第11話:リア充爆発せよ! 自宅警備員!
『兄』とは、何であるか?
兄とは、生まれながらに後ろを往く家族を気遣う宿命を背負った者たちの事である。
兄とは、果てを迎えた親の後を継ぎ、しるべなき道を
しかし、何事にも道から外れる者がいる。
その男はハナから兄の立場を放棄し、健気な弟からは目を背け、逃げ続けてきた。
その成れの果てこそが今の状況であるならば、男は後悔するより他にない。
だからこそ、男は今、一人の兄として一人の弟と対峙する。
ついに訪れた正念場。豹変した『弟』に立ち挑むはたった一人の『兄』。
――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。
■ ■ ■
東都圏副自宅警備員・
この義理の兄弟の間に、本来ならば不和と呼ばれるものは存在しえないはずだった。
たしかに継嗣は継承権を失った後ろめたさから社樹を遠ざけてきた過去がある。
だが、それはあくまで継嗣側の認識であり、義理の弟は兄の拒絶を物ともせず、純粋に、ひたむきなまでに兄を慕っていた。
この関係は一つ屋根の下で暮らす間も、継嗣が次期自宅警備員の座に返り咲き、事実上、社樹から継承権を奪い返した後も変わる事はなかった。
意外に思われるだろうが、社樹は継嗣の継承権奪還を、何一つ反抗する事なく受け入れていた。
どころか当時、中学生だった社樹は屈託のない笑顔で継嗣の
このときの笑顔がことさらに印象深く、継嗣の記憶に残る社樹の姿は常に笑顔であった。
ところが、継嗣が大学に進学し、自宅を後にしてしばらくの事。
高校に上がってから社樹の人柄が変わってしまったという風聞を耳にした。
曰く、素行が悪くなった。
曰く、髪を染め、乱暴狼藉が目立つようになった。
にわかには信じ難い話である。
社樹は父であれ継嗣であれ、その言いつけに背くという事は一度としてなかった。
なればこそ、ひたむきな修行にその才が応えてメキメキ頭角を現したという一面の事実もある。
だからこそ、ありえない話であった。
日々の修行こそ手を抜かないものの、それ以外では怠惰な暮らしを送り、学校でもしばしば問題を起こすなど伝え聞くその姿は継嗣の知る社樹の姿とはかけ離れていた。
何より信じ難いのは、社樹の
ある日の事、継嗣は父に手紙にて、この一件を問う事にした。むろん恐る恐る書かれた手紙であり、返事すら期待してはいなかった。
ところが、その一週間後に届いた父からの手紙には簡素に一文。
「我が関わる案件に
その文章の意味するところが、継嗣には分かりかねた。
たしかに末の息子は可愛いだろう。父として養子に迎えておきながらその役目を取り上げてしまった負い目もあるだろう。
しかし、だからと言って、子の教育を放棄していい理由などあろうはずがない。
継嗣は憤りながら手紙を破り捨てたが、そこから次の行動を起こそうとはしなかった。
継嗣にも大学生活というものがある。
過去の失敗から、そこにわずかなキズ一つ付く事すらも過剰に恐れ、継嗣はできるだけ模範的、理想的な大学生であろうとした。
そんな日々に忙殺されては社樹などに構っている暇はなく、心に引っかかりを感じながら、それでも継嗣はその一件を徐々に失念してしまっていた。
しかし、今ならば分かる。
継嗣は無意識のうち、またしてもあの弟の事を見捨てようとしていたのだ。
そして、今ならば分かる。
あの父からの手紙の意味するところ。それは責任の放棄などではない。
社樹の更生。その大任は兄である継嗣こそが果たすべきだという、父からの委任状だったのだ。
ならば、自分はどうすべきか。
継嗣にとって、純粋な闘争よりも過酷な一日が幕を開けようとしていた。
■ ■ ■
無駄にボリュームを感じさせながら金色にくすんだ髪。
気怠げに睨み、それでいて何も見ていないような光なき眼。
覇気のない姿勢からは、この世の全てに対する無関心さを全力で示威している。
かつて神童と謳われた少年は、今、変わり果てた姿を継嗣の眼前にさらしていた。
「……お前、社樹なのか?」
噂とは時として面白おかしく語られるものであり、継嗣もそれが真実全てを伝えていると思ってはいなかった。
だが、今こうして目の前に立っている軽薄そうな男の顔に、かつて見た愛らしい義弟の面影を見取ってしまえば、それが全て真実であったと認めざるをえない。
そんな継嗣の困惑を知ってか知らずか、社樹は不愉快そうに舌打ちを鳴らした。
「なぁに寝ぼけてんだよ。自宅暮らしが長すぎて頭ボケてんのか? アホ兄貴ぃ」
「あ、アホ兄……?」
かつては「兄様」と呼んでいたはずの義弟から放たれた突然の罵倒に、継嗣は驚きを隠せない。
