第9話:ひとまずおやすみ!自宅警備員!
『未熟』とは、何であるか?
未熟とは、どこまでも頼りなく、どこまでも危なっかしい雛の事である。
未熟とは、どこまでも青臭く、実らず、至らず、半端な者の事である。
しかし未だ熟さず、故に無限。
完成には程遠い未熟だからこそ、希望ある未来を予感させる未完の大器もある。
人々の期待を一身に浴び、未だ
――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。
■ ■ ■
界隈はすでにとっぷりと暮れ、春の陽気に這い出した虫たちが無闇やたらにその鳴き声を響かせている。
しかし、今、この場において、そんな風流を楽しむ余裕は存在し得ない。
電灯だけ温かな光降る玄関に二人、屈強な男たちが肩を並べて座る様は少し異様ではある。
一人の男は、東都圏の自宅警備員・
もう一人の男は、
二人は玄関に入り、無言のまま示し合わせたように揃って上がり
時節は春とはいえ、夜となればまだまだ肌寒い季節である。
出来れば部屋にあがって、暖かい茶でも喫しながら談笑したいというのが人情だろう。
だが両者は暗黙のうち、相談の場を玄関に定めた。
そこからは一刻の猶予すらも惜しむ、両者の思惑が見て取れる。
継嗣は急かすかのように腰を着けると、遠慮会釈なく須藤に尋ねた。
「それで一体、何が起きたんですか?」
継嗣は問うておきながら視線も合わさず、足についた泥を雑巾で拭いながら努めて平静を装った。
だが、その横顔からは初心な緊張が見え隠れしている。
そんな未熟な青さが微笑ましく映ったらしい。須藤は剣客特有の整った居住いのまま、表情を変えず、少し肩を震わせながら言った。
「坊ちゃん、こっちの自宅に来てからまともに寝てないらしいな」
途端、気取って彼方を向いていた継嗣の視線が、勢いよく須藤の視線に重なる。
なぜ須藤がそれを知っているのか。口には出さずとも、継嗣の顔には明らかな動揺の色が浮かんでいた。
継嗣はこの自宅にやって来てから数日、熟睡というものとはとんと縁がない暮らしを続けてきた。
しかしそれは、出来れば父や須藤には知られたくはなかった事実でもある。
これでは二人を見返すどころか、更に未熟とそしられてしまうではないか。そんな焦りが継嗣の眉間の闇を深くしている。
「だ、誰からそれを!?」
「お嬢ちゃん」
須藤が云う「お嬢ちゃん」とは、継嗣と同じく小さな頃から付き合いのある
冷めていた血が一瞬で沸騰し、くらくら目の先で火花が散る。
継嗣は清めた足も気にせず、再びタイルの玄関土間に降り立つと、まるで獣のような声で吠え猛った。
「あのチクリ魔ッ!」
怒り心頭に発した雄叫びが、たちまち夜の空気を塗り替える。
それは外で騒々しく鳴いていた春の虫たちのざわめきすらも、一息に一掃してしまう程の発気だった。
一瞬にして静まり返る玄関先。しかし、その中でなおも膨らみ続ける風船のような危うさだけが、今、この場を支配していた。
「近所迷惑だぞ」
ところが須藤はそんな一触即発の空気の中、昂る継嗣の肩を無遠慮につかむと、ぐいと引っ張りながら座って落ち着くよう促した。
それは実に他愛のない所作であったが、しかし先程まで緊迫していたはずの雰囲気が魔法のように消え去っていた。
継嗣は呆気にとられ、なすがまま、再び玄関に腰掛ける。
だが、その鼻息は荒く、瞳は行き場の無い怒りに濁らせたままだった。
「実は嬢ちゃんから、坊ちゃんが寝不足で面倒な事になっていると相談を受けてな」
「……いつの話です」
「ほんの一時間ほど前、だな。そこで意見を交換して、おおよそ共通の結論が出た」
その時間なら、ちょうど鯨波子が自宅に居た頃の話である。
自分の目を盗み、鯨波子はいつの間に須藤と連絡を取り合っていたのか。
