第6話:逆襲の時は来たり!自宅警備員!

 『反撃』とは、何であるか?


 反撃とは、吹き荒ぶ劣勢におのが爪牙を突き立てる蛮勇である。

 反撃とは、救いなき絶望の深淵に見いだす一筋の活路である。


 男は今、苦境に立たされている。

 逆転の糸口すら掴めず、その心は荒れ狂う大海に翻弄される笹舟のようにか弱い。

 高波に晒され、今にも折れそうなプライドだけが今の彼を奮い立たせている。

 そして、そのプライドにしがみつく限り、必ず風は吹く。男はそう信じていた。

 今はただ逆襲の追い風を待つ、一人の戦士。


 ――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。



 ■  ■  ■




「そういえば、継嗣さま。何でそんなに眼が赤いんですか?」

「……今更、そこに突っ込むのか」


 処は東都圏とうとけん。場所は守宮やもり家・居間。

 あれから半時が過ぎようとしていたが、継嗣つぎつぐ鯨波子ときこの益体のない茶会は殊の外、長期戦にもつれ込んでいた。


 それというのも鯨波子はまるで牛歩戦術よろしく、継嗣が会話を終わらせようとする度、矢継ぎ早に話題を切り替え、だらだらと話を引き延ばしている。

 こないだ買った反物の話から先日食べたガトーショコラが甘くて美味しかっただのと、じつに実のない話を延々と続けているのである。

 継嗣もさっさと本題に入りたいのだが、本心では今一歩、踏み込む事を恐れ、鯨波子の思う様、いいように翻弄されていた。

 だがいい加減、話題も尽きかけているらしい。鯨波子はふと思いついたように、本当に今更な話を口にして継嗣を心底、呆れさせた。


「いえ、まぁ、最初から気付いてはいたんですが、継嗣さまなりのお洒落なのかなって」

「俺に眼を赤くして喜ぶ中二病じみた趣味はない。これは単なる寝――」

「どうせ自宅警備員になった嬉しさで、興奮のあまり、眠れなくなってるんでしょうけど」


 即答即解、である。

 あまりに容易く当てられては立つ瀬がない。継嗣はふてくされて睨みつける。


「……概ねその通りだ。別にいいだろ」

「そうですね。『自宅警備心得』にも睡眠不足を戒める項目は無いですから」


 鯨波子の言う通り、『眠らない事』は自宅警備にとって問題にはならない。

 開祖よりの不文律として、『睡眠を取らない』事は自宅警備員の道に反さないのだ。

 何なら『自宅警備心得』に「眠るな」と書かれていてもおかしくはないほどに、自宅警備員にとって睡眠は大敵とされてきた。

 だが、事には限度がある。


「でも、御自覚がないようなので申し上げますけど、先程から滑舌も悪くなっていますよ。本当に大丈夫なのですか?」

「ん……」


 言われてみれば、先刻より継嗣の舌回りが鈍くなっていた。

 図星を突かれた悔しさからか、継嗣は何度も咳をして、喉を鳴らす。


「問題ない」

「本当に? 何でしたら私が締め落として強制的に睡眠誘導できなくも……」

「それでは根本的な解決にはならないだろう。この件はある御仁の力を借りる事にし――」


 そこまで言って、ぴしり、と。

 ふいにどこからか亀裂が走るような気配がした。

 空間が断裂し、そのまま己ごと引き裂かれるような怖気。そんな気配に継嗣は思わず身を竦ませる。


 だが、やはり勘違いであったらしい。

 振り返り、周囲を見回しても室内には何の異常もない。対面では、鯨波子は涼しげな顔で笑っていた。


「どうかなさいましたか?」

「い、いや。なんでもない」


 ありもしない錯覚を恐れるなど自宅警備員の名折れである。

 継嗣は己の怖じ気を振り払い、再び落ち着きを取り戻す。


「それで、継嗣さま」