だが、当の本人はそんな継嗣の衝撃を意にも介さず、夏の陽気に苛立つように右手で喉元を扇いでいた。
「あっついんだよね。いいからさっさと入れてくんねえかな。俺の部屋どこ?」
「あっ、……ああ。お前の部屋なら二階の手前から三番目の――――」
開口一番、出会い頭に社樹を殴るつもりでいた継嗣の算段はすでに崩れてしまっていた。
しかし、言われて我に返ったのも束の間。さきほどの衝撃を上回る驚きが継嗣の全身を石に変える。
社樹の背後から聞こえたソレは、継嗣の想定するあらゆる事態を軽く超越していたからだ。
「やっく〜ん。まだ時間かかんの〜?」
それは、女だった。
ただの女ではない。いや、それは確かに、ただの女だった。
「ごめんねー、みかたん。ちょっと兄貴がうるさくってよぉ」
「え、この人、お兄さん? ぜんぜん似てないね〜、ウケる〜」
場末の娼婦のような服装には目をつむろう。鼻をつくように下品な香水の臭いにも鼻を
化粧がむしろ残酷なほどに不器量を際立てる不細工さなどは、今この場では問題にならない。
女の美しさとは容姿を指すものでなく、心の美醜でのみ語られるべき事柄である。
しかし、継嗣はそのあまりの状況に絶句せざるをえなかった。
なぜなら、女はどこから見ても自宅警備員の真実を露ほどにも知らぬ、只の一般人だったのだ。
それを証拠にこれから神殿とも云える自宅に足を踏み入れようというのに、そこには自宅への敬意が欠片すらも見当たらなかった。
「社樹……誰だ、その子は……」
「あぁ? うっせえなぁ」
「あっ、は〜い! みかは〜、やっくんといっしょの大学のテニスサークルでダブルスやってま〜す!」
継嗣の問いを退けようとした社樹だったが、意外にも背後から女が応答を継いだ。
だが、その言葉に継嗣は思わず叫ぶ。
「てッ、テニスサークルだとッ!?」
継嗣はその名に戦慄した。
口にするだけでもおぞましいと言わんばかりの表情で、驚きを隠そうともしない。
テニスサークル。
それは一見して健全なスポーツ団体のように見せかけておきながら、その内情はテニスにかこつけて男女が淫らな行いをする為の集い。
主にスポーツ全般を大学活動の主としていた継嗣ですら、その門前をくぐる事すらしなかった背徳の園である。
「いやっ、違う。今はテニス関係ない」
女から出た思わぬ情報に狼狽してしまったが、本質はそこではない。
一般人を自宅に招き入れる。
それがどれほどの禁忌であるか、守宮の家で育った社樹が知らぬ訳がない。
「社樹……貴様ッ!」
なれば、血管がにわかに泡立つ。沸騰するような血のたぎりが継嗣の顔を赤く染めていた。
元より殴り飛ばすつもりでいたが、もはや躊躇する理由もない。自宅警備員が連綿と守り続けてきた鉄の掟をなんと心得ているのか。
継嗣は拳を固く握りしめ、社樹の浮ついた横っ面に鉄拳を見舞わんとしたその時。
社樹は口の端を歪めながら小さな声で、ぽつり呟いた。
「――――おいおい、兄貴。意識低いんじゃねぇの? 一般人の前で自宅警備員の技を見せていいのかよ」
その言葉は、まるで呪言のように継嗣の動きを制止した。
夏の盛りだと云うのに継嗣のアゴからは一滴の冷や汗がすべり落ちる。
見れば先程までは真っ赤だった継嗣の顔色が、今度は反転したように蒼白に様変わりしていた。
「まぁ、兄貴ならヨユーか。掟破りは兄貴の
社樹は過去の失態を引き合いに、継嗣の行状を嘲笑った。
だが、怒るよりも先に、恐怖が勝って怯えだす膝の震えを、継嗣は止める事が出来ずにいた。
継嗣から見た社樹は、すでに正気とは思えない。
兄から非行を咎められ、
自衛行為どころか自殺行為。もはや己もろとも周囲を滅ぼそうとする、自爆にも等しい行いである。
継嗣は絶句した。
かつて自分を慕い、その好意を隠す事なく開けっぴろげにまとわりついていたはずの義弟。
それがもはや何を考えているのか、その思考すらも読み取れない異界の怪物と化していたのである。
「ねぇ〜、まだお兄さんと話あるの〜? みか、疲れちゃった〜」
空気を読めない女の横やりにひとまずの決着を見たのか、社樹は鼻を鳴らして継嗣から視線を外し、
「ごめんごめん、みかたん。もう終わったからさっさと部屋行こうぜぇ」
「は〜い、じゃあ、おジャマしま〜す」
女を連れ立って、自宅へと無遠慮に足を踏み入れる。
二人は真横をすり抜けながら、しかし継嗣はその乱行を止める事が出来ずにいた。
思考はもはや失意の泥に沈み、意識が彼方へ飛んでしまっていた。
継嗣もかつて、自宅警備員の掟を破ってしまった過去がある。
だが、それは若気の至りであり、少年であったが故の暴走でもあった。
分別のついた大人になれば掟が持つ意味、その重みは自然と理解できるはずである。
