第5話:幼馴染は強敵だ!自宅警備員!

 『幼馴染』とは、何であるか?


 幼馴染とは、共に成長を繰り返し、その青春を同行してきた親しき友である。

 幼馴染とは、互いの美醜を知り尽くし、胸襟きょうきんを開いた間柄の知己である。


 しかし、何事においても例外と言うものが存在する。

 最も因縁深く謎めいて、それでいて最も己を知り尽くした宿敵・幼馴染に立ち向かう一人の男。


 ――人は彼を、自宅警備員と呼ぶ。




 ■  ■  ■




 すでに遠く傾き始めた夕焼けが自宅の外壁を赤く染上げていた。

 そんな家の窓から見えるリビングでは、若い一組の男女――守宮継嗣やもり つぎつぐ井森鯨波子いもり ときこが優雅に茶をすすっていた。

 年若い男と女が二人きりで喫茶する。

 傍から見ればなんとも微笑ましい光景なのだが、その内情は実にややこしい。

 両者の間には、絶えず奇妙な緊張と生温かな警戒が流れ続けていた。




 ■  ■  ■




 これまでの成り行きを分かり易く整理すべく、少し時間は巻き戻る。

 全ての発端は玄関先での問答から既に始まっていた。


 玄関ドアをまたいで睨み合う継嗣と鯨波子。

 ドアの開閉によって様々な駆け引きが繰り広げられていたが、この勝負は一瞬の隙を見逃さなかった鯨波子に軍配が上がった。

 鯨波子は半ば無理矢理、自宅に上がり込むと、継嗣の抗議には耳も貸さず、無断で台所に立つと鼻歌まじりに湯を沸かし始めた。


「まぁまぁ。いいからリビングにでも座っててくださいな」


 笑顔でヤカンを火にかける鯨波子の声色はこの上なく上機嫌に弾んでいた。

 継嗣の胸中に嫌な予感がよぎったが、こうなっては何を言っても無駄である事はこれまでの経験でよく知っていた。

 やむなく言われるままリビングに退避し、事の成り行きを天に任せる事にした。

 リビングの椅子に腰掛け、待つ事しばし。


「お待たせいたしました」


 ほどなく、盆の上にティーポットとカップを載せて鯨波子が戻ってくる。

 茶会でもやるつもりなのか、純白のティーカップにはよく香りたつ紅茶が注ぎ込まれていく。


「……カップも紅茶もわざわざ買ってきたのか?」


 継嗣も紅茶を嗜む方だが、自宅ではどちらも見覚えの無いものだった。

 不審がる継嗣に、鯨波子はさらり微笑んだ。


「いえ、どちらも台所にあったものですよ。紅茶は右二つ目の戸棚の奥、このカップは食器棚中列右奥に収納されております」


 何故、自分も知らぬ自宅の在庫、さらにその位置を熟知しているのか。

 継嗣がそんな当然の疑問をノドの奥に押し込んで相手の出方を見守っていると、


「いやぁ、懐かしいですね。覚えてらっしゃいますか? 継嗣さま」


 鯨波子が小首をかしげながら茶を差し出し、自慢の長い黒髪を揺らしてみせた。

 愛嬌ある仕種だったが、継嗣はつれなくまぶたを閉じ、出された紅茶に口をつける。


「…………何の話だ」

「まさかお忘れになったんですか?」


 そのまさかはありえない。忘れるはずがないのだ。鯨波子と夕方に二人きり。

 口一杯に広がる紅茶の味も苦々しく感じた。

 この状況は、嫌でもあの時、犯した過ちを思い出させる。

 

「そんなはずないですね。お顔に書いてますよ」


 鯨波子は、そんな継嗣の心中などお見通しらしい。

 細めた目の奥から見える瞳は千里を見透かす魔眼のように不気味だ。


 鯨波子はあれから時折、思い出したようにあの一件を蒸し返し、継嗣の性根を戒めた。

 一度でも色香に迷った人間は生涯、異性に振り回され続ける、と言う。


「ふふ、継嗣さまったらすぐ顔に出るんですから。そんな所もまた愛らしくて素敵です」

「…………」


 未だにそれが不安なのか、鯨波子はよく冗談のように継嗣への愛を囁いた。

 当人は色仕掛けのつもりなのだろう。

 もし、一度でもそれに応じてしまえば。

 あの時のように、鯨波子の口から父・順敬じゅんけいへ報告が上がるのだろう。


(二度とその手は食わんぞ)