「何だ?」

「どこの、どなたのお力を借りるつもりなのですか?」


 鯨波子の声色は変わらず穏やかなものだ。

 だが、そこに突き立てるような鋭さを感じるのは何故だろうか。

 継嗣は渋々、素直に事情を説明した。


「お前も知ってるだろ。黄坂おうさか難波真なんば しんさんに相談するつもりだ」

「……難波さん? あの、難波さまですか? はー、はー、なるほど。難波さま。なるほど」


 難波の名を聞いて目を丸くする鯨波子。先程とは急転して声が機嫌良く弾んでいる。

 だが、ひとしきり納得すると、今度は小首を傾げた。


「難波さまにご相談なさるんですか?」

「あの人ならば必ずや的確な助言をして下さるに違いない。何か不服か?」


 黄坂圏の自宅警備員・難波真。

 この男は当代、『神州最勝の自宅警備員』との呼び声も高く、その功績のみならず、過激な戦いっぷりでも強烈に人を惹きつけてきた。

 従来、自宅警備員の定石として攻防は一体であるべきとされてきたが、難波真という男は、兎角、攻撃を好む性質の男であった。

 定石を廃した異常な戦闘法。極端な戦い方を立案し、それを実戦の場で立証し、立て続けに勝利を収め続けてきた男にケチをつける人間はもはや神州には誰一人として存在しない。


 まるで抜き身の刃のように戦い、そして結果を残してきた男。

 故に、他の自宅警備員からの信頼も厚く、面倒見のいい人格者としても知られ、分け隔てなく人に接する姿勢はまさに自宅警備員の鑑である。

 継嗣が頼るにあたう人物。故に、継嗣には鯨波子の態度が解せない。


「いえ、確かにあの方ならご相談にも真摯に応じて下さると思います」

「……何が言いたい?」

「怒らないで下さいね? だって、あの方。死ぬほどじゃないですか」


 そんな自宅警備員の見本と云うべき人物にも欠点が存在する。

 難波真と言う男は――致命的なまでに折が悪い人間だった。


「連絡を取ろうとしても何かしら妨害が入ると思いますよ」


 その性質を一言で言い表すなら「持って生まれた星の巡りが悪い」。

 睡眠時間の奇襲は日常茶飯事。湯船に浸かれば敵が襲来し、たまに料理に凝ってみれば、やってきた敵にテーブルごと引っくり返される始末である。

 端的に評してしまえば、何もかも間が悪い。

 だが、逆説的にそんな彼の宿命が更なる敵を呼び寄せ、当代最大の戦果を生み出す原動力となっているのだから皮肉と言う他ない。


「……いや、流石に、それは」


 本来なら己の配下である鯨波子が他の自宅警備員、ましてや当主が懇意にしている恩人の醜聞を口にしたのだから、立場上、厳粛に咎めるべきなのだが、どうにも継嗣も歯切れが悪い。

 それというのも鯨波子の指摘に心当たりがある。

 これまでにも何度か彼と接触しようとし、まるで運命のように行く手を阻む出来事が立て続いた経験がある。

 

「ひょっとして私がここに来たタイミングもバッチリだったりします?」

「…………」


 またしても図星である。

 振り返ってみれば、継嗣が真と連絡を取ろうとした矢先、鯨波子が呼び鈴を鳴らした形になっている。

 奇しくも難波と連絡を取る事が如何に困難であるかを、今の状況が何よりも雄弁に証明してしまっていた。


「何度も根気よく連絡を試みるしかなさそうだな……」

「気の長い話ですね……」


 幾らか思考を巡らせてみたが、それが継嗣に出来る最善の対策らしい。

 とはいえ、あまり悠長に構えていると今度は身体の方が限界を迎えてしまう。何とも頭の痛い話だ。

 こめかみを押さえる継嗣の横で、鯨波子はふと思いついたように呟いた。


「でも、長時間、眠れないというのはおかしいですね。いくら興奮していると言っても限度があるのでは」

 

