第10話:大気は万全なり! 自宅警備員!
『大気』とは、何であるか?
大気とは、広く険しき地球を包む慈悲深き神の息吹である。
大気とは、あらゆる命が欠かす事の出来ない生命の大原則である。
人類もその天恵に馴れ親しみ、今日も日々の暮らしを支えてくれる大自然の大気に感謝する者も多い。
だがしかし、この世にはその大気を武器に、日々の暮らしを陰ながらに戦い、支え続けている猛者たちがいる事を知るものは少ない。
大気を放ち、大気を操り、大気を
大気とともに自宅を守り、大気とともに自宅に守られる戦士たち。
――人は彼らを、自宅警備員と呼ぶ。
■ ■ ■
光陰矢の如く、時は瞬く間に過ぎ去り、季節は夏。
外気はすでに真夏の気配が濃く、道行く人はいずれも顔に汗を浮かべながら早くも猛暑にうんざりといった表情である。
一方、守宮家といえば、設計段階から空調に配慮され、さらに最新の冷暖房完備といった用意周到さ。
世俗の気温などとは隔絶された地上の楽園。そんな自宅を根城とする継嗣は――――なぜか滝のように汗を流しながら、ナスやキュウリと格闘していた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
見れば室内に備え付けられた冷房設備は一切、稼働してはいなかった。
継嗣は熱気に包まれた室内で、荒い呼吸に上下する額からぼたぼた汗をこぼしながら、てらてらとした光沢を放つナスを凝視している。
左手にはナス。そして右手には木製の棒を持ち、継嗣はその先端をぷるぷる震わせながらナスに突き立てんとしていた。
「落ち着け……落ち着け……」
ますます鼻息荒く興奮し、継嗣は弓を引き絞るよう緊張しながら狙いを定めていく。
そこで震えていた木の棒がぴたりと制止した。
「ふんッ!」
継嗣の
しかし、一本では終わらない。そこからさらに二本、三本。
止めとばかりに四本目の棒を差し込んで、継嗣はようやく止めていた呼吸を再開した。
「ふぅ〜……うむ、完璧な出来だ」
ナスとキュウリに差し込まれた四本の割り箸。
それらは均等な長さで全体を支え、さながらその様は四足の獣のようである。
――――盆飾り完成の瞬間であった。
そう、季節はすでにお盆。今は亡き御先祖さまが現世に御帰還なさる神州における重大イベントの一つである。
世俗の行事とはほとんど無縁とも云える自宅警備員ではあったが、ことお盆となれば先祖の霊を敬わぬ訳にはいかない。
出来上がった作品を眺めながら、継嗣は改めて満足げな表情で溜め息をついた。
「……我ながら良い出来じゃないか。このナスなどは三大和牛に匹敵する風格すらある。ふふ、こちらのキュウリにいたっては、かのサラブレッド三大始祖たる名馬ゴドルフィンのようではないか」
曰く、ご先祖の御霊は早馬に乗って急いで帰宅し、歩みの遅い牛に乗ってゆっくりあの世へお帰りになられるそうな。
そんな重大な役目を駄馬や駄牛に任せるわけにはいかない。継嗣、入魂の一作にて御先祖様をもてなす所存である。
しかし、そんな殊勝な心がけに、わずかな打算が混じっていないわけでもなかった。
しかし、そこに供え物である早馬に鈍牛、新鮮な夏野菜に彩り豊かな生花、素麺、昆布に鬼灯と定番どころを推し並べるまではよかったが、さらに空のペットボトルに駄菓子、今年度もっとも地雷と称された18禁PCゲームソフト、便所紙にもならないと酷評されたコミックなど自宅警備員好みの品を取り揃えると、祭壇は全く別の異物へと様変わりしていた。
というか、もはや何を祀る祭壇なのかよく分からなくなっていた。
山のような供え物は、やはり継嗣の下心を表したものに違いない。
継嗣は深々と平伏するや、拍手を一発。
そこからパンパン乱れ打つ様はまさに必死。
「御先祖様、どうかお願いします」
七夕飾りでもあるまいに、すがりつくような目つきで継嗣は乞い願う。
これほどまでに力の入ったもてなしの数々は、全てはこのためであった。
継嗣はもはや今生、己の力では叶いそうもない難事を、先祖に助力を願う事で果たそうと考えたのである。
「どうか、どうか、恋人が出来ますよう、どうか!」
爆竹のような破裂音が続く中、継嗣はなぜかさらに口をもごもごさせていた。
これ以上ないほどに恥ずかしい願いを口にしながら、しかしまだ恥ずかしがる事があるのか、継嗣は何事かをノドにまで溜め込んでは
「どうか……どうか……」
口にするのも恥ずかしきは次の本願の方であるらしい。
だが、それも数秒の事。意を決すると継嗣は己がプライドをかき捨てて乞い叫んだ。
「どうか、『
■ ■ ■
唐突だが、人と建築物にまつわるこんな逸話を御存知だろうか?
