過去語り その二(後):夢触れて灯火あり

 すでに雨は止んでいた。

 共犯となった少年少女は奇妙な連帯感を伴って、灯り一つない山道を下っていく。


 激しい雷雨が過ぎ去ってしまえば、後に残ったのは静かな夜だった。

 月も新たな姿に生まれ変わるべく今宵の空には不在となれば、いっそう闇夜は静かな印象を深めていた。


 深い闇と木々のざわめきに混じる二人の足音。それ以外は何もない静寂に、ほどなく無遠慮に腹の音が響き渡った。

 腹の音の主である少年は突然の生理現象に自身も呆れつつ、不確かな足取りでゆっくりと道を歩いている。


 我に返ってしまえばすぐさま空腹に襲われるというのも、なんとも現金な話である。

 少年・守宮継嗣やもり けいしはここ一週間ほど散々に己の身体をイジメぬいた反動から、鯨波子ときこに手を引かれて、ようよう氾濫しかけた河原から抜け出した。

 その後も一人で歩こうと意地を張ってみせたが、やはり歩行も覚束ないほどに体は限界に達していたようで、今は鯨波子の肩を借りながら、ふらつきながらもなんとか帰路を歩いている始末であった。


「はぁ……」


 女に担がれるような形で歩くみっともなさに、思わず溜め息も漏れてしまう。

 しかしこれ以上、落ち込んでも仕方がない。

 そう奮起するだけ気力はあり、継嗣はこれから先の出来事に意識を向けてみる事にした。


「ところで鯨波子」

「はい、なんでしょうか?」


 答えた鯨波子の方は、すでにいつもの温和な表情を取り戻していた。

 鯨波子は日頃から井森流の修練を積んでいる為なのか、一般の女子中学生よりは体力がある。

 中学生にしては背丈のある継嗣に身体を預けられながら、とくに苦にした様子もなく、どころか余裕を持って継嗣を気遣いながら、ゆっくりゆっくりと歩みを進めていた。


「自宅警備員になるとは言ったものの、俺には妙案が思い浮かばない。お前には何か腹案でもあるのか?」


 いざ奮起して立ち上がってみたはいいが、当面の問題は山積みである。

 なのに、どこから手をつけて良いものか、継嗣には皆目、見当すらつかない有様だった。

 ひとまずは煽って焚き付けてくれた首魁の思惑にすがってみたくなるのも人情だろう。

 ところが、鯨波子はこともなげに言った。


「ありませんよ」

「おい」


 まさかの腹案0だった。

 これでは八方ふさがりの状況は以前、変わっていない。

 継嗣の顔がよほど間抜けだったのか、鯨波子はクスクスと笑いを噛み殺しつつ続けた。


「今はまだ、としか言えません。長い長い河の流れの中にある、小さな石つぶてを見つけるような話ですから」

「……頼むから俺にも分かるように説明してくれ」


 継嗣も鯨波子の煙に巻くような言動には慣れたものだが、長く雨に打たれすぎたせいもあり、体調が優れない。

 手早く答えを欲しがる子供を諭すように、鯨波子は言った。


「あのですね、継嗣さま。自宅警備員の歴史って、長いんですよ?」

「……そんな事は俺でも知っている」

「いいえ知りません。継嗣さまだけじゃなく、私も知らないんです」


 継嗣は思いがけぬ返答に首をひねった。 

 鯨波子は幼くして『自宅警備心得』全巻を読破し、その一切を明敏な脳の隅々で記憶しているという希有な少女だった。

 その余暇で史書にも触れ、自宅警備員に関わるほとんどの知識を、その若い身の上で習得している事を何よりの自負としていたはずである。

 そんな彼女がさも当然の事であるように「私も知らない事がまだまだあるんですよ」と続けた。


「私が読んだ事のある書物は全て、代々において編纂へんさんされてきたもの。つまりは情報を選りすぐって作り上げられた本しか、私も目にした事がないんです」

「……まさか、それは『守宮蔵やもりぐら』の事を言っているのか」



 『守宮蔵』とは、かつて守宮自宅警備の開祖・守宮創冠やもり そうかんが守護した自宅脇にあり、今も健在している古めかしい土蔵の事である。

 何かと筆まめだった守宮創冠は『自宅警備心得』の執筆だけでは飽き足らず、己やその家族の近辺に起きた出来事までも詳細に書き残していた事でも知られており、その膨大な文章の大河とも呼ぶべき大量の紙片はすべて守宮蔵へと私蔵され、その業務を受け継いだ代々の管理役によって今も増え続ける史料はさながら知識の坩堝るつぼと化しつつあった。