 鯨波子が何気なくつぶやいた一言が、くぼみにハマるようにストンと継嗣の耳に入った。

 言われてみれば腑に落ちない話だった。

 確かに興奮によって睡眠が阻害されるケースは日常においても多々ある。


 だが如何なる興奮もいずれは冷める。

 元凶がこの美しい自宅の風景にあると言うのなら、見慣れるにつれ、興奮も収まるのが道理と言うものだ。

 現に継嗣の精神は既に小康状態にある。眠気は感じており、頭の一部にもやをかけ始めている。

 だが、横になっても一向に眠れない。眠いのに寝られない。寝たいのに眠れない。

 あと一つ。あと一つ、何かが足りないのだ。それさえ分かれば自力でこの問題を解消出来そうな気がする。

 もう少しで継嗣の考えがまとまりかけた瞬間、


「まぁ、その件はひとまず置いておきましょう。いざ、ぶっ倒れてしまえば眠れる訳ですし」


 面倒になったのか、鯨波子はそんな身もふたもない結論を吐き出し、持論を投げ捨てた。

 継嗣は己の中でまとまりかけていた答えが鯨波子の吐息にのせて、たちどころに散っていくように思えた。


 そんな継嗣の苦悩など一蹴し、鯨波子は手前に小さく一つ柏手を打つと、ずいと身を乗り出した。

 いよいよ本題とばかり、鯨波子はたった一呼吸で場の雰囲気を切り替えてしまった。


「では、そろそろ継嗣さまを弄るネタも尽きたので、メインデッシュの方を発表しましょう!」


 鯨波子は今日これまで見た事がないほどに会心の笑顔を浮かべている。

 本当に、この上なく楽しそうだ。

 どうやら年貢の納め時らしい。継嗣も大きな溜め息をつく。

 

「……鯨波子、お前、『地巫女じみこ』になったのか」

「ぱんぱかぱーん! 実は……って、なんで先に言っちゃうんですかっ?」

「やっぱり、お前が東都の地巫女なのか……」



 地巫女とは、読んで字の如く『地鐸』に仕える『巫女』の事である。

 自宅とは『地鐸』を祀る神殿であり、様々な神事を執り行う舞台でもある。

 取り分け、世代交代が行われた警備員の自宅では、移転したばかりで不安定な『地鐸』を鎮めるべく、頻々と神楽舞が奉納されてきた。

 それら神事を一手に引き受けるのが地巫女であり、その職務上、頻繁な自宅の出入りも許されていた。


「では仕切り直しまして――――はい! 私、井森鯨波子は東都圏の地巫女に就任致しましたー! 拍手ー!」


 一人で拍手喝采、雨霰あめあられ

 やんややんやと能天気に賑やかす鯨波子とは裏腹に、継嗣はこの世の終わりのような面構えをしている。


「よりにもよって、なんでお前が……」

「高校卒業してから、それはもう熱心に修行しました。努力の賜物です」

「そうか、そうか。それでわざわざ監視役も辞めたのか。お前は、お前という奴は……」


 己の成果にぐいと胸を張る鯨波子。

 一方、継嗣は感情の昂るままに頭を左右に振っている。眉間の闇が深い。


 実は継嗣も鯨波子がここにいる時点でうっすら嫌な予感はしていた。

 だが無意識のうち、その可能性を封殺し、気付かぬよう努めていた節がある。

 だが、事ここに至って、ついに鯨波子本人から宣告を受けてしまっては、もう真正面から受け止めるしかない。


「お前はなんという事をしてくれたんだ……!」


 地巫女にはもう一つ、暗黙の了解とされてきた役割がある。

 それは出会いの少ない自宅警備員への『婚姻斡旋』。

 平たく言ってしまえば、自宅警備員の伴侶候補――――良き交際相手として派遣される含みを持っていたのだ。

 見れば、継嗣の瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。


「お前なぁ! 貴様には慈悲と言うものがないのか! 俺に何の恨みがある!?」

「恨みだなんて、とんでもない。私はいつでも継嗣さまの味方ですよ」

「お前は敵だ! 今、分かった! お前は俺が生涯を賭して討つべき敵に違いない! 俺の幸せな結婚生活を返せ!」


 地巫女の選出は国営の自宅警備協会によって行われ、志願者の中から特に素質、品格、知性、教養など、様々な面で才能のある女性が選ばれ、各圏の『地鐸』を祀る自宅へと派遣される運びになっている。

