第7話:我が身を捨てよ!自宅警備員!

 『捨身』とは、何であるか?


 捨身とは、乾坤一擲、渦中に己の全てをさらけ出す事である。

 捨身とは、回天の意思を秘め、未来過去の一切を捨て、今に賭ける事である。


 もし、その手が届かぬ場所があるなら、その身を投げ出す以外に掴み取る方法は無い。

 その為なら、継嗣つぎつぐは道化にでもなってやろうと心に決めた。


 男は滑稽である。

 男は無様である。

 故に、男は勇者であった。


 ――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。



 ■  ■  ■




 それは想い出と呼ぶには余りにも些細な出来事であった。

 遠い記憶の筋を手繰れば、それは継嗣がいまだ中学校に通っていた頃の話である。


 当時、継嗣は様々な部活動に所属し、日々、青春の汗をグラウンドに染み込ませていた。 

 それは自宅警備継承権を失った絶望からの逃避行であったが、その努力に嘘は無い。

 どのスポーツにも没頭していたし、何より多くの仲間と共に何かを成し遂げる事は、これまで継嗣の青春にはあまりない喜びであった。


 必然、同性の友人が大量に増えた。

 おかしなもので、この時期の男子にとって友人とは時に親兄弟にも勝る絆を感じる事がある。

 当時の継嗣は誘われるまま刎頸ふんけいの交わりとなった友の家を泊まり歩き、寝食を共にする事が増えていた。

 しかし、それはやはり自宅から一時でも遠ざかりたい、という潜在意識に由来するものに違いなく、「念の為」と自宅に宿泊許可を願い出る度、二つ返事で返ってくる宿泊許可に中学生・継嗣は血がにじむ思いを感じていた。


 そんな青春の屈折はさておき、放蕩三昧の日々を送る継嗣に諌言かんげんする者がいた。

 言わずもがな鯨波子ときこである。



 その日は真夏の油照りで、部活の最中、継嗣はさながら頭からバケツ水をひっかぶったような有様になっていた。

 部活仲間が戯れにばらまいた水まきホースのシャワーを浴びて良い気分になっていたところに、鯨波子は突然やって来た。

 その顔を見た途端、喉に石が挟まったような、不快な気分に支配された。

 鯨波子の責めるような視線が交わると、また額から嫌な汗が流れて落ちる。本当に不愉快で溜まらない。

 

 おかしなもので、この時期の男子にとって女子とは忌避すべき怨敵のように感じる事がある。

 ましてや鯨波子はあの一件以来、継嗣にとって疫病神以外の何者でもないのだ。

 先日も友人から何かにつけて世話を焼こうとする鯨波子を彼女だとからかわれ、頭に血が昇った継嗣は「校内で気軽に話しかけるな」と癇癪かんしゃくを起こしたばかりであった。

 言いつけを守って一定の距離を保っているようだが、部活が終わるまで飼い犬のようにグラウンド外で待つ姿はまるで本当に彼女のようにも見える。

 忌々しげに唾を吐き捨て、追い払うように手を振ったが、鯨波子は頑として聞かず、継嗣を待ち続ける姿勢を見せた。

 幾らかの無言のやり取りの末、終いには継嗣の方が折れ、部活終わりに教室で待ち合わせるよう合図を送ると、やっと鯨波子は視界から姿を消した。

 

