過去語り その二(前):夢破れて山河あり

 『再起』とは、何であるか?


 再起とは、手折れた花でありながら、踏まれてなお咲き誇ろうとする気高き雑草の魂である。

 再起とは、とうに命は枯れ果て朽ちた樹木に息吹く、瑞々しくも猛々しき新芽の志である。


 少年の青春は、誰よりも深い失意の底にあった。

 いくら目を開けどまぶたを閉じた如き闇が、どこまでもどこまでも果てしなく取り留めもなく広がっていた。

 それでも余りある若さが闇を手探る怯懦きょうだを許さず、がむしゃらに闇を切り裂くよう駆け抜けては、無意味な空転の日々を繰り返していた。


 果てに迷い込んだ袋小路。行き着くところまで行き着いた失意の底に、少年は何を見るのか?

 守宮継嗣やもり つぎつぐ、中学生の秋。


 ――いまだ彼は、自宅警備員ならず。




 ■  ■  ■




 神州数多の圏を束ねる首都・東都とうと圏。

 そこには、必然、行政から商業に至るまで大小様々な分野の本丸となる施設が軒を連ねていた。

 まさにこの世の栄華を極めた華やかなるビル群。しかし、その影を見るに、発展という大義名分の元、野山を削り、そこに本来在ったはずの自然をどこかに追いやってしまった後ろめたさを感じなくもない。


 それはさながら全身を武装した鎧姿の臆病者にも似て、無愛想なコンクリートが出迎える町並みは、どこか無機質な印象を感じる異圏人も少なくはない。事実、他の圏からはおよそ自然とは縁のない場所と頭から決めつけられる事も多かった。

 しかし、都市の中心部から足を伸ばせば、のどかな山野や河川がひょっこり顔をのぞかせる事は、そんな首都を地元として生きる者にとっては至極、当然の事であった。



 今、継嗣が一人で黄昏れている河原も、そんな残された自然の一つだ。

 町中では目立たない継嗣の学生服姿も、白い石が積み重なって出来た河原においては黒い異点となって悪目立ちをしている。

 あまつさえ若者らしからぬ座禅の態で川の流れを見つめているものだから、たまに通りがかった通行人からは奇異な目で見られてしまうのも無理はない。

 しかし、継嗣はそんな部外者の視線は意にも介さず、黙々と、没入するように川の流れをただただ見つめ続けていた。


 何となれば、工業汚染にまみれた河川はお世辞にも清らかとは云えない濁流ではあったが、時折、日差しを水面に反射する輝きがジクジクとした心を刺し貫いてくれるようで心地よかったのだ。

 だがそんな心地よさも、ふいに空にかかる黒雲に遮られてしまう。

 継嗣はそんな空を仰ぎ見て、一つ溜め息に流れると、また誰に言うでもなく独り言ちた。


「……何もかも、上手くいかないもんだな」



 ■  ■  ■

 

 