 何度も何度も繰り返し、穿ほじくりり返された傷である。

 今では継嗣の精神にも、何事もなかったような平静さを装う強かさが備わっていた。

 対面でニコニコしながら茶を飲む鯨波子を横目に見て、継嗣は大きく溜め息をつく。


(まったく。こいつだけは何を考えているのか分からん)




 ■  ■  ■




 継嗣の生涯を狂わせたあの事件以降、鯨波子の態度は一変した。


 一友人としての態度を崩し、継嗣の監視役として開き直った鯨波子は、クラス内で演じていた己の役割をあっさり放棄すると、常に継嗣の傍らに侍るようになった。

 自業自得とはいえ、一時、廃嫡の憂き目にあった継嗣は、その元凶とも言える鯨波子に辛く当たりもしたのだが、当の鯨波子は意にも介さず、継嗣の近辺を駆け回り、よく尽くしていた。


 だが、滅私奉公の精神と言えば聞こえはいいが、継嗣の目から見ても、その忠節は不気味だった。

 自分自身、守宮が背負った自宅警備員の宿命に殉ずる覚悟はあったが、それにも増して守宮に忠勤を尽くす鯨波子の心情は計り知れない。

 一度は継承権を剥奪され、家中でも冷や飯を食わされていた長男坊主にどうしてそこまで尽くせたのか。

 その答えは鯨波子本人以外、誰にも分からなかった。


 継嗣がどれほど拒んでも、鯨波子はその後を追いかけた。

 それから約十年。小中高一貫し、どのような手段を用いたかは不明であるが、継嗣と同じクラスに潜り込み続けた鯨波子は、必然、最も互いをよく知る幼馴染になってしまっていた。

 そして高校卒業と同時に監視役を辞すると、いきなり姿を消し、今また唐突に目の前に現れたのだ。

 嫌っていいのか憎んでいいのか。いつの間にか鯨波子は継嗣にとって、なんとも割り切り難い、微妙な立ち位置に収まってしまっていた。



 ■  ■  ■




 意識を今に振り戻すと、鯨波子は継嗣をじっと見つめていた。

 視線がどことなく熱っぽく見えるのは夕焼けのせいなのか。気押されて、思わず目をそらしてしまう。

 そんな戸惑いを笑い飛ばすように、鯨波子は嬉しそうに眼を細め、言った。


「思えば私たち、夕暮れに縁がありますね」

「だとしたら腐れ縁と言う他ないな」


 継嗣の冷淡な返しに、鯨波子はうっとり虚空を見つめ、嘆息した。


「腐っても切れない縁……素敵です」

「……知っているか鯨波子。昔の人は夕暮れの事を『逢魔が刻』とも呼んだそうだ」


 呪われた時間だからこそお前みたいな厄介者にも出会う。

 そんな遠回しでささやかな意趣返し、のつもりだったのだが、


「やだ、継嗣さま。魔性の女だなんて褒めすぎですよ」


 案の定、褒められたつもりになって、はしゃぎ始めた。

 照れ隠しなのか、鯨波子の右手は忙しなく宙を扇いでいる。


「……お前よりは妖怪の方がまだ話が通じる気がするな」

「もう、私はそんなにお高い女ではありませんよ?」


 会話の歯車がどうにも噛み合わない。それどころか言葉を交わすごとに疲労が蓄積していく気がした。

 継嗣は油断して、思わず目についた疑問を口にしてしまう。


「そういえばお前、今日は和服じゃないんだな」

「……あら?」


 あれから、正体を現した鯨波子は平生へいぜいでも着物を着込むようになった。

 あの事件までは悪目立ちを避ける為に洋服を着ていたそうだが、当人の好みではなかったらしい。

 少なくとも継嗣の記憶に残る鯨波子の装いは、よほどの理由でもない限り、常に和服を貫いていた。


「……なんだ、その反応は」

「だって驚くじゃないですか……あの継嗣さまが! 服と言えば雲丹黒うにくろ芝村しばむらしか知らなかったあの継嗣さまが!」

「おい、その話は忘れろと言ったはずだ!」


 顔を真っ赤にして激昂する継嗣。

 中学の頃、衣服に関する話題で格安ファッションの老舗である雲丹黒と芝村しか知らず、周囲から失笑を買った事があった。

 それから友人たちを見返す為に洒落っ気も磨き、お陰で高校時分にはそれなりに見栄えもよくなっていたのだが、今着ている物がうっすら汚れたTシャツにトランクス一丁なのだから、あまり意味があったとは思えない。

