になるのだと決意しながら。ジリジリとその時を待つ。

 

 その一方で、継嗣の気配は穏やかだった。

 激戦の余韻よいんすら感じさせず、仁王立つその様は、打って変わって存在が希薄にすら感じられる。

 顔面にこびりついていた戦意はすでに洗い流され、継嗣は眉間にしわを寄せたまま、しきりに溜め息をつきながら言葉を選んでいるようだった。

 そして、ついにその喉が、その唇が、その舌が、言葉を紡ぎださんと動き出す。

 

 一拍おくれて、社樹の全身が旋風つむじのように躍動した。

 全身の運動を回転の軌道に乗せて、継嗣の発声が終わると同時にその拳を顔面に叩き込む。

 それはもはや技と呼べるものではない。

 力任せに拳を振るうだけの起動。術もなく繰り出される原初の拳。しかし、それ故に衰弱した社樹ですら必殺の一撃となり得る。

 例えるなら蠍尾に似た一撃が今、継嗣の顔面へ迫りつつあった。


 止まる事のない刹那の凶行。

 しかし、それを再び止めたのは神でも仏でもなく、ただの一言。



「――――俺も童貞だ」


 兄・継嗣の口から放たれた衝撃の真実のみであった。

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