 あの告白事件から数年。

 中学生になった少年・守宮継嗣には、血の繋がらない1人の弟が出来ていた。

 継承権を剥奪された継嗣の代わり、どこからか連れてこられた義理の弟の名は、社樹やしきと云った。


 社樹が自宅にやって来たあの日の事は、今でも克明に思い出す事が出来る。

 自宅警備補佐官である須藤に手を引かれて、おずおずと玄関先より姿を見せたのは年端も行かぬ小さな背丈の男の子。

 その姿はあまりにも幼く、年は継嗣より4つも下らしいがそれよりも幼く見えた。

 大声で泣き出しこそはしないが、大きく黒い瞳には涙を溜めて、須藤の足の隙間から盗み見るよう、じっと息を殺してこちらを見つめていた。


 これが新しい家族との初めての挨拶だというのに、須藤の後ろに隠れたまま一声も発しない社樹の未熟さは、見ているこっちが気恥ずかしくなるほどだった。

 そんな義弟の姿に、不安を覚える継嗣を誰が責められようか。

 不満よりも先に不安が出たのは、ひとえにこの幼子に、自分が剥奪された自宅警備員候補の後釜が務まるのか、という心配にも近い疑念だった。

 だが、それは杞憂だった。


 社樹はそれからしばらく借りて来た猫のように家人にびくびくしながら暮らしていたが、数日もして家に馴染み始めると、持ち前の明るさを表に見せるようになった。

 これまで他人だったはずの夫婦に「父様」「母様」と気兼ねなく甘えだし、自宅をまさに我が物顔で走り回る。

 そんな社樹の変化は実に劇的だったが、何より不思議なのが義理の兄である継嗣を慕って、その後を追いかけ回し始めた事が何にも勝る奇妙だった。


 まるで初対面とは感じさせぬ馴れ馴れしさで、「兄様」「兄様」とまとわりついてくる社樹。

 その変化を見た当初は没落した義兄を侮り、小馬鹿にしているのではないかと憤りかけたが、その無垢な瞳に射抜かれては好意を疑う余地はなかった。

 社樹とて自分が養子に迎えられた事情については聞かされているはずである。いざ言葉を交わしてみると、それを理解できぬほど幼い訳でもない。

 ならば、何故、この義理の弟は不出来な兄を慕うのか?



 継嗣はその答えを求める間もなく、逃げ出した。

 あれこれと理由をつけては自宅から遠ざかり、無邪気な義理の弟から目を背けようとしたのである。


 いっそ不出来な兄だと軽蔑してくれれば、どれだけマシだった事か。

 もはやあの義弟にどう接するべきなのか継嗣には分からなくなっていた。


「血の繋がらない架空の妹なら対処法も分かるんだがなぁ……」


 そんな風におどけてみても気分は晴れず、答えは依然として雲のように不確かなまま揺れている。

 いや、既に答えは出ているのだ。悪いのは全て自分であり、可愛い義弟に落ち度などあろうはずもない。継嗣は怖かったのだ。

 社樹ではない。何にも増して恐ろしいのは社樹を前にした時に湧き上がる、反吐を吐きたくなるような心持ち。

 純真な心を向けられて、なお浮き彫りになるのは醜い己の嫉妬心だけだった。


 継嗣が社樹と初めて出会ったあの日。

 浅はかにも継嗣は社樹の資質を侮っていた。その幼さを見くびっていた。

 つまりは、見下していたのだ。


 継嗣は自然とうなだれて、目に入ったのは足下に転がっている河原の石。

 言わずもがな、河原の石とは山から転げ落ちたものが川の流れに乗って運ばれ、水流や障害物によって研磨され、丸みを帯びている。

 継嗣が何気なく拾い上げた石もまた、その多くの例に漏れず、つるつるとした触り心地に独特の湿りを伴い、ぬらりとした光沢を放っていた。

 それは何の変哲もない、ただの石ころである。――――ある一点のみを除いては。


 その石は、見事な半月の形をしていた。

 かつては楕円を描いていたであろうその輪郭は真っ二つに叩き割られ、代わりとばかりその断面には磨きぬいた鏡のような輝きを露にしている。

 自然に割れただけではこうはならない。何か人為的なものがなければこうはならないはずだった。

 だが継嗣はその事について、何の疑問も抱かなかった。

 なぜなら今、継嗣のいる河原は思い出の場所であった。


 かつて継嗣は父に命じられるまま、この河原でその貧弱な拳を振るい、積み重なる石たちに己の血を染み込ませ、泣き暮らしてきた。

 そして、そんな努力の甲斐もあって、ついに河原の石を叩き割る事が出来たあの日の高揚は今でも夢に見る。

 ここは、そんな思い出深い修行の土地である。


 それは継嗣に残された、わずかな成功の記憶であった。

 たとえ継承権を剥奪され、守宮流の技を封じられたとしても、その誇りの源泉だけは失わずに済んだのである。 

 しかし、継嗣はそんな甘美な記憶にすがるように足を運んだこの場所で、新たな絶望を目にした。



 継嗣の手にあるその石は、かつて継嗣が割った石を遥かに凌駕する、熟達の域に踏み込んでいる。

 あらためて、継嗣はその景色を眺めて戦慄する。

 手のうちにある石だけではない。見渡す限り河原に積み重なる石つぶて、その全てが無惨にも半月状に叩き割られていたのである。


 この恐るべき景色を作り上げたのは誰か。もはや考えるまでもない。

 恐るべき才能。恐るべき素養。恐るべき義弟――――守宮社樹の仕業である。

 そして継嗣より社樹こそが、自宅警備員になるに相応しい才能を秘めている事は、もはや否定しようがないほどに純然たる事実であった。


 