古来より、人と建築物の間には不思議な相互作用があると信じられてきた。
建築物に住まう人間の寿命は長く、また人が住む建築物は風化しにくくなるのだと云う。
まるで迷信じみた逸話であるが、しかし、これは事実である。
統計で明らかになったデータをつまんでみると、そこには明確なまでの差異が生まれ、その影響を無視するわけにもいかなくなる。
定住する建築物をもたない人間の寿命が短くなるのは何とはなしに想像がつくだろう。
外気に晒され、一カ所に留まらず旅を続ければ体はすり切れ、その結果、寿命が短くなる事は想像に難くない。
しかし、建築物は本来、使用されれば使用されるほどに消耗し、人が住まう事でその内部を徐々に損傷していくはずである。
そこに人の手による清掃、修理管理が行われたところで、その影響は微々たるものにすぎない。
だが、れっきとした事実として、人が住まなくなった建築物はあまりにも脆い。
人がいなくなると数年ともたず風化し、いずれ自重に押しつぶされて倒壊してしまうのだ。
この摩訶不思議な現象については長年、討議されてきた議題であり、今なお明確な答えが導きだせない人類の謎でもあった。
だが近代、その謎にひとつのくさびを打ち込んだ存在が確認された。
言わずもがな、自宅警備員の存在である。
神州各地に住まう自宅警備員。
その誰もが異口同音に、その不可思議な力の存在を認め、肯定した。
なぜなら彼らの力の源泉は、自宅が放つ謎の力によってもたらされていたからである。
それは彼らが元から備えていた能力なのか、それとも地鐸の加護によって手に入れた力なのか、今となっては誰にも分からない。
神州全土に点在する自宅警備員たちはいずれもが独自の流派を極め、その戦闘スタイルは類似点を見いだす事すら難しい。
ところが一点。ある部分においてのみ、全ての自宅警備員が共通する超自然的な能力を有していた。
彼らは既に一個の肉体だけを取り上げても一流の格闘術者たちである。
だがしかし、それだけでは自宅は守れない。
近代化した武装に対し、人体とはあまりにも非力で無力である。
さて、ここで今更ながら当然の事実を書き上げて紙幅を消費する事は愚かであると言わざるをえないが、しかしそれでもありきたりな常識をここに来てとうとう述べてしまうならば、『自宅警備員に銃火機は通用しない』。
その秘密は彼らの全身を覆う不可視の『気』――――通称『
自宅警備員の血族は生まれながらにしてすでに微量の自宅大気を放出しており、常人とは一線を画す身体能力を備えている。
この自宅大気と呼称される謎の力は戦闘面では無類の効力を発揮し、特に防御においては濃度次第で飛来する銃弾すらも鈍らせる無敵の盾となる。
だが、それだけではない。この力は自宅を経由する事により、ようやくその真骨頂を見せ始めるのだ。
前述の通り、自宅警備員が発する体臭、体液、或いはその存在そのものとも言い換える事が出来る自宅大気は、日々の暮らしの中で徐々に自宅の端々に染み付くと、逆に自宅そのものが巨大な自宅大気発生装置として機能し始めるのである。
自宅が彼らを強くし、また彼らが自宅を強化する。
つまり、自宅警備員は『暮らせば暮らすほどに強くなる』のである。
これが自宅警備員が血族のみで占められている最大の理由でもある。
この攻防一体たる人智を超えた異能にはまだまだ多くの謎が秘められている。
地鐸を継承した者のみが目覚めるとされている第二段階『星座大気』なる力も存在するのだが、それについて語るのはまた次の機会としておこう。
なお、ここまでの設定は知ったところで本作の面白さに何の寄与も果たさない事をここに保証しておく。
■ ■ ■
「どうか……どうか……」
継嗣は一心不乱の有様で祈念を続けた。
拍手だけがやかましく、恨みがましくも聞こえるその音は、もはや乞い願うというよりは祖霊や地鐸に対する抗議のようにも聞こえてくる。