だが、継嗣は先程の言葉の中に、暗躍する女よりも一つ、気になる文言が含まれていた事に気付く。
須藤は確かに「結論」と言った。
共通の結論。自分が与り知らぬところで、二人は何事かの答えを導きだしたらしい。
そんな二人の秘め事が継嗣にはとても不快な事のように感じ、無礼と分かっていても口に棘が生えてしまう。
「結論? さてはあの女、また何か余計な事でも言いましたか?」
「まぁ、そうケンケンするな。坊ちゃんに必要な物、とも言うな。――――それがこれだ」
須藤の視線の先にあるのは、先程、自宅に運び込まれた白いダンボールの箱である。
つられて継嗣は無造作に箱を軽く叩いてみたが、返ってくる音はいやに軽い。この手応えでは中に大した物など入っていないように思える。
継嗣は静かに憤りを取り戻しつつあった。
鯨波子の暗躍にしても気に食わないが、こんなスカスカな物に頼らねばならぬほど自分は低く見られているのか。
「それで、この軽薄な箱の中身は何です?」
「お前の親父はただ殴るだけで、その音から箱の中身を言い当てたぞ。坊ちゃんもまだまだ未熟だな」
そう言って笑い声をあげる須藤だが、無論、顔は無表情のままである。
しかし馬鹿にされているのは分かるが、これには怒る気もしなかった。土台、比較相手があの怪物じみた父なのである。
それよりも何より、真剣な話をはぐらかされた事の方が継嗣の神経を逆なでにする。
「須藤さん」
「ははっ、怒るなよ。俺が持ってきたのはこれだ」
須藤は表情こそ崩さないが、嬉しそうに体を揺らしながらダンボール箱を開封すると、一息に中身を引き抜いた。
その手に握られていたのは。
「――――お前の『枕』だよ」
「ま、枕……?」
それは確かに数年来、継嗣が愛用してきた枕だった。
光沢のある麗しき生地に包まれ、端までみっちりと綿の詰まったボリューム感。頬擦れば、滑るような触り心地に馴れ親しんだ香りが鼻を打つ。
それは頭を預ければ清らかな乙女の膝であり、抱き寄せれば美しき乙女の肢体にも勝りかねない、継嗣の伴侶とも呼ぶべき至高の寝具であった。
須藤は呆気にとられる継嗣に向かって枕を放り投げると、どこか得意そうに言った。
「お上に無理言って、これだけ単品で輸送させてもらえるよう許可も取ってきた」
「いや、ちょっと待って下さい。俺が眠れないのは、その、自宅警備員になった責任の重みと言うやつで……」
「それは勘違いだ」
須藤は継嗣のたどたどしい説明を、一言で斬り捨てる。
何か言い返したかったが、これほど強く断言されてしまっては継嗣も返す言葉が無い。
「坊ちゃんは自宅警備員の責務に振り回されていた訳でも、自宅の景色に心奪われていた訳でもない。無論、そういった症状にかかる自宅警備員もいない訳ではないが、坊ちゃんは違う」
継嗣が懸念してきたあらゆる可能性を一言で切って捨てていく。
そして、須藤は確信めいた語り口で締めくくる。
「坊ちゃんが眠れないのは『枕が変わった』から。ただそれだけの事だ」
枕が変わった。
そんな些細な事で神州の首都である東都圏を守護する自宅警備員が不眠に陥っている。
事実でなければ、それは侮辱に他ならない。
事実でなければ、それは中傷に他ならない。
だが、もし事実であれば、それは紛れもなく恥辱である。
思わず継嗣の目先が眩む。
「……ば、馬鹿な。何を根拠に」
「勘と、経験」
『勘』と『経験』。
数十年に亘り、神州最強の自宅警備員と謳われた守宮順敬を陰ながら支え続けてきた男の言葉。
数多の経験に裏打ちされた確信に、いまだ自宅警備員になったばかりの継嗣には反論など出来る筈もなく。
たちまち継嗣の意識は沈黙に落ちた。
もし、それが事実であるとすれば、『自宅警備員心得』失格どころの騒ぎではない。
枕一つで体調を左右されるような貧弱な男に、神州を守護する自宅警備員など務まるのだろうか。
継嗣は今すぐ腹を切って自害すべきかと考えた。