 ■  ■  ■



 それからどれだけ呆けていたのか。

 継嗣が気がついた頃には陽はとうに沈みきり、辺りは暗闇に没していた。

 そこで示し合わせたように、空に立ちこめた暗雲から一粒、こぼれ落ちた雫が継嗣の頬を打つ。

 するとたちまち後続の雫は群れとなって継嗣の全身に弾け、黒い学ランを一層黒く染めぬきながら、その汚れを洗い流していく。

 先程まで川のせせらぎしか聞こえなかった河原が一転して、豪雨の気配に支配された。


 なおも勢いを増していく雨の中、それでも継嗣はそこから一歩も動こうとはしなかった。

 どころか、終いに体を大地に投げ出して、あとは雨のなすがまま、その身を降雨にさらけ出してしまう。


 このままいっそ雨に流されてしまうのも悪くない。

 言葉にしてしまえばそんな気持ちだったが、それを幼稚な逃避だと自虐する己の声も聞こえてくる。

 逃げてしまえば心だけは楽になる。だが元来の性質からして真面目一徹に出来ているものだから、安易な逃避を自身が許せずにいる。

 次々に聞こえてくる叱咤罵倒する声も、猛り狂う声も、嘆き哀しむ声も、全ては自分の声だった。


 そこはまさに八方ふさがりの袋小路であった。

 中には諦めの声もある。慰める声もある。従ってしまえばそのまま泥に沈むような甘い響きが体を支配してしまう。

 それを自制する声もある。激励する声も、奮い立つ声も、やはり己の声であり、やはり己の意思であった。


 だが、その前向きな意思も産まれる度にすぐ消え失せる。

 あの純粋な天才児が頭をよぎれば、儚い意思などたちまち真っ二つに叩き割られてしまうのだ。

 意思が石であるならば、この割れた石が転がる河原はまさに継嗣の心中を表したものに違いない。

 その景色に降り落ちる雨飛沫が涙でないと、誰が言いきれるだろうか。

 継嗣自身、もはや潤んだ瞳に溜まる水滴の正体が何なのか分からなくなっていた。

 