 派遣された地巫女は職務上、定期的に自宅を訪れる為、自宅の守護者である警備員との交流も増え、自然にわりない仲に進展する事が多かった。

 どうやら協会側も自宅恋愛を推奨しているらしく、各圏の自宅警備員の好みを調べ上げ、まるで遣り手の見合い婆のように条件に合致した女性をわざと選出している節すらある。

 無論、双方の合意があっての話ではあるが、概ね、どこの圏でも自宅警備員と地巫女の行く末は華やかなものと決まっていた。


「あら? 継嗣さま。結婚したかったんですか?」

「したいに決まってるだろう!」


 硬派を気取って生きてきたものの、女っ気のない半生を送ってきた継嗣の結婚願望は既にある事ない事、土を盛り固め、神州最大の御山の如く、肥大化していた。

 自宅入りが決まってからは、もはやこれまでと覚悟を決め、いわゆる『俺の嫁』であるエロゲーのヒロイン・ケイちゃんを仮想の伴侶に、理想の新婚生活を夢想し、その時に備えてきた。

 未だ見ぬ自分の伴侶。それがどんな女性なのか、夢見た夜は両手でも数えきれない。


 その夢が、たった今、破れた。いや、無慈悲にも破られた。

 声を荒げてしまうのも無理はない。取り乱す継嗣に鯨波子は更なる追い討ちをかける。


「ちなみに、一昨年の『自宅警備員白書』によると、神州四十八圏うち、三十五圏は地巫女と結ばれているそうです」

「ああ……」


 確かに、鯨波子は一般的な視点で見れば、とても魅力的な女性である。

 何度となく後悔した事とはいえ、一度は恋い焦がれた過去もある。あれからそのまま大きくなったように、いや、それにも増して鯨波子は美しく成長していた。

 さらに皮肉な事に見た目は継嗣の『俺の嫁』であるケイちゃんの特徴と、どことなく似通っている部分がある。おそらく自宅警備協会もその情報を頼りに鯨波子を選出したに違いない。

 教養については言うまでもない。品格と知性に関しては目を瞑るとしても、改めて見れば地巫女の人選はとても公平かつ的確に行われたと言わざるを得ない。

 だが、しかし。それでも鯨波子との結婚など、まっぴら御免である。


「ちなみに、残り十三圏の方は親戚筋の女性と結婚なさるか、独身を貫かれたそうですよ」

「…………」


 継嗣が問題視しているのは鯨波子の異常な忠誠心だった。

 求められれば応じ、問われれば答え、命じられれば何でも引き受ける。

 忠勤、真に結構。しかし、その忠誠の先にあるのは継嗣ではなく、その父・順敬である。


 秘密の告白を父に報告し、また父の命により甲斐甲斐しく継嗣を支え続けてきた過去からもそれは明白であった。

 鯨波子は父から命じられれば、たとえ夫婦生活ですら赤裸裸に語り明かしかねない危うさがある。

 そんな女を妻として娶りたいかと言われれば、断固として拒否する所存である。

 

「私たち、どうなっちゃうんでしょうね? ひょっとして結婚しちゃうんですかー? やだー!」

「…………」


 何より、この女は性根が髄まで腐っているのではないか。

 継嗣はこれまで築き上げた信頼を全て白紙に戻そうかとも思案した。

 