いや事実、抗議なのかも知れない。
なぜなら継嗣は地鐸を正式に継承したにも関わらず、いまだその証ともいえる力、星座大気に目覚めていなかったのだ。
自宅入りから早数ヶ月である。
すでに自宅そのものは継嗣の自宅大気を吸収し、その身に纏う大気濃度は申し分ない。
しかし、いつ星座大気に目覚めてもおかしくはない状況であるにも関わらず、継嗣の肉体には劇的な変化が訪れる兆しすらも見られなかった。
十分な修練を積んだ。願掛けに冷房断ちまでしている。それでも足りないというのか。
とうとう行き着いた先である先祖乞いに、些かの恨み節が混ざるのは致し方なくもある。
しかし、案の定、徒労に終わりつつある願掛けが佳境を迎えた頃、なぜか鳴り止まぬはずの拍手が止んだ。
継嗣は平伏したまま、地下道場の入り口の方を向いて固まっていた。
そこにはついに先祖の御霊が、現れるはずもなく。
その視線の先には、なにやら見てはいけないものを見咎めてしまったといわんばかりに微妙な表情の
そして女は溜め息まじりに呟いた。
「……何をやってるんですか、継嗣さま」
落ち着いた色のカシュクールワンピースに身を包んだ鯨波子は実に愛らしくあったが、それを見て和む余裕など継嗣にはない。
継嗣は全身に冷や汗を感じながら女に問う。
「……いつからそこに」
願掛けに集中するあまり、鯨波子の入宅にすら気付けなかったのは継嗣の落ち度である。
もし、これが敵であったならば自宅警備員失格の烙印を押されかねない失態だった。
だが、それよりも見られたくなかったものを暴かれた雰囲気が室内に漂い続けていた。
「恋人が出来ますよう、辺りから」
「一部始終じゃないかぁ……!」
継嗣が頭を抱えて身悶えする様をよそに、鯨波子はズカズカと室内に踏み入ると、混沌の宴と化した地鐸の祭壇を見て、にこり微笑んだ。
「継嗣さま。なんです、これ」
顔は笑っているが、声は笑っていない。
蒸し暑い地下室なのに、いっそ冷え冷えとした声が継嗣の体をぶるり震わせる。
鯨波子は祭壇に飾られた異物の山をさながらゴミでも片付けるように分別しながら、振り向きもせずに言った。
「お説教、三時間は覚悟して下さい」
「つつしんでお受け致します」
継嗣に反論の余地などは残されていなかった。
■ ■ ■
「まぁ、お気持ちは分からないでもないですけどね」
結局、予告を大幅に超えた五時間にも亘る長説教の締めに、鯨波子はそんな同情の言葉を付け加えた。
しかし、そう言われてしまえば、ますます惨めな気分になるのが男の性というもの。
いざ言葉にされてしまうと、よけい我に返って己のみっともなさが浮き彫りになってしまう感すらあった。
「星座大気の目覚めは個人差がありますから。遅い人だと十年以上目覚めない人もいるとか」
「…………」
気落ちした継嗣の様子に気が咎めたのか、鯨波子はさらに慰めの言葉を述べる。
だがそれもやはり効果がないと見ると、
「どちらにしろ今日明日に目覚めたところで意味ないですよ。いい加減、腹をくくって下さい」
経験上、これ以上の慰めは無駄とばかりに、てきぱき場の空気を切り替えてしまった。
そんな鯨波子の仕切りに流されたわけでもないが、言われるまでもなく落ち込んだ所で詮無きところである事は身に染みて分かっていた。
やむなく気持ちを切り替えて、継嗣が勢いよく立ち上がると、鯨波子はやんやと
「そう、その調子です。今日は勝負の日。気合いで負けては話になりません」
勝負の日。
そう、今日という日はお盆というだけでなく、継嗣にとっても今後を左右しかねない重要な日でもあった。
とはいえ、字面通りに何かを競うわけではないのだが。
思えば朝から気鬱で、盆飾り作成に無用な気合いを込めてしまったのも、今にしてみれば現実逃避の向きがあった。