須藤はそんな継嗣の肩を叩く。相変わらずの無表情だが、その様はどこか愉快そうである。
「……坊ちゃんが考えてる事を当ててやろうか? 『枕ごときでこんな有様になってしまう自分は自宅警備員失格』。違うかね?」
継嗣の声を真似ながら、まさしく正鵠を射た須藤の言葉が辛く胸に突き刺さる。
もはや一刻の猶予もない。自分は腹を切り、この汚辱を
血気逸る継嗣とは逆しまに、須藤は極めて平坦な声で瞬き一つせずに語りかける。
「坊ちゃん、人の話はよく聞くべきだな。俺はこう言ったはずだ。坊ちゃんの異常を言い当てたのは、勘と経験だと」
「勘と、経験……?」
継嗣はその言葉が意味するところをすぐに飲み込めずにいた。
勘と経験。その言葉を分解し、単語をバラして、そして、ようやく、ゆっくりと頭に浸透していく。
継嗣が顔を上げると、再び須藤と目が合った。
やはり鉄仮面のような無表情である。
「そう、経験だ。坊ちゃんは本当に親父に――――順敬にそっくりだな」
それは継嗣が予想だにせぬ、知られざる父のエピソードだった。
継嗣の父・順敬もまた、枕が変わって眠れない夜を過ごした経験がある。
須藤は言外にそう語っているのである。
にわかには信じ難く、それを口にしたのが現場の生き証人とも云うべき須藤でなければ一笑に付していた事だろう。
「……本当に? あの父上が、ですか?」
それでもあの頑強な父に、あの
信じる信じないよりも先に、嵐とも呼ぶべき混乱が心の中に吹き荒れていた。
「あれも今では一端のフリをしているが、自宅警備員に成った当時、それはもう手がかかったものだ」
須藤はそう言うと、やはり表情は変えず虚空を仰ぎ見た。
その視線は遠い過去を見ている。その先にある光景は、かつて彼が――――彼らが過ごしてきた自宅警備生活なのだろう。
しかし、先代の順敬が現場を退いてしまった以上、それは過去の
それはただの想い出であり、過ぎ去ってしまった只の遠い記憶に過ぎない。
「坊ちゃんも、もっと堂々と右往左往すればいいんだよ」
――――順敬と同じように。
父と同じように。最後に立派な自宅警備員に成ってくれればそれで本望であるかのように。
「七転八倒していいんだよ。それを支えてくれる人間に、心当たりがない訳じゃないだろう?」
須藤が語ったものは、支える者、補佐する者としての矜持である。
いかに主が揺らいでも、それを支え続けてきた男が培った人生観そのものとも言える。
その言葉が身に染み込んでいくうち、継嗣は思わず頭を地につけ、土下座したくなる気持ちを必死で堪えた。
ここで頭を下げてはならない。ここでみっともないところを見せてはいけない。
父のように、立派な自宅警備員に成る事。
それ以外に、掛けられたこの恩に報いる手段などありはしないのだから。
継嗣は唇を固く引き結び、湧き上がる感謝の念を必死に堪えていた。
ところが、次の瞬間、その口があんぐり開く。
「お嬢ちゃんは大事にしろよ、坊ちゃん」
須藤はまたしても継嗣が思いもよらぬ事を口にした。
――――須藤さん。申し訳ないのですが、あれはもはや俺の敵です。
継嗣はそう切り返そうとしたが、須藤の真摯な語り口がその隙を与えない。
須藤とて、継嗣と鯨波子の因縁を知らぬ訳ではない。
継嗣が小学生の時に起こした事件も。継嗣が神州全土を旅した経緯も。
継嗣が自宅警備候補に返り咲いた試練に至るまで、その全てを見届け、知っていた。
だからこそ須藤は鯨波子の名前を挙げたのだ。
踏み込みにくい領域に一息で切り込んでくる。これも剣客の性分なのかと、継嗣は呆れながら半ば感心した。
「あの子は難儀な性格だ。それに、あれでなかなか直截に物を言えない立場でもある。表だって口にする言葉に惑わされず、真意を汲んでやれ」