 視界に広がる雨粒は一層、勢いを増して降り注いでいる。

 継嗣は背中にひやりとした水気を感じ、川がにわかに増水している事に気がついた。だが、そんな危機すら一笑に伏すと、決して動こうとはしない。

 このままでいれば直にその体は河川に飲み込まれる。

 それはもはや自殺に等しい、自棄行為だった。


「……出来れば、畳の上で死にたかった」


 無念の言葉を吐きながら、継嗣はついにまぶたを閉じた。

 あとは野となれ山となれ。継嗣はいよいよもって思い知った。

 自分はあの日――継承権剥奪を言い渡された日――に死んでいたのだと。

 若き命を惜しんで助命嘆願して下さった御歴々には申し訳なくも思うが、やはり自分はあの日に死んでいたのだ。


 そうとなれば、後の人生など屍に等しい。

 巡り巡ってようやく行き着いた場所が思い出の河原というならば、これ以上の果報は望むべくもない。

 もはや今生にすがるまいと、その意識すら手放しかけた、その時だった。


 継嗣の顔を洗っていたはずの雨が突如、失せた。

 しかし依然、耳には叩きつけるような雨音が響いている。継嗣はある予感と共に、重いまぶたを開く。


「……お前か、鯨波子ときこ


 果たして継嗣の予感は的中した。

 雨音に紛れて現れた鯨波子は、すでに時刻は夜中だというのに未だ継嗣と同じ中学指定の制服のまま、雨傘を差して立っていた。

 寝転がった態勢の継嗣からはその表情を窺い知る事は出来ないが、唇だけがわなわなと震えているのがかすかに見えた。

 いつもへらへら笑顔が身上の鯨波子にしては珍しい有様だ。しかし、もはや継嗣にはそんな事はどうでも良かった。

 視線は交わせど物言わぬ継嗣に、鯨波子は堪りかねて口を開く。


「……何をし……いえ、継嗣さま。この、何をなさっていたんですかっ!?」


 ――――この状況を見て、今さらその話か。

 鯨波子の珍しい狼狽っぷりを嘲笑いながら、継嗣は答えず、しかし呆れながらも心中ではしかと答えていた。


 表向きはサッカー部の合宿に同行するという口実でしばらくの不在を告げ、自宅を後にしたのがもう数日も前の話になる。

 しかし、継嗣は合宿には行かなかった。


 送迎バスを見送ると、あとは行く宛もなく学生服のまま町を徘徊し、眠気が襲えば気兼ねなく路上に体を預けて眠る日々を送った。

 しばらくして金が尽きると、今度はまるで獣のように食糧を求めて山河に下った。

 幸いにも季節は秋だったので、手当り次第に自然の恵みを詰め込んでは餓えや乾きをしのいだ。

 見れば、継嗣が着ている制服も、本来の頑丈な作りに反して、ところどころが解れ痛んでいた。

 鯨波子はその様子を実に痛々しそうに見つめ、言った。


「……柳原やなぎはらくんに聞いたら、合宿にも来てないって」


 柳原とは、継嗣が懇意にしていた同じ中学のサッカー部部員だった。

 青春をサッカーのみに燃やすサッカー小僧であり、むやみに血の温度が高いところが妙に継嗣とウマが合う気持ちのいい少年であった。

 継嗣とは交友関係にあり、事あるごとに柳原家に転がり込んでは最低でも週に3日ほど寝泊まりしていたのだから、自然、胸襟開いた親友同士という事になる。


 しかし、なぜかそれまで素知らぬ顔で聞き流していた継嗣の顔が、その名を耳にしたとたん苦悶に歪んだ。

 そして、一言。


「――――失せろ、鯨波子」


 ようやく口を開いて出てきたのは、拒絶の言葉であった。

 だが、鯨波子がその言葉に反応する前に、さらに継嗣は前言を翻して、「いや、待て」と呼び止めた。


「……お前は、俺を見てたんだよな?」

「え?」


 それはあまりに唐突な問いかけだった。鯨波子には継嗣の質問の意味するところが分かりかねた。

 既にして自殺の態を取っているのだから、言動が常軌を逸していても不思議ではない。しかし、その口ぶりからは澱みのない、澄んだ意思だけが感じ取れる。

 鯨波子の混乱を見て、継嗣は言葉を継いだ。


「お前はずっと俺を見ていたはずだ。お前から見て、――――俺はどうだった?」


 やはり意味が分からない。

 鯨波子が答えられずにいると、今度は継嗣が堪りかねて、その事情をようやく吐き出した。


「柳原に言われたんだ……『真面目にサッカーやる気がないなら部を辞めろ』って……」


 


 ■  ■  ■



 継嗣は継承権を剥奪されて以降、父である守宮順敬やもり じゅんけいから伝授されてきた技の全てもまた、他の権利と同様に使用を禁じられていた。

 この取り決めによって日常生活における、ありとあらゆる場面においても、その技芸を注意深く封じて暮らさざるを得なくなった訳だが、しかしこれはそもそも継承権を持っていてもほとんど同じ事が云えた。

 自宅警備の技は世人に秘するべきところであり、能力を隠して一般人を装う労苦は自宅警備員に関わる全ての家系が抱える宿命とも呼ぶべき業であった。

 継嗣と他との違いはあくまで技の封印という一点のみであり、故に継嗣自身、その取り決めを軽く受け止めていた感も否めない。

 

 だが世に、三つ子の魂百までと云う。

 幼き頃より叩き込まれた守宮の秘奥は、継嗣の心身から魂に至るまで深く刻み込まれており、何気なく駆け出したその一歩にも技術を持ち出さぬよう、注意深く走らねばならなかった。

 継嗣もそれを不服とはせず、むしろ己に課せられた枷なのだと義理堅く、必要以上に注意をこらして守宮の技を封印する事に努めていた。



 そんな日々の中折り、自宅警備員の道を閉ざされ、手持ち無沙汰になった継嗣は、ある頃から友人から乞われて運動部に籍を置くと、その青春の熱気をスポーツで発散させる道を選んだ。