「あそこにはまだまだ私も知らない、歴史の欠片が沢山埋もれているはずなんです」

「昔、一度だけあの蔵を覗いた事があったが、そんな大層なものには見えなかったぞ……」


 継嗣はかつて母に手を引かれ、守宮蔵の中を見学させてもらった事があった。 

 ところが当初はおびただしい紙で出来た山脈に圧倒されこそしたが、その内情は酷く拍子抜けだった。

 なぜなら最初に目に飛び込んできた当代史料の山、その頂に君臨する紙にはでかでかと「長男・継嗣、六度目のおねしょ」とだけ書かれていたのである。

 幼年継嗣はこんなものを後世に残してどうするつもりなのか、と抗議したが聞き入れられる事はなく、そうなれば積み重なった紙束の山もその正体が知れようというものだった。

 

「だからこそです。あそこには有象無象の区別なく、歴代自宅警備にまつわる情報が山のように眠っているんです」

「その中にヒントがあると?」

「ヒントまではいかずとも、何かきっかけのようなものさえ見つかれば、或いは……」


 歯切れの悪さだけが残ったが、鯨波子も不安なのだろう。

 五分五分どころの話ではない。あるかどうかも分からないものを膨大な紙の海から探し当てねばならないのだから不安が勝るのも致し方ない。 

 継嗣は半ば励ますように言葉を接いだ。

 

「たしか『守宮蔵』の管理は、四方里よもりの仕事だったよな。アテはあるのか?」

「四方里のご隠居とは何度か面識があります」

「……大丈夫なのか?」


 思ったより自信を感じさせる返答に、継嗣が不安を覚えたのはそこに挙がった管理者の名前のせいだった。

 四方里は守宮八分家の筆頭格であり、その家を取り仕切るご隠居はその家格に相応しく、折り目正しい厳格な頑固翁としても知られた仁だった。

 継嗣も何度か顔を合わせた事があるが、何かにつけて梅干しのような顔で怒鳴り散らすので苦手意識を感じていた。


「大丈夫ですよ。あのご隠居は女子中学生が好きらしく、何度か制服を見せにいったら大層、喜んでらっしゃいました」

「……本当に大丈夫なのか、それは」


 色んな意味で不安になる情報ではあるが、継嗣は切り替えて飲み込む事にした。

 今は人の心配をしている場合ではない。


「では任せてもいいか?」

「はい、継嗣さまは……」


 言い淀む鯨波子の、その先に接がれるはずだった言葉はなんだったのか。

 継嗣は笑いながら言った。


「俺は、自宅警備の技の研鑽に励む」


 封印を言い渡されたはずの、技能の解放。

 それは明確な犯意であり、現当主・守宮順敬やもり じゅんけいへの反逆を意味する。

 なのに継嗣は笑いながらそれを口にした。


 先刻は不遜に煽っておきながら、いざ冷静になると明確に反意を口に出せずにいる。

 そんな鯨波子のジレンマが継嗣は何やら可笑しくてたまらなかったのだ。だが笑っているうち、一つ、また新たな疑問が首をもたげてくる。

 それはここ数年、継嗣が抱え続けてきた疑問。そしてこれから更に数年に亘り、抱え続ける事になる鯨波子への疑問であった。

 

「なあ、鯨波子」

「はい、なんでしょうか?」

「その、この際だから、ついでに聞いておきたいんだが」


 継嗣はなぜか赤面していた。

 いざ面と向かって尋ねる機会がなかった、というのも勿論だが、それよりも聞いてしまえばたちまち崩れてしまいそうな、実に繊細な問題である事を第六感が告げていた。

 口火を切った今でも潔く踏ん切りをつける事が出来ずにいる。しかし、河原で心を開き合ったという確かな実感が、今このときばかり継嗣を後押しした。


「――――お前は何故、そこまで俺に尽くしてくれる?」


 鯨波子の吐息を間近に感じながら、その呼吸が止まったのが感じられた。

 恐る恐る顔を向けると、温厚な笑顔はそのままに、しかし思わず仰け反るような冷たさがそこにはあった。


「……それは『ついで』で聞く事なんですか?」

 