ところが、諭す論調にあからさまな不満顔を浮かべる継嗣を見て、須藤は呆れたように肩をすくめると、仕方なしとばかりに自宅の奥を指差した。
「なあ、坊ちゃん。自宅の具合はどうだ?」
「あ、はい。お陰様で気持ちよく使わせてもらっています」
突然の話題転換に面食らいつつ、継嗣は雑感ながら感謝を述べた。
実際に使用してみると、この自宅にある物は全て継嗣にあつらえたようにフィットする。
いや、事実、継嗣の為に取り揃えられた品々なのだろう。よほど継嗣の事を調べ尽くしていなければ、こうはいかない。
間取り一つ取っても自宅警備第一に考え抜かれた設計で、家具の配置にしても出来るだけ戦闘の邪魔にはならないよう配慮されているようだった。
全てが継嗣の為にあり、全てが自宅警備員の為に生み出された自宅。
継嗣もその身を自宅に委ねる度、隅々にまで行き届いた意匠に舌を巻き、また自宅警備補佐官たる須藤への敬意を新たにしてきたのだが、
「あれを選んだのは、全てお嬢ちゃんだ」
須藤はまたぞろ思いもよらぬ秘話を明かした。
さらに須藤は継嗣の目の前に手のひらを突きつけると、その節くれ立った太い指を順に折り曲げていく。
「家具、食器の選択だろ。備蓄にある栄養サプリメントもそうだし、お前が好きな家電のメーカー。用を足し易いサイズのペットボトル、お前の身に合った浴槽のスケール。不要物の排除、エロゲの選定……ああ、これは言っちゃいけないんだった。忘れろ」
普段ならば聞き捨てならない情報も今は些末な事に思える。
継嗣は己の耳を疑いながら、しかし同時にある一点で納得しつつあった。
そう考えれば全てが納得出来るのである。
鯨波子が継嗣より自宅の備品に詳しかった事にも説明がついてしまう。
鯨波子が聞かずとも脱衣所の場所を知っていた事にも説明がついてしまう。
「挙句に嬢ちゃんは俺の引いた自宅の図面にまで口出ししてきてな。普通ならば一蹴する。当然だ。専門外の素人意見で俺の領分にクチバシ挟まれちゃ敵わない。――――だが嬢ちゃんの提案には一理も二理も三理もあった。俺も知らない、ここ数年の間に開発されていた合板や樹脂なんかの情報を次々と提出され、それが正しいというのなら、俺も首を縦に振らざるをえんよ」
須藤とて栄えある自宅警備補佐官である。
雑多な職務を一人でこなせるだけの多彩な技能を持ち、幅広い分野でその卓越した才能を遺憾なく発揮してきた男だ。
そんな男が語った鯨波子のエピソードは、父の在りし日の秘話よりも信じ難い響きを伴って継嗣の心を揺さぶった。
「あれはどう考えても嬢ちゃんの――地巫女としての仕事の領分を超えている。そこで俺は呆れ半分で聞いてみた。『嬢ちゃんは一体、何になりたいんだ?』と」
継嗣は思わず息を飲んだ。
その先にある答えが、何やら恐ろしいものに思えたからだ。
須藤は動揺で震える継嗣の肩を押さえ込むように掴むと、ゆっくり立ちあがる。
「なんて答えたか、分かるか?」
分かるはずがない。鯨波子の考える事は、いつだって継嗣の意想外にある。
いつも忠誠を口にしながら、のらりくらりと態度を変え、その実、いまだ継嗣の資質を疑っている節すらある。
鯨波子は、自宅警備員の道を閉ざす事になった元凶である。
鯨波子は、バラ色の結婚生活を断ち切った悪魔である。
鯨波子は、嫌がらせの為なら人生を賭ける女である。
鯨波子は、我が人生を賭して滅ぼすべき仇敵である。
「『継嗣さまの為になりたいです』だとさ」
――――それでも鯨波子は、どうやら自分の味方であるようだった。
■ ■ ■
齢40を超えながら、男は未だ働き盛りであるらしい。
須藤は一仕事を終えたばかりだと言うのに、すぐさま元の配送業務に戻ると言い、ゆっくり歩き出した。
そのまま振り返りもせず、さんざん継嗣の胸には困惑だけを残して、慌ただしい去り際にぽつり、さらに一言だけを残していった。
「女を泣かせたら男が廃るぞ、坊ちゃん」