 胸のつっかえが取れた気がしたが、この後、教室で鯨波子から幾つか小言を受け取る破目になると思えば気も滅入る。いっそ部活が終わらなければいいのにと空想したりもした。


 この頃の継嗣は同性である男子とばかり暮らし、いささか常識が男社会に寄っていた節があった。

 今振り返ってみても、それは意識せず、実に自然な流れであったように思う。


 濡れ鼠になった体を乾かす時間を惜しんで体操着を投げ干す。

 友人に二言三言、言付けて部室を後にする。

 放課後、人気の無い教室へ向かう廊下を歩く。

 教室の戸をガラリと開ける。

 明らかに不機嫌そうな鯨波子と目が合う。

 ――――そこで、鯨波子は常ならぬ悲鳴を上げた。



 鯨波子は力なく床にへたれ込み、震える手のひらで顔を覆い隠していた。見れば耳まで赤い。

 耳を立てれば指の隙間からすすり泣く声まで聞こえてくるではないか。


 こちらも突然の狂騒に面食らったが、どうやら相手はそれ以上に恐慌しているらしい。

 いつもおかしな鯨波子にしても、それは様子がおかしすぎた。

 普段は軽口を叩き、憎まれ口で継嗣を翻弄する姿は見る影もなく、色を失くしている。

 にわかに罪悪感が湧き上がるほど、鯨波子は怯え、震え、泣いているのである。


 本当にこれがあの鯨波子なのか。そう疑問に思ったが、やはり何度見ても鯨波子に違いない。

 何を驚いているのか。そう問い質そうとして、継嗣はようやく自身の異常に気がついた。


 継嗣はもっさりとしたブリーフ以外、一切衣服を纏わぬ半裸姿であった。

 



 ■  ■  ■



 

 これは青春時代の他愛のない失敗談の一つである。

 実に些細な一幕であり、継嗣自身、その後どうなったか詳細までは覚えていない。

 だが、その時の鯨波子の狼狽っぷりだけは脳裏に強く焼き付き、残っていた。

 残っていてくれた。

 

 継嗣はこれを天啓だと感じ入った。

 窮地に立たされた不憫なる男に、神州全土におわす地鐸の御神が一振りの矛を授けて下さったのだ。


 女はいつも守られている。社会に、世間に、常識に、そして、男のプライドに。

 世の女性を優しく大きく包む多彩な情の壁。それこそが今まさに継嗣が乗り越えるべき壁である。


 その記憶は、まさに強固な盾をかいくぐる一振りの矛。

 女を直接、傷つけず、また自らの自尊心を傷つける事で相手もろともに貫く両刃の矛である。

 実行すれば決して己も無事では済むまい。しかし、それでもやらねばならぬ。怒りの炎が継嗣の身をじりじりと焦がし急かしているのだ。

 

 継嗣は自宅警備装束を恭しく脱ぎ畳むと、まさにあの時と同じ出で立ちとなった。

 いや、あれから更なる修練を積んだ肉体に昔年の面影は無い。

 なにより股間に輝くのはもっさりとした純白のブリーフではなく、大人のムスクを漂わせるハイソな紳士用下着であった。


「これで良し――――いや、これが良し!」


 もはや後顧の憂いなし。

 継嗣は素肌を晒した上半身に風を纏わせると、そのまま一陣の風になった。 


 目指す先は鯨波子がいる脱衣所。足音たたぬ独特な歩法で廊下を一息に駆け抜ける。目的の扉はすぐそこだ。

 継嗣はそのまま脱衣所に押し入るつもりだった。

 だがしかし、ドアノブを一瞥いちべつすると忌々しげに鼻を鳴らし、ぴたり立ち止まる。

 ――――ふざけた真似をしてくれるではないか。


 鯨波子は言を違えぬつもりなのか、脱衣所の鍵をかけていなかったのだ。

 それだけでも継嗣は自尊心を引き裂かれる思いだったが、扉の向こうからは更に、にわかに信じ難い言葉が漏れ聞こえてきた。


「……臆病者」

 

 臆病者。確かにそう、他ならぬ鯨波子の声が聞こえた。

 臆病者とは誰を指した言葉なのか? 

 あれだけ挑発されても仕返し一つできない継嗣の事なのか。激昂したものの扉の前で立ち止まる継嗣の事なのか。

 或いは。それとも或いは。


 瞬刻の自問自答。だが、それだけで十分だった。

 継嗣は己に問いかける度、心中に巣食っていた温情の虫がことごとく焼かれ死んでいくのを感じた。


(……なぜ俺はこの期に及んで情けなど)

 

 もはや情け無用。継嗣はパンツのゴムに手をかけ、羽化するように脱皮した。

 投げ捨てたブリーフは宙を舞い、やがて地面に転落する。

 カァンと。ブリーフ内に縫い込まれていた金的防止ファウルカップが金属質な乾いた音を立てる。

 それが勝負の時を告げるゴングとなった。

 怒りを一矢と化し、声に出して問いかける。

 