 

「これは失敬。ほらほら、どうですか? 初恋相手だった幼馴染の、久しぶりの洋服姿! 何ならお詫びに一枚や二枚、めくってもらっても構いませんよ?」


 まったく悪びれる様子もなく、鯨波子は立ち上がると嬉しそうにくるくる回りながら服の裾をひらめかせた。

 我慢の限界が近い。


「……おい、お前は何しにここへ来た?」


 このままでは埒があかない。継嗣はようやく意を決して核心をついた。

 そんな気勢を感じ取ってか、鯨波子はいささか名残惜しそうに着席すると、小さく咳をして喉を整える。



「数年振りの再会ですから、もう少し談笑を楽しみたかったのですが……仕方ありませんね」


 真剣な面構えが功を奏したらしい。

 やっと本題に入るらしく、鯨波子も喋り出す前に逡巡しゅんじゅんがあった。


「お察しの通り、ここへは仕事で参りました。そうでなければ『自宅』に立ち入る事なんて出来ませんよ」

「――ちょっと待て。お前はもう監視役を辞めたはずだろう?」

「はい御存知の通り。晴れて御役御免おやくごめんの身の上です」


 鯨波子は変わらず涼やかな声で言ったが、逆に継嗣の顔からは一気に血の気が引いた。


 自宅とは『地鐸』を祀る本殿であり、多事多難を回避すべく、その存在は世間から隠匿されている。

 故に、許可なく自由に出入りできる人間は限られており、その権利を有する者は決して多くない。


 自宅を守護する自宅警備員と、その家族。

 遊撃的に外敵を滅し、時にその代役を務める事もある控え自宅警備員・副自宅警備員。

 政府から派遣され、自宅警備員の生活を多方からサポートする便利屋・警備補佐官。

 当主に代わり、その耳目となって陰ながら周囲の人々を監視、補佐する目付役。

 そして、もう一つ。


「まさかお前――」

「――その前に」


 継嗣が答えを口にする直前、鯨波子は言葉を被せるように制止した。

 いつの間にか穏やかな雰囲気はなりを潜め、触ればたちまち凍えそうな目つきでこちらを見つめていた。

 極端なまでの公私の切り替え。相変わらずな幼馴染の様子に継嗣も思わず苦笑する。


「当主様――いえ、前・当主・守宮順敬やもり じゅんけい様からの御命令で、継嗣様の素行を正してほしいと申し付けられております。僭越ではありますが、当主様をお見立てしても宜しいでしょうか?」


 自宅警備員を品定めする。

 なんとも不遜な物言いに聞こえるが、問いかけられた継嗣の胸に不快感はない。

 鯨波子にはそれを裏付けるだけの見識が備わっている事を、よく知っていたからだ。

 

 鯨波子は幼少のみぎり、自宅警備員の開祖・守宮創冠やもり そうかんが残した精神論書『自宅警備心得』全巻を読破し暗記した聡明さを買われ、順敬から直々に跡継ぎの監視役へと大抜擢された異色の経歴の持ち主だった。