 元より運動が好きな少年だったので体を動かす事は何よりも楽しく、熱中する一時であれ、自宅の事を忘れられる部活動はたちまち継嗣を虜にした。

 だがしかし熱中すればするほどに、継嗣は自身に課せられた枷の重みを思い知る事になる。


 例えばそれは、目の前に落ちたこぼれ球をとっさにゴールポスト隅に蹴り込もうとする瞬間。

 例えばそれは、走者満塁の場面において豪速球を遠い彼方へ打ち飛ばそうとする瞬間。

 例えばそれは、重い水中を切り裂くためにあと2本のキックが必要になった瞬間。

 例えばそれは、レイダーとして深く切り込んだ敵陣で息が途切れかけた瞬間。


 とっさの瞬間、全力で体を動かそうとする刹那に顔をのぞかせる守宮流の息吹が、継嗣の体を竦ませた。

 それは目に見えて結果となって現れ、継嗣はここぞの場面に出会すと決まって重大なミスを犯した。


 たしかにそれは主観で見れば、やむなき事態と言える。

 しかし第三者の視点は違う。事情を知らぬ他人から見れば、それはただの怠慢にしか見えなかったのだ。

 それでも継嗣は必死にそれを誤摩化そうとした。

 誤摩化せたつもりでいた。


 破綻はすぐに訪れた。

 最初にその体質を指摘したのは野球部の面々。次にバスケ部、水球部、ラグビー部、バレー部、カバディ部。

 継嗣は掛け持ちしてきた全ての部活動において、それぞれ違う形ではあれ、最終的に除籍処分に追い込まれた。

 最後の綱だったサッカー部も、必死に影で擁護を続けてきた友人が限界に達したところで、とうとう破綻を来たしてしまう。

 合宿へ向かうかつての友人たちのバスを見送って、継嗣の前途はついに袋小路へと迷い込んだ。



 ■  ■  ■



「……なあ、鯨波子。俺は真っ当に『普通の中学生』をやれてなかったんだろうか?」


 本来なら中学生という時期は、数限りない将来を夢想する事が許された時期でもある。

 にも関わらず、継嗣は不幸にも未来の道を閉ざされていた。

 自宅警備員としての道も、ただの中学生としての道も、どちらも継嗣の入道を拒み、放り出した。

 事の発端のみを取り出して自業自得と結ぶには、あまりにも酷な現実が継嗣の前に壁となって立ちはだかっていた。


 継嗣の問いかけに、全てを察した鯨波子は答えられなかった。

 しかし無言で息を飲む鯨波子の沈黙は、即ち、問いへの肯定だった。


「そうか……。出来てなかったか」


 力ない継嗣の声に、いよいよ鯨波子は顔を背けてしまう。

 それは目の前の現実があまりに惨たらしく、正視に堪えなかったからに違いない。



 振り返ってみれば、あの事件からすでに数年の月日が流れていた。

 当時の継嗣は生まれながらの虚弱体質であり、他と比較してもあまり発育が良くない子供だったはずだ。

 ところが中学に上がり、継嗣の丸い喉が尖り始めた頃、劇的とも云える変化が起きていた。


 もはやそれは変貌と呼ぶべきものかもしれない。

 男子三日会わざれば、とは故事に由来する言葉だが、まさしく継嗣の肉体はそれを体現するように刻々と変化した。

 低かった背丈はいつしか同級生の中でも突出し、袖や裾から時折のぞく腕や足には筋肉の凹凸が日に日に存在感を増していく。


 ずっと傍でその変化を見つめてきた鯨波子には、その変化が痛ましすぎた。

 なぜならば、その体躯こそ『自宅警備心得』にも記された、理想的な自宅警備員の身体的特徴と一致していたからである。

 

 一般人として生きる事を余儀なくされた継嗣に、皮肉にも自宅警備員として相応しい肉体が備わりつつある。 

 この過酷な状況に、鯨波子は一抹の不安を抱かずにはいられなかった。

 果たしてそれが現実となってしまったのである。


 人生を賭して目指した進路を断たれ、そして逃げ込んだ退路すらも断たれた継嗣の自棄を、一体、誰が責められようか。

 悲嘆に暮れる鯨波子をよそに、継嗣はようやく現れた理解者を前にして口が軽くなったのか、せきを切ったように己の無念を語りだした。


「……俺は思うのだ。あの弟、あの社樹こそが自宅警備員になるべくして生まれてきた男と云うやつなんだ。才能にも恵まれ、屈託もなく、純粋に拳を振るう事が出来るアイツこそが自宅警備員に相応しい」

 