なのに、目の前にいた男はそんなものはどうでもいいとばかりに振る舞い、ないがしろにした。
理解が及ばない。何を考えているのか分からない。
未知とも呼ぶべき感覚を身につけた義弟に、継嗣は怒りよりもまず恐怖を覚えた。
継嗣は当初、短絡的にも社樹の非行の原因を自らの冷遇と結びつけていた。
故に、少々きついお灸を据えてやれば、またまぶたに残る屈託のない笑みを見せてくれる。
愚かにもそう信じていたのだ。
だが、すでに事態はそんな生半可な場所を通り過ぎてしまっている。
なぜなら社樹は、部外者を自宅に招き入れてしまったからだ。
掟破りには相応の処分が下される。
軽く見積もっても謹慎。最悪の場合、副自宅警備員の座からも引きずり降ろされるに違いない。
そこまでのリスクを負って、社樹が継嗣の鉄拳から逃れる為だけにあの女を連れてきたとは、どうしても思えなかった。
「……分からない」
だからこそ、分からない。
今、この場で起きている事態の深刻さに、社樹自身が気付いていないとは思えない。
ならば、すでに社樹は捨身の覚悟という事になる。
だからこそ、分からない。
なにが義弟をそこまで追いつめてしまったのか。
それを果たして、義弟がなにを為そうとしているのかすら、それすらも分からないのだ。
堂々巡りに落ちた継嗣の思考。
理解の範疇を超えた社樹の言動に、継嗣は更に思考の沼に捕われていく。
しかし、それを現世に呼び戻したのは、知性を感じさせないあの女の声だった。
「……ねぇ〜、やっくん。あのお兄さん、何なの?」
自宅へ侵入した一組のカップルは早々と二階に上がり、視界からはすでに消えていた。
それに安堵したのか、みかたんと呼ばれていた女は道すがら、社樹に向かって継嗣の陰口を叩き始めた。
「顔ぷるぷるさせてて、すげ〜キモかったんですけど」
上階層での会話であったが、生来、地獄耳を持つ自宅警備員である継嗣には、その会話のことごとくが耳に飛び込んでくる。
不機嫌そうに愚痴る女を、社樹は猫撫で声であやしていた。
「ああ、キモかったねぇ。ごめんねぇ」
「それにすっごい臭いよね。鼻もげちゃうかと思ったよ。何あれ〜」
しかし、陰口を叩かれながら、当の継嗣は鼻で笑っていた。
――――自宅警備員たる者が己の体臭にこだわってどうする。
「自分の臭いが分かんねえんじゃねえかな。あの人、家から出ないからねぇ」
「え〜〜〜! ってことは」
「イエス、
しかし、陰口を叩かれながら、当の継嗣は歯牙にもかけなかった。
――――自宅警備員たる者が世人に理解される訳がない。好きに呼べばいい。
「信じらんな〜い。やっくん、かわいそう。それになにアレ――――」
「ん? ん?」
しかし、陰口を叩かれながら、当の継嗣はいまだ玄関先に立ち尽くしていた。
思考の沼深くに足を取られ、一歩も動き出せずに固まったままでいた。
その言葉を聞くまでは――――。
「あっは。あのきたないTシャツ。よくあんなの着てられるね〜」
拳を一振り。継嗣は無意識のうち、渾身の拳を宙に見舞う。
それはまさしく怒りが恐怖を凌駕した瞬間であった。
自分はいくらでも貶めればいい。自分はいくらでも辱めればいい。
だが、その矛先が自宅警備員の誇りたる自宅警備装束に向かうというならば。
――――もはや許さん。
だが相手は一般人。拳を振るってしまえば自宅警備員の大義たるも失ってしまう。
継嗣は自らをなだめるが如く、今再び、誇り高き自宅警備装束に目を向ける。
『働いたら負け』
Tシャツに描かれた一つの金言。
守宮における自宅警備員開祖・
「自宅警備員の本懐たるは――――」
自宅を守る。
ただそれだけのみに生き、それだけのみに特化した者たちの矜持。
相手がいかなる者であろうとも自宅を守る。
相手がいかなる思惑を持っていたところで、継嗣が為すべき事は決まっていた。
怒りも恐れも、今はすべて拳の力に転化して、継嗣はひとり小さく気炎を吐いた。
「覚悟せよリア充。きさまが自宅を乱すと云うのなら、俺は自宅警備員としてそれを打ち砕く」
そこにはもはや兄弟としての温情はなく、外敵に対して一匹の獣が放つ宣戦布告としての響きだけが強く残っていた。
その呟きは常人には聞き取れぬほど小さな声。
しかし、同じ自宅警備員の家に育った社樹の耳にも、その声はしかと届いていた。
それを証拠に、社樹も不敵に呟き返してみせる。
その声はどこまでも禍々しく、これから自宅に吹き荒れる風雲急を予感させるには十分なものだった。
「……復讐は始まったばかりだぜ。アホ兄貴ぃ」
――本日は自宅に異常あり!
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