 やはり聞くべきではなかった。

 肩に回した右腕がぶるぶる怒りに内燃える鯨波子の心情を伝えてくる。

 継嗣は少女が何に怒っているのか理解できないが、それでも鯨波子の機嫌が今の一言で損なわれた事だけは理解出来た。

 鯨波子の細めた目の奥からいっそう底冷えするような瞳がのぞき、継嗣は顔を背けてしまった。

 

「幼き頃より当主様に貴方の補佐を命じられた。――――それ以上の理由が必要ですか?」


 それは長い付き合いの中でも数度しか聞いた事のない、芯から激怒しているときの声色だった。

 いまさら何を当たり前の事を。

 突き放すような物言いにしても、尋ねた己のおろかさにしても、継嗣は後悔し、謝罪した。


「すまん。つまらん事を聞いた」

「……そうですね。そう、本当に、つまらない事を聞かれました」


 そう吐き捨てると、鯨波子はとうとうそっぽを向いてしまった。

 鯨波子が忠義を尽くしているのはあくまで守宮の家であり、己ではない。

 命懸けで自分を説得し、命懸けで自分を再起させたのも、ひとえに当主から下された使命に殉じている為に違いない。そんな当然の覚悟を今さら尋ねられれば、怒るに決まっている。申し訳ない事を聞いてしまった、と継嗣は反省した。


「本当にすまなかった。つまらん事を聞いたな」

「……ええ、そうですね」


 しかし、心から謝罪しながら、大きな矛盾を感じるのも事実であった。

 当主の命に従いながら、当主の意に背いている。二律背反たる鯨波子の言動に疑問を感じないわけではない。

 背けた鯨波子の微妙な顔色など露知らず、拒絶された後ろめたさから次の言葉を見失い、継嗣は何か閃きのきっかけを探すように視線を遠い彼方に投げた。

 ――――そして、全ての疑問を忘れ去ってしまった。


 光。

 光。光。光。大地に広がる満天の光。

 月も隠れた闇夜の中、山道から遠く見える街の灯はさながら星の海のようであった。 

 手を伸ばせば掌中にすっぽり収まってしまいそうな地上の星の輝きに、継嗣は一目で心奪われた。


 その輝きひとつひとつが自宅に灯る光。

 その輝きひとつひとつに人々の暮らしがある。

 それはまさに歴代の自宅警備員が護り育んできた、そしてこれからも護られるべき東都の平和を象徴するような景色だった。

 

 そのきらめきが網膜を焼く度、継嗣は全身の血が沸き立ち、昂るのを押さえきれなかった。

 ぶるり武者震いすると鯨波子に預けていた体を引き戻し、先程までの衰弱ぶりが嘘だったように、継嗣はその足で直立した。

 あとは猪突猛進、振り向きもせず街に向かって歩き出す。

 そんな継嗣の後ろで溜め息をこぼす鯨波子など気にも止めない。

 

 それはもはや自宅警備員の本能とも呼ぶべき衝動だった。

 猛火に飛び込む蛾のように。電灯に群れる蛾のように。

 自宅の光に吸い寄せられる意識の昂りを、継嗣はついに収める事が出来なかった。

 全ての疑問も捨て置いて、煙噴くような衝動のまま、山道を駆け下りていく。

 

 かくして継嗣は、ようやく自宅を目指して歩き始めた。 

 何かが進み、そして何かを掛け違えたまま青春の一幕は、ここでひとまずの幕引きを見せる。



 ■  ■  ■



 事態の進展は、それから数ヶ月の後の事。

 守宮蔵に渦巻く知識の坩堝から、鯨波子はついに一片の紙切れを発掘する。


 そこに書かれていた物語は、かつて五代目を継いだ守宮家の自宅警備員がとある過ちから継承権を剥奪されたものの、その才能を惜しんだ他圏の自宅警備員から推薦を頂戴し、見事、自宅警備員に返り咲いたという、広く知られざる史実であった。


 しかし前例はあくまで前例。真実、この通りに叶ったところで自宅警備員の道が開けるかどうかは定かでない。

 それでも継嗣は出立した。

 

 守宮継嗣、高校生の夏。

 神州全国48圏、自宅警備員巡りの旅。

 

 旅の中、継嗣は多くの人々と出会い、多くの拳を交える事になる。

 しかし、それはまた別の話。

 旅の道程は決して生易しいものではなかったが、継嗣は一度たりともその日々を地獄だとは思わなかったと云う。

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