 もしこの世に『自宅警備学』なる学問が存在すれば、鯨波子はその道に精通した知識人と言える。

 事実、その知識に救われた事もあった。『苦手』ではあるが『信頼』はしているのだ。

 継嗣は無言で頷いた。


「それでは失礼して」


 ずいと身を乗り出し、顔を近づけてくる鯨波子。継嗣の身体を隅々まで入念に調べ、眺め、時折、匂いまで嗅いでいる。

 数分間、継嗣の全員を洗いざらい調べ尽くした鯨波子は一つ大きな息をつくと、再びゆっくりと椅子に腰掛け、目を閉じた。


 今、鯨波子の脳内では『自宅警備心得』に記された、幾万にも及ぶ検査項目が乱れ飛んでいる。

 それを先程、検分した継嗣の有り様に照合し、継嗣が果たして立派に自宅警備員として相応しい男に成れているか、チェックしていくのである。

 しばし両者無言のまま、重々しい時間が流れた。


「では、申し上げます」


 沈黙を破った言葉の重みに、思わず継嗣も居住いを正す。

 すると鯨波子は、まず最初に継嗣の頭を指差した。


「まず頭髪――――ところどころにシャンプーの残り香がします。昨日、お風呂に入られましたね? 風呂など一週間に一度で十分です」


 初手から早速、痛い所を突かれてしまった。

 自宅警備員たるもの、風呂は健康を害さぬ程度に控えるべきである。

 だが、継嗣は世俗の常識にとらわれ、未だに毎日、風呂につかる怠惰な日々を送っていた。


「……肝に銘じておく」

「それになんですか、その整った髪型は。整髪料まで使っていますね。自宅警備員たる者、左様な些事に気を使う余力があるなら自宅警備に目を向けなさい」

「す、すまん」

「次に、自宅警備員たるもの、みだりに女性と会話するべからず」

「…………」


 こればかりは鯨波子に見立てを頼んだ時点でアウトである。

 だが継嗣はそんな当たり前の反論を口にはしない。


 『自宅警備心得』は一昔前に書かれた古い書物であり、著者である守宮創冠の偏見がふんだんに織り込まれていた。

 どうしても当世の世情とは食い違いが生まれている。

 それをわざわざ指摘する事は自宅警備の魂を汚す行為であり、開祖・創冠への冒涜であった。


 その後、指摘された不備は三十五点にも及び、継嗣はそれらを無言で受けとめ、己の未熟さを改めて実感した。

 事が終わり、さしもの鯨波子にも疲労の色が見える。

 鯨波子が飲みかけの紅茶を一息に飲み干したのを確認すると、継嗣はティーポットをひょいと持ち上げ、空になったカップに紅茶を注ぐ。


「あ、ありがとうございます」

「勘違いするなよ。当主が配下の労をねぎらうのは当たり前の事だ」


 そんな継嗣の突然のもてなしに目を丸くする鯨波子。

 まるで道端に落ちた金塊でも見つけたように、その身体は硬直しながらも目はギラギラ輝いていた。

 だが固まっていたのも僅かな間。

 手荷物から素早く魔法瓶を取り出すと、その中に迷いなくカップから紅茶を流し込み始めた。


「……お前は何をやっているんだ」

「だって、継嗣さまが入れて下さった紅茶なんですよ。すぐに飲んだら勿体ないじゃないですか」

「煎れたのはお前だからな?」

 

 鯨波子が煎れ、継嗣が入れた紅茶。なのだが、鯨波子の中では既に継嗣が入れた事になっているらしい。

 今更、鯨波子の奇行に突っ込みを入れるのも面倒くさい。何より、なぜ空の魔法瓶を携帯していたのか問うのが恐ろしかった。

 自分も飲みかけだった紅茶に口を付け、継嗣はしぶしぶ鯨波子の汲取手作業を眺めていた。


 魔法瓶の蓋を、まるで宝物庫の鍵でもかけるように固く締め上げ、ほくほく顔の鯨波子。

 その顔はすっかり職務の切り替えを忘れ、先程までの穏やかな風采に戻っている。

 そんな様子を呆れながら眺める継嗣。


「やっぱり、お前の考える事だけは理解できそうにない」

「奇遇ですね。私も継嗣さまのお考えは今ひとつ分かりかねます」


 互い、涼しい顔で憎まれ口を叩く幼馴染。

 その姿はどこか楽しげで、やはり傍からは気心の知れた間柄のようにも見えた。

 ふと、継嗣は鯨波子の、鯨波子は継嗣の胸中を想像する。

 しかし、やはり理解できぬ互いの心中に思いを馳せながら、二人は同時に大きな溜め息をついた。



 ――本日は自宅にやや異常あり!

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