「――――誰が臆病者だって?」

「ひっ!」


 扉一つを隔てた向こう側の表情すら透けて見えそうな短い悲鳴。

 しかし容赦はしない。これはもはや私怨ではない。天誅である。


「け、継嗣さま!?」

「答えろ、鯨波子。臆病者とは一体、誰の事だ?」

「い、いえ。け、決して継嗣さまの事ではなく……」


 今さら言い訳など耳が腐る。長年の仇敵とはいえ、この期に及んでしまえば少なからず失望を覚えようと言うものだ。

 継嗣はドアノブを引きちぎるような勢いでドアを開き、言い放った。


「問答無用!」

「きゃあ!」

 

 殴り込んだ脱衣所は薄暗く、その中で鯨波子は陶器のように白い肌を晒していた。

 当然と言えば当然なのだが、どうやらまだ着替えの途中であったらしい。

 女の悲鳴に見慣れぬ細い背中。普段の継嗣であればそれだけで怯んで逃げ出していたかもしれない。

 だが既に不退転の覚悟である。もはやこの女の泣き顔を拝まねば、明日の朝陽は拝めまい。


「……継嗣さま、一体、何を為さるおつもりですか?」


 ところが、聞こえてきたのは非難の声であった。

 それどころか、鯨波子は背を向けながらも冷静に状況を判断しているようである。

 ――――見透かされている。いつもなら逃げ出してしまう己の弱さを。

 しかし今は逆に、その怒りだけが継嗣の足をここに留めている。

 逃げはしない。むしろここからが継嗣にとって一番の勝負所である。


 かつて鯨波子は継嗣の半裸を見て羞恥のあまり、泣き出してしまった。

 だが、あれからかなりの月日が流れてしまっている。

 長年の付き合いの最中、鯨波子はいつも継嗣の周囲をうろつき、男の影などは微塵も見えなかった。

 しかし、それも高校卒業までの事だ。忽然と姿を消して数年、あれから鯨波子がどのような人生を送ってきたのか、継嗣には知る由もない。

 もし、その間に――。

 継嗣は想像するうち、言い知れぬ苛立ちを感じていた。だがその苛立ちもないまぜに、今はひたすら勝負の時を待つしか無いのだ。

 

「私は悲しいです。これ以上狼藉を働かれるようですと、前・当主様に御報告差し上げ……」


 そんな継嗣の煩悶など露知らず、父への密告というお決まりの伝家の宝刀を抜きながら、鯨波子はようやく振り向いた。

 ついにその時は来た。無意識のうち、継嗣の喉が鳴る。

 瞬刻、鯨波子の視線が継嗣の肉体に釘付けになる。


「きゃあああああああああっ!」


 脱衣所に響き渡る、ひりつくような悲鳴。

 継嗣は思わず両の拳を握りしめた。鯨波子は変わってなどいなかった。鯨波子はあの時のままだったのだ。

 得体の知れぬ喜びに突き動かされるように、継嗣はそのまま攻撃に転じる。


「どうした? 鯨波子」


 素知らぬ風にひょうひょうと近づき、ゆっくり鯨波子の肩を叩く。

 無論、股ぐらは大きく開いたままだ。


「つ、継嗣さ、ま……な、なんて格好を……」

 