「あら、黙っちゃった。もしもーし、何か感想はありますか?」

「……おめでとう。さっさとくたばれ」

「それだけ言い返せれば十分です」


 言うだけ言うと、鯨波子はくるりと踵を返すや、手荷物を引っさげてさっさと部屋から出ていこうとする。

 何か言いたげな継嗣の視線を察したのか、鯨波子は振り向き、


「お務めの舞を奉納すべく、召替えて参ります。脱衣所をお借りしますね」


 手荷物の中から金魚のように赤い緋袴ひばかまをちらり見せる。

 どうやら中に神楽舞で使用する巫女装束一色を入れ、持ち運んでいるらしい。


 それが本来なら、まだ見ぬお嫁さんが着るはずの物だったと考えると涙がこぼれ落ちそうになる。

 だが継嗣はぐっと涙をのんだ。

 狼狽すればするだけ相手を喜ばせるだけなので、努めて平静を装いながら再び紅茶で満たしたカップを口に運ぶ。

 震える指先のせいで、しきりにカチャカチャ耳障りな音が立っているが、当人はそれに気付く余裕がない。

 そんな虚勢に興をそそられたのか、鯨波子は満開の笑顔。


「いくら私に欲情しても着替えを覗かないで下さいね?」


 まるで子供に注意するように指を立て、威丈高に物を言う。

 その様はやはりどこか楽しそうだ。


「絶っっ対に覗かないで下さい。偶然、鍵もかけず、ドアの向こうで無防備な裸体を晒す私を妄想し、欲情したとしても絶対に覗かないで下さいね」


 もしや、この女は頭がおかしいのではないだろうか。

 いよいよ継嗣の疑念が確信に近づきつつある中、


「ちなみに今、継嗣さまが飲まれている紅茶には媚薬を盛っておいたので、ムラムラしたとしても不可抗力で済みますよ」


 たまらず継嗣は口から見事な水飛沫ならぬ紅茶飛沫を上げた。

 旧来のニックネーム『マーくん』の面目躍如といった継嗣の噴射はさぞ見応えがあったらしい。鯨波子は懸命に笑いを噛み殺し、肩を震わせている。


「じ、冗談ですよ冗談。それにしてもキレイな噴水でした。さ、さすが、継嗣さま」

「……本当か? 本当に盛ってないのか?」

「まだ結婚もしていないのに、そんな破廉恥な真似できませんよ。もう、継嗣さまのビッチ!」


 もやは突っ込む気さえ起きない。

 骨の髄を引っこ抜かれたような虚脱感が継嗣の全身をまとわりついていた。


 もはや唇を動かす事すら難儀である。だが、どうしても一言、問い質しておくべき事柄がある。

 これだけは聞いておかねばならない。継嗣はいざ、矢でも放つ心意気で言った。

 

「――お前、俺の嫁になりたいのか?」


 言った端から、継嗣は己を嘲笑った。

 自分で口にしておきながら、自身でその可能性を否定している。土台あり得ない話なのだ。

 だが、もしそれが事実であったならば。

 鯨波子が自分と結ばれる為に数年に亘る修行を経て、地巫女の座に就いたと言うのなら。

 自分はどうすべきなのか。

 すぐに答えはまとまらない。自然、顔つきは神妙なものになっていく。


「私が……継嗣さまのお嫁に?」


 鯨波子はすぐには答えなかった。

 あれだけ騒ぎ散らした威勢が嘘のように静まり返っている。こうなると吐く息まで、か細く見えてくるのは何の因果か。

 だがそれも僅かな間。

 いつもの笑顔で、鯨波子は困った風に一笑した。


「ご冗談を。――それこそ『役不足』というものです」




 ■  ■  ■




 鯨波子はそのまま振り向きもせず、そそくさと部屋から出ていってしまった。

 継嗣は先刻から一人、部屋に取り残されたまま、石のように固まってしまっている。

 

「役不足、か」

 

 ぽつり、うわ言のように鯨波子の返答を反芻はんすうする。


 『役不足』とは、昨今、度々誤用が指摘され、見直されてきた言葉である。

 ここで長々、文章の意味合いについて講義するつもりもないので差っ引くが、早い話が『自分』に対して『役』が不足している、というのが、本来この言葉が持つ意味であった。

 つまり、鯨波子は継嗣に対し、『自分はお前の嫁になるほど小さい器ではない』と返した事になる。


「くっ……」


 歯の隙間から漏れた息が、たちまち苦笑に変化する。

 くつくつと笑う。かつかつ笑う。

 噛み殺した笑いが終いには吹き出し、継嗣は堪えかねて腹の底から大笑いした。


 この一度きりの嫌がらせの為に、わざわざ数年の修行を経てまで地巫女に成ったのだと言う。

 これが笑わずにいられるだろうか?