――――つい先程、全裸踊りをして泣かせました、とは到底、言えるはずもなく。
継嗣が逡巡している内、霞のように現れた男は、去り際もまた霞のように姿を消していた。
かくして、愛用の枕だけが継嗣の手元に残っていた。
指に返ってくる弾力は懐かしく、くすぐったいような感傷もこみ上げてくるが、しかし同時に、不快感を伴って継嗣の心をかき乱してくる。
いつまでも抱えていると、枕の中に詰まっているものが継嗣が抱えている葛藤。そのもやもやを具現化した物のようにも思えてくる。
何となれば、この枕を使って横になったが最後。鯨波子や須藤が立てた仮説を実証する破目になってしまう。
継嗣は枕の白い面をじっと凝視した。
清らかな枕の色はまるで磨き抜かれた鏡面にも似て、視線を凝らすとあたかも光を反射して己が像を形作っているように錯覚させられる。
継嗣の顔。眉間に深くしわを刻み、情けなく狼狽えている己の顔が、みっともなくもそこには映っていた。
継嗣が否定するように頭を振ると、その像が歪み、また別の顔を形作る。
それはよくよく見慣れた女の顔。それは紛れもなく鯨波子の顔だった。
その表情にも見覚えがある。これは今日見た鯨波子の顔だ。その艶やかな唇が確かな言葉を刻む。
『ご冗談を。――それこそ『役不足』というものです』
役不足。
いまだ自宅警備員として未熟な継嗣にとって、その言葉は幾万もの剣先に匹敵する鋭さを持って刺さった。
その痛みは耐え難く、継嗣の口からぽろり、思わぬ言葉がこぼれおちる。
「ならば、役に見合う実力を付ければ――――」
その先にあった言葉は形にならず、喉の途中で掻き消える。
かわりに芽生えたのは不可思議な炎。それは胸の奥で確かに燃え盛り、継嗣をいずこかへと突き動かす。
継嗣は不敵に、笑った。
「――――面白い」
継嗣は威勢よく立ち上がると、脇目も振らず、ある場所を目指した。
目指す先は自室のベッド。その右手には愛用の枕を抱え込んでいる。
「鯨波子と須藤さんの見立てが真ならば、俺は間もなく寝息を立てる」
誰に言い聞かせるでもなく、継嗣は己の『今』を口にし、形立てて言葉にしていく。
これは確認である。
未熟で、稚拙で、半可で、そして役不足な現状を確認し、肯定する。
目の前に立ちはだかる大きな壁を認め、どうしようもない『今』にこそ改めて心を置く。
だがしかし、それは諦めなどではない。
「もしも万に一つ、億が一つにでもそれが誤りであったなら」
その時、継嗣はどこに出しても恥ずかしくない、一人前の自宅警備員として一歩前進した事に相違ない。
いや、もし破れ果てたとして、その前進する意志にこそ意義がある。
役に足る己を目指し、継嗣は昂って気炎を吐いた。
「井森鯨波子。貴様の挑戦、受けて立とう!」
それから数分後、継嗣の自室からは呑気な高いびきが響いていた。
まどろみの淵、継嗣が夢に見たのは、高く蒼天に彩られた南国の海岸。
浜辺にはなぜかスイカを持った水着姿の鯨波子がいて、なぜか共にスイカ割りを楽しんだ。
割られるスイカはなぜか継嗣自身であったが。
不思議と、夢見は悪くなかった。
■ ■ ■
後日談。
継嗣が不眠症に患わされていると、どこからか事情を聞きつけた
難波の親切丁寧な解説によると、継嗣が陥っていた、と勘違いした病気は自宅警備業界で『シックハウス症候群』と呼ばれるそこそこ名の知れた症状であったらしい。
心配して向こうから電話をかけてくれた友人に今更「もう全て解決しました」とは言えず、約三時間に渡る的外れな講義を、継嗣は黙々と聞きながら、しきりに相づちを打った。
持つべきものは友である。
様々な徒労を誤摩化すように、継嗣はそう結論づける事にした。
――本日も自宅に異常なし!
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