 鯨波子は口をぱくぱくさせながら、視線を上下させている。頭から湯気が立ち昇っていないのが不思議なほどに顔は赤い。 

 ――――もはや臨界点は近い。いっそ楽にしてやろう。

 継嗣はおもむろに両の腕を頭上に組み上げ、挑発するように腰を振って叫んだ。


「いやなら見るな! いやなら見るな!」


 鯨波子は眼前で揺れる刹那の揺らめきに悠久の時を見た。

 そして。


「いやあああああああああああああああああああ!」


 自宅丸ごと震わせるような、鯨波子の悲鳴が継嗣の耳をつんざいた。

 その音に重ねながら、継嗣は心の中で勝鬨かちどきの咆哮を上げる。

 ――――勝った。鯨波子との長い付き合いの中で、今、確実に勝利したと断言出来る。その実感が全身を駆け抜けていく。

 鯨波子の断末魔の叫び声に、継嗣は限りない勝利の愉悦を感じていた。


 だがしかし、その中に奇妙な感覚が入り交じる。

 それは恐怖であった。


 正体不明の恐怖。いつしか得体の知れぬ怖気が全身を走り抜け、足下が竦んでいた。

 そして継嗣は思い出す。

 ようやく思い出す。


「あ、しまっ……」


 いつの間にか茫然自失に思えた鯨波子の右手に。

 未開封の石けんの箱が握られていた。


 あの日の想い出の先にあった出来事。

 それはあまりに些細で気にも止めぬが故、忘却の彼方に追いやられた。継嗣は愚かにもこの時に至るまで、そう思い込んでいた。

 だが、事実は違う。

 

 あまりに唐突だが、人体から繰り出される最も無慈悲な一撃とは何だろうか? 

 殴打術? 蹴脚術? 頭突術? 体当術? 関節術? ――――否。


 人体学者の言葉を借りれば、全ての攻撃行動には一定のブレーキがかかっているのだと言う。

 衝撃の瞬間、敵対者が負うダメージを配慮し、無意識のうち、威力が損なわれる無駄な動きが含まれてしまう。

 それは紛れもなく人が生来持つ善性によるものだ。

 それは例え武器を用いようとも変わる事は無く、人が人である為、天が授けた人の良心とも言えた。

 如何なる破壊行為にも人の心が宿っている。しかし、その例から漏れるモノがある。


 守宮家から連なる八家の末席・井森家。

 鯨波子を産み育てた井森の家には、他の分家同様、主家・守宮と同じ大系に属しながら独自の進化を遂げた格闘術が伝わっている。


 それは投擲術。

 人体から繰り出され、唯一、人の良心から解き放たれる攻撃行動。

 全力を込めて振り出された物質に、人の心などあろうはずも無く。


「継嗣さまの……」


 継嗣はこのとき、ようやく己の失策を自覚した。

 一つはパンツを脱ぎ捨てた事による金的防止策を失ってしまった事。

 一つは急所を露骨に披露してしまった事。


「馬鹿あああああああッ!」


 鯨波子の激吼と共に繰り出される石けん箱。

 井森流で『捻り』と呼ばれる独特な握りから繰り出された一撃は、その字の如く、美しい螺旋を描きながら継嗣の股間めがけて一直線に飛来する。

 

 まさに絶体絶命の危機である。しかし、継嗣は不敵にも笑った。

 この攻防に勝機を見たのだ。

 振り戻った記憶の中にある鯨波子の力量。その技量。それらを凌駕する速度で太腿を閉じる。

 ――――出来る。かつての自分なら出来なかった事が、今なら出来る。


 継嗣の脳髄から遠心性神経に伝達する衝撃電流。

 太腿を閉じる。

 人類最高峰の速度で行われるその動作には一片の隙もない。――――はずだった。


 継嗣は見た。

 ゆっくりと瞬刻を削り取るシャッターの如く、己の太腿が徐々に閉じられていく映像。

 その隙間に飛び込んでくる異物を。その余りにも残酷な現実を。


 そう、継嗣は失念していたのだ。

 己が成長する月日を経たのと同じように、鯨波子もまた継嗣の知らぬ数年で己の技術に磨きをかけていたのだ。

 その軌道は継嗣の知るものよりも早く。そして鋭く。


 勝利を確信していたが故の油断。覚悟なき悲劇を誰が耐えられようか。

 次の瞬間、継嗣は全身を駆け抜ける刹那の激痛に悠久の時を見た。




 ■  ■  ■




 それから鯨波子は二十分に亘り、我を忘れて泣き続けた。

 横で意識不明の重体に陥っている継嗣の事など気にも止めず。

 わんわんと色を失くし、大きな声で子供のように泣き続けた。


 このあまりに無意味で無慈悲な戦いに、勝者などは居なかった。

 両者が得た教訓も「互いにいつまでもあの頃のままではない」という実に些細なものである。

 そして、同時に「相手をあまり追いつめるのはやめよう」と固く心に誓い合った事が、せめてもの慰めか。


 ほんの少し、若者たちが譲歩し合う事を覚えた春の戦陣は、かくも無惨に幕を閉じた。



 ――本日も自宅に異常なし。

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