 だが、笑っていられるのもそこまでだった。


「ふざけんな!」


 落雷のような拳がテーブルを揺らした。

 家具に八つ当たりなど自宅警備員失格な行いである。しかし、今の継嗣はそんな基本事項すら失念していた。


 仏の顔も三度まで、という言葉がある。

 この言に従うなら継嗣はいくつ仏の顔を浪費してきたのだろうか。指折り数えてしまっては怒りで二度と拳が開かなくなる気がする。

 これまで鯨波子が重ねた狼藉を映す走馬灯が、怒りの蒸気で大回転していくうち、胸の内に荒ぶる業火より一振りの決意が見え隠れした。

 

「井森……鯨波子ッ!」


 ――あの女には恩がある。あの女には借りがある。

 ――しかし、それ以上にあの女は我が身に仇をなしてきたのではないか?

 

 継嗣の心中にはいまだ迷いが燻っている。

 居住いを正し、継嗣は自問する。


「……守宮継嗣、貴様は一体何者であるか?」

 

 かつて己は自宅警備員を目指す、一介の小僧にすぎなかった。

 いや、今も本質は変わりはしない。性悪女の意のままに翻弄され、砂を舐めるような気持ちを味あわされている。

 声を絞り出すように、継嗣は自答する。


「俺は、東都圏を守護する自宅警備員……!」


 そう、自分こそは神州四十八圏の一角を担う、誉れ高き自宅警備員。

 役に己が不足しているというならば、その分を気合いで補うのみである。

 たかだか女の一人や二人、何を恐れる事があろうか。

 今こそ、神州男児の生き様を見せる時。

 今こそ、己の真価が試されているのだ。


 迷いを断ち切り、いざ飛ばんとばかりに立ち上がる継嗣。

 ところが途端、別の迷いが生まれる。

 鯨波子は女である。

 いかに性根が腐っていようとも、女である事には違いない。


 報復。雪辱。返報。仇討。復讐。

 しかし、女に手をあげるなど以ての外であるし、女を腕力で辱めるなどは論の外である。

 何よりその手段が根っからの善人である継嗣にはどうしても思い浮かばない。 

 それこそ自宅警備員の誇りを傷つける行為に他ならず、継嗣の体は板挟みのまま硬直状態に陥った。


 前へ進め、とその身が猛る。

 後ろへ戻れ、とその身が諌める。

 相反する情動が熾烈にぶつかり合い、継嗣の体をまるで岩のように変えている。

 だが頭脳だけは別だった。

 

 脳漿を駆け巡るは鯨波子の狼藉、鯨波子の悪行、鯨波子の罵詈雑言。

 回り続ける走馬灯は、どこを切り取っても継嗣の雪辱の日々を思い起こさせ、必死の決意に冷や水をかけてくる。

 もうこのまま大人しく引き下がって、昨日食べ残したピーナッツでもかじろうか、などと負け犬的発想が脳裏をよぎったその時――――過去の想い出より一筋の光が射した。

 

 それこそはまさに天啓。

 困窮した現状を打破する圧倒的閃きが全身を貫き、ほとばしった。

 あの女を穿つ矢尻が時を越え、今、継嗣の元へともたらされたのだ。


「何を臆する事がある! 復讐するは我にあり!――――敵は脱衣所にあり!」


 神より与えられし啓示に感謝しつつ、ついに継嗣は一矢報いんとその足を大きく踏み出した。




 ■  ■  ■




 外はとうに陽も暮れ、薄暗い脱衣所に備え付けられた電灯がわずかに温かな光を投げつけていた。

 そんな狭い一室に、更に陰を作るようにしゃがみ込む人影がある。

 まだ冬の名残を感じる時節であるというのに、女はなぜかあられもない下着姿であった。


「……はい……はい……ではそのように。はい、御面倒おかけします」


 何やら鯨波子は脱ぎかけの衣服を散らかしたまま、携帯を手に何者かと連絡を取り合っていた。

 据え置きの大きな洗濯機に隠れるように、口元には手まで添え、声を潜めて何事か密談を交わしているようである。

 