奮起はしてみたものの、気を抜けば思わず弱音が漏れてしまうほどに頭が痛い。
「出来れば会いたくないな」
「覚悟をお決め下さい。もはやこの問題は継嗣さまの双肩にかかっているのですから」
いくら発破をかけられたところで気力が一向に湧かないのは、これから自らの身に降り掛かる火の粉がいかに厄介なものであるかを知っている為なのか。
先の事を思えば思うほど、鉄塊でも飲み込んだように胃が重くなるばかりだった。
――――出来る事なら二度と会いたくはなかった。
それが嘘偽らざる、継嗣の本音であった。
■ ■ ■
その後、鯨波子は手際よく祭壇を片付けると、あとは二言三言だけを残して、早々に帰ってしまった。
一体なにをしに来たのか――などと問うまでもない。
いざ今日という日を迎える継嗣を気にして、様子を見に来てくれた事は言わずとも分かっていた。
まもなく約束の刻限が迫りつつある。
大幅に延長した説教のお陰で、余計な事を考える暇がなくなったのは却って幸運だったのかも知れない。
継嗣はその時が差し迫ってようやく平常心を取り戻し、地鐸を祀る祭壇を前にして今一度自身を振り返るだけの余裕が戻っていた。
自らが何者かと問われれば、神州は東都圏を守護する自宅警備員であると答える。
これはもはや自他が共に認める、揺るぎようのない事実である。
だがしかし、この地位を勝ち取るにあたり、一人の男を蹴落とした事を、継嗣は一度たりとも忘れた事はなかった。
その男の名は――――。
「
あの義理の弟と顔を合わせなくなってから、すでに数年が経とうとしていた。
伝え聞く話ばかりで対話の機会すら作ろうともしなかったのは、やはり社樹を恐れての事なのか。
今は何をしているのか。今はどのような人間に育っているのか。実際に面と向かって話をするのは、随分と久しぶりになってしまっていた。
社樹は復権した継嗣に押し出されるような形で次期自宅警備員の座を辞すると、そのままスライドするように副自宅警備員の座に収まっていた。
とはいえ当人はいまだ大学生の身分であり、本格的な就任はまだ当分先の話になるのだが、それでもこの自宅には事前に慣れておく必要性がある。
今日、社樹が自宅へやってくる。
一夜限りの限定宿泊ではあるが、その一夜がどれほどの意味を有しているのかは言うまでもない。
そして、ついにその時はやって来た。
鳴り響くチャイムの音にも慌てる事なく、継嗣は一歩一歩、落ち着いた足取りで玄関を目指す。
いつのまにか握りしめていた拳を解きながら、玄関のドアノブに手をかける。
万が一の敵襲に備え、ドアをゆっくりゆっくりと開いていく。
その先に立っていたのは、やはりあの義理の弟の社樹だった。
いつも継嗣の後を「兄様、兄様」とついてきた、可愛い弟の社樹だった。
だが、その姿を見た継嗣の顔が苦悶の相に歪む。
正統後継者から追い落とした罪悪感からではない。長らく放置し続けた後ろめたさからでもない。ましてや敵対心など微塵もなく。
継嗣はただただ、目の前にいる弟の姿が情けなかった。
「……久しぶりだな、社樹」
その男の容姿をなんと例えていいものか。
生まれついての黒髪は隅々まで悪趣味な金色に染まり、だらしなく着崩した衣服からは節操なく下着が覗いている。
過剰に身につけた装飾品は些細な動作でジャラジャラと耳障りな音を立て、いっそう男の気品を損ねていた。
「おっせえよ、兄貴ぃ。意識低いんじゃね?」
そう言って玄関先にツバを吐き捨てる、見るからに軽薄そうな青年が一人。
天才児と呼ばれたのも今は昔。これが今現在、東都圏副自宅警備員を務める義理の弟・守宮社樹の姿であった。
かつては愛らしかった義理の弟は、――――今ではすっかりグレていた。
――本日も自宅に異常なし!
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