 継嗣は義弟への美辞賛辞を口にしながら、その表情だけがみるみる歪んでいく。

 言葉の切れ間に片手だけ上げると、鯨波子に周囲の景色を見るよう促した。


「……俺は思うのだ。この景色を見てみろ。アイツの才能は俺などとは比較にならない、まさに天下の逸材という奴だ」


 ――だからこそ、自分はもう必要はない。

 継嗣の語る無念は、長々と言葉を述べ連ねながら要点はそこにのみ集約されていた。


「……俺は思うのだ。社樹が自宅警備員になる事。これはもはや守宮家のみに留まらない神州の総意であり、まさしく神の意思なのだろう。そこに異論を挟む余地などあろうはずがない」


 言い切る言葉だけが強く、それでいて空々しい語りだった。

 徐々に増していく水嵩みずかさと共に、無念の言葉だけが積み重なっていく。


 当代最強と謳われた自宅警備員・守宮順敬の後釜に、稀代の天才児たる守宮社樹が収まる。

 もはや守宮家の未来は盤石であった。そこに異論を挟む余地など微塵も残されてはいない。

 ――――だが、そこに異論を挟むものがいた。

 

「……?」


 初め、継嗣はそれを雨だと勘違いした。

 しかし顔に降り掛かる謎の雫はどこか熱を帯びていて、そもそも雨傘に遮られたこの状況で顔に雨などかかろうはずもない。

 放心して間抜け面のまま見上げると、また数滴の水粒が落ちてきた。

 それが涙であると知れば、落涙の主が誰であるかなど考えるまでもない。しかし継嗣はそれよりも鯨波子の唇こそを凝視した。

 かすれる声は今なお降りしきる雨音に飲み込まれ、継嗣の耳には届かない。

 しかし唇の動きだけはハッキリとした鯨波子の意思を表していた。


 ――――わたしがイヤです。


 秋の豪雨に立ち尽くし、寒々と凍える鯨波子の唇は、震えてなおも継嗣に思いを告げていた。

 それでも何かの勘違いだろうと継嗣は首を振った。

 そして、自慢の聞き耳を立てると、やはり信じ難い言葉が形となって継嗣の耳を横切った。


「わたしが、イヤなんです。継嗣、さまが、自宅警備員になれない、なんて……」

「……ふっ、ふざっ――――」


 継嗣は理性のくびきが引き千切られる音を聞いた。

 ――――他の誰ならいざ知らず、あの事件の発端となった鯨波子にだけは。


「ふざけるなッ!」


 継嗣は勢いよく起き上がり、鯨波子の胸ぐらを掴むと、そのまま将棋倒しになる。

 水飛沫を上げながら、鯨波子は小さなうめき声をあげて倒れたが、そんな事は気にも止めず、継嗣は詰め寄り、覆い被さった。


 それは鼻先が擦れ合うほどの距離。息吐けば互いの頬を湿らせるほどの距離。

 持ち手を失った傘は風に煽られいずこかへ消え、二人は全身を雨に晒しながら、それでも見つめ合ったまま動かない。

 継嗣はその瞳をいっそう危うく濁らせ、鯨波子は赤くなった瞳を反らさず、両者はその瞳に互いを写し合っていた。


 継嗣は荒く鼻息を噴いた。乱暴に扱われ、なおも毅然とした鯨波子の態度が何よりも業腹だった。

 当初は相手の出方を窺うつもりでいたが、だんまりを決め込む鯨波子に正体の分からぬ苛立ちだけが先走る。

 たまらず向かって吠える。


「誰のせいで……誰のせいでこんな事になっていると――――!」


 しかし、言いかけて、継嗣は愕然とした。

 罵声を浴びせようとして、衝いて出た言葉は紛れもなく継嗣の本音。


 ――誰のせいでこんな事になっているのか?