「はい、はい、……では失礼します」


 口早にまくしたてる口調は、相手を敬いながらどこか急かすような心情が見え隠れしている。

 無事、用件が済んだのか、丁寧に携帯を切ると鯨波子は大きく溜め息をついた。

 

「……まったく。世話の焼ける事で」


 呆れたように言いながら、その表情はどこか楽しげである。

 おもむろに立ち上がった鯨波子は脱ぎかけだった衣服を拾いながら、改めて周囲を見渡した。

 それまで鯨波子が纏っていた衣服が、衣装カゴにも収められず、足下に散らばっている。

 脱衣途中で放り出され、乱雑に脱ぎ散らかされたこの惨状。その光景はいささか鯨波子の乙女心を苛んだ。


「少し、はしたなかったかな? でも火急の用ですし……」


 誰に言うでもなく、鯨波子は言い訳でもするかのように独り言ちる。

 そこで、ふと見上げた視線がドアノブとすれ違った。


「あ……」


 見ればドアノブに付属する鍵がかかっておらず、脱衣所の鍵は開いたままになっていた。

 鯨波子には時折、自分の考えにのめり込むと周囲が見えなくなる悪癖があった。

 この脱衣所へ至る道々、ふと思いついた懸案に没入する余り、脱衣所の鍵をかけ忘れていた事に今更ながら気がついた。


「……とんだ有言実行ですね、私」


 ――――軽い冗談のつもりで言ったのに、まさか本当に鍵をかけ忘れるとは。

 だが、急いで鍵をかけようともせず、鯨波子は施錠されていないドアを見つめると、今度は自嘲するように笑みをこぼした。


「……まぁいいか……臆病者ですし」

「――――誰が臆病者だって?」

「ひっ!」


 思いがけぬ声に思わず仰け反る鯨波子。

 凝視すると、磨りガラスの向こう側に人影がある。

 

「け、継嗣さま!?」

「答えろ、鯨波子。臆病者とは一体、誰の事だ?」

「い、いえ。け、決して継嗣さまの事ではなく……」

「問答無用!」


 自分で問うておきながらの問答無用。

 ドアノブは一息に一転し、無法にも脱衣所のドアが開け放たれた。


「きゃあ!」


 あえなく室内にか弱き乙女の悲鳴が響く。

 だが、それも演技である。

 その声を発した鯨波子はその実、冷静に状況を判断していた。


 相手はあの継嗣である。

 反射的に背を向け、柔肌を隠すようにしゃがみ込んでみたものの、継嗣が女性に乱暴を働くはずが無い。

 継嗣はそんな狼藉を働くほど下衆ではないし、何よりそんな狼藉を働く勇気を持ち合わせていない。

 鯨波子は継嗣を信頼していた。――――しかし、同時に見くびってもいたのだ。

 

「……継嗣さま、一体何を為さるおつもりですか?」


 よよよ、と泣き崩れるフリをしつつ、すでに鯨波子は持ち前の冷静さを取り戻していた。

 おそらく売り言葉に買い言葉。必然、勢いだけで脱衣室に飛び込んできたに違いない。軽くからかえば、すぐに赤面して退散してくれるだろう。

 鯨波子は未だそう思っていた。


「私は悲しいです。これ以上狼藉を働かれるようですと、前・当主様に御報告差し上げ……」


 ――――継嗣の姿を見るまでは。

 その姿を一目見て、今度は演技ではなく、鯨波子は細い体の奥底から息の続く限り悲鳴をひり上げた。

 

「きゃあああああああああっ!」


 脱衣所の電灯の下、照らし出されたのは、一糸まとわぬ勇壮な肉体美。

 何者にもとらわれぬ決意を示すように、天衣無縫の荒姿あらすがたがそこにあった。


 つまり、継嗣は全裸であった。

 


 ――本日は自宅に異常あり!

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