 決まっている。それは継嗣自身が犯した過ちのせいである。


 ――そんな事は分かっている。自覚している。

 誰かに同じ事を尋ねられれば、「自分が悪い」と継嗣は殊勝にもそう答えたはずである。

 しかし、継嗣はこの土壇場になって、この期に及んで自分の口から放たれた言葉に絶句した。


 何もかも自業自得。そう潔く結論づけたつもりでいて、もう一方で確かに心のどこかで思っていたのだ。

 ――鯨波子さえいなければ、こんな事にはなっていなかった。



 なんと見苦しい本音。なんと浅ましい本性。

 日頃、あれだけ綺麗事を並べておきながら、いざ袋小路に追い込まれて出てきたのは、醜い、醜い、他人への八つ当たりだった。


 気付いてしまえば、その怒りがたちまち自身に向けて逆転する。

 そうなってしまえば、もはや継嗣は石のように固まってしまうしかなかった。

 雨に打たれ、継嗣の顔色は見る見るうちに青ざめていく。全身に流れる血がその一滴まで雨に洗い流されたように血の気が引いていた。

 そんな激情のほとばしりを見届けて、今度は鯨波子が口を開く番だった。


「――その通りです。でも違います。何もかも貴方のせいです。貴方があの時、あんな事をおっしゃらなければ……」


 言葉が尻すぼみになったのは、気力が萎えたからではない。

 むしろその一言で、鯨波子の胸の内が激情に溢れかえったようだった。


「貴方は未熟者です。私だって未熟者です。でも、未熟だから、未熟だからって、まだどうなるかわからないでしょうっ!?」


 今度は、鯨波子が吠えた。

 それは古い馴染みの継嗣ですら聞いた事のない、鯨波子の声だった。


「なんでそうやってすぐに結果だけ出そうとするんですか!? なんですぐに結論だけ出そうとするんですか!? お願いです、継嗣さま。まだ終わらせないで下さい!」

 

 その小さな全身を溜め込んだ空気が一息に尽きるような叫びだった。

 やはり鯨波子は得体が知れない。あの澄ました女のどこにこんな激情が潜んでいたというのか。


「だって、まだ、何もやってないじゃないですか!」


 驚くよりも不思議に思う気持ちが勝っていたが、それでも継嗣の耳に言葉は届いていた。

 だがそれでも心には響かない。

 いくら鼓舞されても、いくら焚き付けられても、いっそう冷えた心からは燻る煙すらも上がらない。

 

 継嗣はもはや観念した。

 かつて一度は愛した女にここまで言わせておいて、それでも奮い立たぬ己の惰弱さにほとほと嫌気が差した。 

 もはや何かを口にする気力も湧かない。すでに何もかもが遅きに逸していたのだ。

 継嗣は押さえつけていた鯨波子を解放すると、後ろに力なくへたり込んだ。


 腰砕けになった様はさながら糸の切れた凧のようである。

 継嗣は語らずとも、そのみっともない姿を見せる事で鯨波子に諦めるよう諭したつもりだった。

 しかし、鯨波子はなおも諦めきれないのか、ゆっくりと継嗣の前に立ちはだかる。

 既にして全てが他人事のように思えてきた継嗣は、今さら何を言われたところで心に響くものがない。


 ――――言うべき事は、全て言い切った。

 一切合切を吐き出した以上、もはや残っているものなどありはしない。

 あとは、じきここに満ちる水に洗い流され、綺麗さっぱり消えてなくなる。そうと思えば、いっそ清々する。

 世俗を吐き捨てた賢者の雰囲気を纏いつつある継嗣に、鯨波子はなおも食い下がろうとする。


「……最後に、一つだけ聞かせて下さい」


 ――――今さら何を聞くというのか。

 どちらにせよ、継嗣はいかなる質問にも答えるつもりがなかった。

 もはや無駄な問いかけだった。すでに無用な問いかけだった。

 それは無意味な問いかけ。――――のはずだった。


「継嗣さまは、何になりたかったんですか?」


 その言葉に触れて、継嗣の心臓が上下した。

 

「答えて下さい、継嗣さま。志した道を閉ざされ、日陰で生きる道も閉ざされ、その上で、貴方は何になりたいのですか?」


 脈打つ鼓動が、全身の隅々にまで新たな血液を送り込む。

 今にも沸騰しそうな高熱の激流は、青ざめていたその心身の端々にまでほとばしり、なおも勢いを増していく。

 継嗣は重い鉛のようなアゴを無理矢理にこじ開けた。


「……お、……」


 その身に流れる血液はその一滴に至るまで、代々にて受け継がれてきた奔流である。

 その資質を疑われ、その資格を奪われ、その技能を封じられて、


「……俺……は……」


 それでもなお、その身に流れ続ける歴代の血脈。

 生き方を曲げ、心は折れて、無様にその身が砕け散っても、それでも熱く燃え盛る血の流れ。


 継嗣は吐く息も絶え絶えに、しかし、それでも確かに言葉を刻む。

 全てを吐き出し、もう自分の中には何も残っていない。そう思いこんだ中、最後に残っていたその言葉を――。

 それは暗雲から吐き出された稲妻が闇を切り裂いたのとほぼ同時であった。

 

「……俺は――――自宅警備員になりたいッ……!」




 周囲に轟く雷鳴を、さらに上回る大音声だいおんじょう

 そのたぎりこそ、正しく自宅警備員の血。

 その血潮こそが、正しく自宅警備員の末裔たる者の姿だった。


 噴き上がるような血潮に押し出され、継嗣はいつの間にか奮起していた。

 身なりはボロで、雨に打たれ続けたその身は土気色に近い。しかしそれでも炯々けいけいとした眼差しだけが復活の兆しを告げていた。


 だが同時に、降り落ちる雨粒さえ蒸発しそうなその身の熱気が、いかに無為なものであるかも自覚していた。

 ――――なりたい。なりたくない訳がない。しかし、そう思ったところで俺には……。

 なおも鳴り止まぬ雷の切れ間、涙まじりの鼻声が聞こえる。


「だったら、なれば、いいじゃないですか」

「……お前……何を言って……」


 継嗣は鯨波子の言葉に戦慄した。

 それは己にかけられた大恩を手ひどく仇でつき返せとそそのかす悪魔のささやきのようにも聞こえた。


 今の継嗣が置かれている状況は、誰に問うても自業自得と括るほかにない。

 ましてや本来なら自害して責任を取るべきところを、親戚一同に助命嘆願までしてもらい、ようよう生き長らえている身の上である。

 実子の過ちに養子まで迎え入れ、守宮家の未来を盤石のものとした両親への負い目もある。


 鯨波子はそれらを反故にして、反逆しろ、と言っているのである。

 云ってしまえば、それは今生、有り得べからざる不義理であった。


「……許されるのか、そんな事が」

「許されるわけがありません」


 今度は逆に追いすがるような継嗣の言葉を、鯨波子は一言で斬り捨てた。


「許されるわけがないじゃないですか」

「……なら、どうしろと言うんだ!」

「それでもやるんです。いつまで格好つけてるおつもりなんですか、継嗣さま」


 まるで嘲弄するような口ぶりで、しかし顔は笑ってなどはいなかった。

 真剣な面持ちのまま、鯨波子は告げた。


「義理とか、体裁とか、そんなものがそんなに大事ですか? そんなものの為に……」


 鯨波子の言葉はそこまで言って途切れてしまう。しかしその先は言わずと知れていた。

 そんなものの為に――――死んでいいはずがない。


 自らを罰する正善。

 不遇を受け入れる覚悟。

 潔く散れば本望。

 ――――ずいぶんとかっこいいじゃないか、守宮継嗣。


 継嗣は思わず歯嚙みしたのは、これまで己が掲げてきた数々の美辞麗句がその実、ただの逃げ口上に過ぎなかった事を、このギリギリの瀬戸際になってようやく思い知らされたからだった。


「つまりは、『足掻け』というのか……」


 みっともなく、みじめに、浅ましいと笑われても、誰に後ろ指さされても、それでも前に進もうとする意思。

 今にして思えば、修行の日々の中で父が語っていた自宅警備員の在り方も、そう云った矜持なのではなかっただろうか。

 世人に笑われようと、世人に侮られようと、世人に蔑まれようとも、それでも世の人々の為に在る。

 それが自宅警備員の、継嗣がその生涯を賭けてまで焦がれてきた生き様ではなかったのだろうか。

 

「成ってやる……! 何を為してでも、自宅警備員に……!」


 口にしてしまえば、それは至極簡単な事だった。

 あとはその身の昂るままに、立ち上がるだけでいい。


 鯨波子は溢れる涙を拭い、その様を見届けていた。

 一族が連綿と織りなす歴史の中に、また一つ新たな出来事が刻まれる、その瞬間を。


 『自宅警備員』とは、一介の職業を指す言葉ではない。

 『自宅警備員』とは、社会的立場を表す言葉ではない。

 その生き様を指してこそ語られる、誉れ高き言葉なのである。

 ならば、この時この瞬間を書き記す、これ以上に相応しい言葉があるはずもない。


 ――――東都ニ新タナ自宅警備員、誕生ス。

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